3章(1);昔の話


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『カフェR』の閉店時間は遅い。
平日・土日祝日に関わらず、最寄り駅の終電が終わってからおおよそ30分後だ。
「終電で帰路につく人々にも、帰宅前にほっと一息つける静かな場所があってもよいのではないか」
という、クロさんの考えが反映されている。

けれどこの日『カフェR』のドアには
いつもよりも随分と早い時間から“closed”の看板が下げられていた。
まだ夕食の時間を少し過ぎたあたりだ。

「もう夜になっても気温下がんねぇなぁ」

店は閉まっているけれど、いつもと同じく、店内の明かりは灯されている。
フロアにいるのは3人だ。
シロさん・クロさんと、2人と同年代の初老の人物が1人。
マサキとヒロキの姿はない。
マサキは「もう1つの仕事」にでかけているためで、
ヒロキの方は、大学が始まる前にとバイクで旅行に出掛けているためだ。

「そうねぇ。昼に買い物に行ったときも、
 コートなんか着て出て失敗しちゃったわ。そろそろ衣替えしなくちゃ」

「そんな季節だなぁ」と答えたのは客席の人物で、
クロさんの方は「おれはもうすませた」と、分かりづらいながらも表情を少し得意気にしている。

「山崎、何飲む?」

クロさんがたずねた。
山崎と呼ばれた人物は、空になったグラスを見せて「同じやつ」と答える。
溶けかけた氷の音が小さく響いた。

「もうお前これ持っておけ」

クロさんはそう言って、山崎の前にウィスキーを瓶ごと渡してしまう。
日頃店では出していない瓶で、もともと、思い出したように時折ふらりとやってくる山崎のためだけに置いてあるものだ。
中身を干されてしまっても問題ない。

「しかしなぁ。
 この年になると、ますます時間が経つのが早まってくる気がするな。
 おい、お前たちんとこのあいつ、坊主いまいくつだったっけ?」

「21歳よ」

「うわぁーなんだもう酒も煙草もいけんじゃねえか。
 いつの間にか大人になりやがってあの坊主」

言って思い出したように、山崎はふところから煙草を取り出す。
めざとく見つけたシロさんは
「店内は禁煙。吸うなら外で」
と釘をさしに入る。

「どっちもあいつはやらんがな。お前と違って」

外に出るのが面倒だったのか、
山崎は苦笑して、そのまま出した煙草をしまってしまった。

「あの坊主がここ来てから、もう6年か?
 ……じゃあ、お前らが夫婦になってから7年か。
 どうだよ、夫婦生活は」

言われて、シロさん・クロさんは顔を見合わせる。

「まぁ、楽しくやってるわよ」

「そうだな。楽しくやっている」

うははは、と山崎は愉快そうに笑う。

「そりゃ何よりだ。
 まさかお前ら2人が結婚するなんてなぁ。
 昔は考えられもしなかったが、楽しいならけっこうだ」

「忘れないうちに」と山崎は、足下の紙袋から花をとりだした。抱えきれないほどの、大量の花束。
山崎は毎年、地味な色のものでなく、華やかな色合いのものを選んでくる。
受け取る者たちもその方が嬉しいはずだと、確信しているからだ。
シロさんとクロさんも、それに異存はない。
「そんなとこに入れてくるな」と口だけで怒りながら、
クロさんはそれを受け取って、そのままカウンター奥のキッチンに消えた。
いけるための花瓶を探しにいったのだろう。

「……で、お前ら、夫婦生活楽しいようでよかったけどよ。
 夜の生活的な方はどうなのよ」

「あんた、わたし相手じゃなかったらそういうこと簡単にきくのやめなさいよ。
 そういうの“セクハラ”って言うのよ」

「わぁーかってるよ。いいだろお前なんだから。
 で、どうなのよ」

「……あるわけないじゃない。私たちの間で。
 試してみようかとも何度か思ったけどね。別に変わってないわよ。
 わかってるでしょう」

山崎は満足そうに笑って頷いた。

「どうしたのそんなこと、突然。
 あっ、あなたまさか実は7年間ずっとそれ聞きたかったとかじゃないでしょうね?」

「いやぁ。そのまさかでさ。
 ずっと気になってたんだが、どうにも聞きにくくてな」

「あなた、そういうところあるわよね。
 デリカシーあるようなキャラじゃないのに、妙なところで溜め込むの」

うるせぇよと言う山崎の顔は少し赤くなっている。
そこにクロさんが戻って来た。
一抱えもあった花束は、その量の豪華さを損なうことなく、
けれど1つの花瓶の中に綺麗におさまっている。
片手には花瓶を、
もう片方の手には、焼酎の大瓶が抱えられていた。

クロさんがカウンターの中央に花瓶を置いてしまう間に、
シロさんはグラスを5つ、取り出した。
そこに大瓶で持って来た焼酎を、それぞれなみなみと注いでいく。

3人の前に1つずつ、
そしてカウンターの2人分の空席に1つずつ、グラスが置かれた。
山崎もグラスを焼酎の方に持ち変える。

持ち変えたグラスを掲げながら山崎が言った。

「では。せっかちな宇宙人2人のために、献杯!」

そうして度数の低くはないグラスの中身を
3人一緒に、飲み干した。


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シロさんとクロさんの2人は、
2人がまだその名前で呼ばれるよりも前から
自分を「宇宙人」のようだと思いながら過ごしていた。

そう思う理由は2つあった。
1つは、特別な体質を持っていること。
もう1つは、恋愛の対象だ。

シロさんとクロさんは、
それぞれ、一風変わった体質を持っていた。

シロさんは、近くにいる人間の考えが読めてしまう体質。
幼い頃はそれで随分と苦労をした。
聞きたくない声を聞き、知りたくないことを知った。
一時は外に出ることも、
家族とともに過ごすことにも苦痛を感じたものだったけれど、
大人になるにつれ、自分の体質を制御する術を覚えた。
また、身体が衰え始めてからは
どうやら体質も一緒に衰えているらしいこともわかった。
今では、よほど強い想いを持った人物が目の前にいるか、
相手に直接触れるかしなければ、
聞かれるはずではない声を拾ってしまうこともなくなった。

クロさんはさらに少し変わった体質を持っている。
その特色は主に2つあって、
1つは、シロさんや、マサキやヒロキのような“変わった体質”を持った者たちの
その体質の干渉を受けない、というものだ。
例えばマサキが相手であれば、触れられても記憶を抜き出されることはないし、
シロさんが相手であれば、どれだけ強く想いを抱いても、触れられても、
心を読まれてしまうことがない。

2つめは、自分たちのような“変わった体質”の者を集めてしまう、というもの。
こちらについては、クロさん自身には本当に“そう”なのか、自信はない。
けれど実際、クロさんの周りには
変わった体質を持った者たちが、まるで呼ばれたように集まって来ている。
シロさんも、マサキも、ヒロキも。
シロさん以外は気づいていないけれど、
素知らぬ振りをして、実は今までに『カフェR』を訪れに来た客の中にも
何人か、そうした体質を持つ者たちがいた。
『カフェR』をつくる前から、年に数度はそうした者たちに会う。
クロさん自身には呼んでいるつもりは全くないから、
まぁ磁石みたいなものなのだろうと捉えている。

そんな性格の体質だったから、
日常生活を営む上でクロさんは、体質のせいで苦労したことはない。
ただ “変わった体質”を持った人間がいれば、その人物が“そう”であるとわかってしまうため、
幼い頃は、それを素直に口に出しては、大人達に変な顔をされていた。
どうやらこれは言わない方がいいことらしいと分かってからは、
静かに口を閉ざした。
その癖のせいで、日常レベルで無口なタイプになってしまったけれど、
それでクロさん自身が困ることはなかった。
それだけのものだった。

2人が自分たちを「宇宙人」だと思っている、もう1つの理由。
恋愛対象が「一般」とは変わっていた。
男性であるクロさんは男性に、
女性であるシロさんは、女性を相手に恋をした。

こちらの方には、シロさんももちろん、
クロさんもけっこうな苦労をした。
「変わっている」わけではなく
自然とそういうふうにできているものなのだということにも
いずれ2人は気づくのだけれど、
少数派であることには違いはなかったし、
それによって、不本意ながらも不便が生じることも事実だった。

体質よりもむしろ、こちらの方が「異常」なのではないかとクロさんは思っていた。
友人たちとの恋愛の話にはついていけないし、
強い友情なのだと思おうとしていた友人への感情に
どうやら欲が含まれているらしいことがわかったときには、
その想いを持て余して苛まれた。
女性に対しては、
苦手であったり、親しくなれなかったりするわけではなかったけれど、欲はわかなかった。

男に惚れる自分は女の心を持って生まれて来たのだろうかと考えたこともあったけれど、
男である自分の身体に対する違和感はなかったし、
考えに考えても、
「自分は男である」ということには疑いもわかなかった。

つまり自分は、男が好きな男なのだ。
そのことがハッキリして、愕然とした。
“変わった体質”を持ったものは、時折見かける。
けれど「男を好きな男」には、クロさんは出会ったことがなかった。
友人の話を聞いても教科書を見てみても
男は女を好きになるもので、男を好きになるのは女で。
欲の捌け口も感情のぶつけ先も見つけられず、
鬱屈とした日々を過ごした。

けれどそれも、20歳になるまでの話だ。

20歳になって、
当時クロさんは食品の卸の仕事をしていたのだけれど、
仲間と入った居酒屋で
「男が好きな男」が集まる地区があるという話を聞いたのだ。
ひやかしと、からかいの混じった口調でもたらされたその情報は、
けれどクロさんには大きな衝撃を与えた。

自分だけではなかった。
それがわかった。
それが大事だった。

話を聞いてからひと月もあけず、
クロさんはその地区を訪れた。

少し離れているとはいえ、その地区は繁華街の近くにある。
自分がそこに足を踏み入れたことを、何となく周囲の人間には知られたくなくて
「そうでない」人の集まることが多い金曜や土曜の夜は避け、
初めてその地区に足を踏み入れたのは、平日の夜だった。

その地区の、
路地を少し入った先の、目立たない、けれど店内の明かりがまぶしく見えた店の1つを選んだ。
そうしてそこで「自分と同じ」ような男たちと出会った。
自分の指向を隠さなくてもよい「安心していられる場所」ができた。

その地区では、いろいろな人間に出会った。
いわゆるゲイタウンとして知られた地区だったけれど、実際はそれ以外の指向を持つ者も集まる場所だ。
クロさんと同じく、男が好きな男がいた。
女が好きな女もいた。
男も女もどちらも好きだと言う人間や、
男にも女にも恋愛感情を抱かないという人間もいた。
男の身体で生まれたけれど女の身体になりたい人間、
その逆もいたし、
身体は変えなくても、服装や見られ方は変えたいという人間もいた。
また、身体を今とは違った性に変えたいと望む者の中にも
男を好きになる人間も女を好きになる人間も、
どちらも好きになったりどちらも好きにならなかったりする人間もいた。

カルチャーショックとはこういうことを言うのかと、クロさんは何度も思った。
その地区では、基本的にはあらゆる性が自由だった。
身体と、気持ちと、好きになる相手と、他人からの見られ方と。
それらのうち、どれをどう望むのか
人によって違いすぎた。
その地区ではそれが普通だった。
その地区以外でもそうであればいいのにと何度も思ったけれど、
なかなかそうはなってくれない中、
その地区で過ごす時間は、どうしても特別なものだった。

その地区で、クロさんはたくさんの人間に会うことになる。
たくさんの恋愛を謳歌して、
「とりあえず死ぬまでこいつと一緒にいたい」と思える相手に出会い、
奇跡的に両想いになれたりした。

シロさんと出会ったのも、この場所だ。

その地区には男の方が多く集まっていたけれど、
中には女のために開けてある店もあるのだ。
シロさんの存在に気づいたのは、そんな店の前を通りかかったときだ。

遠目から姿を確認して、すぐにわかった。
店のドアの前で、少し疲れた顔をしている小柄な女性が
“変わった体質”の持ち主であること。
とは言え、そうした体質の者を見かけることはクロさんには珍しいことではなかったから、
はじめはそのまま、ただ通り過ぎようと思っていたのだ。

「あれ?」

けれどすれ違い様、
シロさんがそう言って、クロさんの袖を掴んだ。
不思議そうな顔をして、シロさんはクロさんの顔を見つめている。
少し顔色が悪かった。

「……飲み過ぎか?
 顔色が悪い。大丈夫か?」

その顔色の悪さに、
関わる気のなかったクロさんも、話しかけざるを得なくなってしまった。

「……」

けれど不思議そうな顔をしたまま、シロさんは何も言えずにいた。
袖は離してくれなかった。
だからシロさんが不思議そうな顔をしている理由を考えて、
随分と考えて、やっと思い至った。

「……あんた“変わった体質”持ってるだろ。
 おれも、そうなんだけど。
 あんたがどんな体質なのかは、わからない。
 けど、あんたが不思議そうな顔してるのは、そのせいなんじゃないかな。
 違うか?」

「あ、うん、そうなの。
 えぇ、なんでわかるの……っていうか、あなたもそうなの?
 うわぁどうしてわかったの?
 いるんだ。私以外にも、いるんだ……」

少し涙ぐんで言われたその言葉に、クロさんは純粋に驚いた。
“変わった体質”を持った人間が複数存在していること。
それはクロさんにとっては当たり前のことだったけれど、
自分以外の“変わった体質”の持ち主にとっては、そうではなかったのだと思い知った。

それがシロさんとクロさんとの出会いだった。
その日をきっかけに2人は時折会うようになり、
お互いの恋愛相談やら愚痴やらノロケ話やらをするようになった。

「あのね、私、人の気持ちがわかってしまうの。
 その人の思っていることが、聞こえてしまうのよ」

「人の気持ちが聞こえてしまう」体質なのに、
そのシロさんにも、クロさんの心の声はきこえなかった。
だからとても驚いたのだと言われた。
それを告白されたのは2度目に顔を合わせたときで、
シロさんは恋愛に悩んでいる最中だった。

当時シロさんには付き合っている人間がいて、
その相手には浮気相手がいた。
始めは軽い気持ちでの浮気だったらしいが、
相手の心が徐々に、自分からその相手にうつっていっているのがわかってしまっていて、苦しんでいた。
けれど付き合っている相手は、もちろん浮気のことをシロさんに打ち明けることはなく、
その片鱗すら見せることはなくて、
シロさんもシロさんで、言っても信じてもらえないであろう“体質”を理由に
相手に詰め寄るわけにもいかず、と
煮詰まっていたのだ。

“変わった体質”を持っている人間がわかる、というだけで
クロさん自身には、シロさんのような特異な力はない。
けれど想像を巡らせてみれば、
“変わった体質”というのは、随分と面倒なものなのだとあらためて思った。

言葉にされない想いを受け取ってしまうとは、なんと不便なことだろう。
「相手の気持ちがわかればいいのに」と思うことは、たしかにある。
けれど実際にわかってしまったら、
わかっても、どうにもならないことであったら、それはどれだけもどかしいだろう。

人混みではいちいち、
苛々している人の、その苛立ちを受け取ってしまう。
聞きたくない声が聞こえてしまうらしいのだ。
自分だったら保たないな、と思った。

これも何かの縁だろうと、
クロさんはそれから、たびたびシロさんの相談や愚痴を聞く役割を担った。
幸いなことに、クロさんの感情や想いは、シロさんにも聞かれることがない。
自分が適任だろうとわかった。

そうしていくうちに、
クロさんの恋人とシロさんとも友人になり、
シロさんにも、クロさんにとっての彼のような存在ができ、
その女性とクロさんたちも仲良くなり、
それ以外にも仲のよい人間ができていった。

その頃であった人間で一番長い付き合いなのが山崎だ。
山崎は女の身体で生まれ、
けれど心は「ほぼ完全に男寄り」の人間だった。
男女関わらず恋愛もするようだったが、その感情は随分と薄いらしい。
旅が趣味だと言って、
ある程度の金をためては旅に出て、
旅先で金をためてまた別の地に旅立ったり、帰って来たりという生活をしていた。
クロさんには山崎のその「ふらふらした」生活は理解できなかったけれど、
不思議とうまがあった。

クロさんとクロさんの恋人。
シロさんとシロさんの恋人。
それから山崎。
5人でつるむことが多くなった。
行きつけの店もできた。
クロさんたちとシロさんたちとは、それぞれの相手と暮らす家を探す際、
家族ではない同性が同じ部屋に住むことを不審がる不動産会社が多かったため
クロさんとシロさん、
クロさんの恋人とシロさんの恋人とがそれぞれ恋人同士であるフリをして、
隣同士の部屋を借りた。
もちろん実際は、実際の恋人同士での生活だ。
そこに山崎が遊びに来る。
隣同士の関係というのは便利なもので、そして想像以上に楽しいもので、
不便なことも多いながらも、
穏やかで、平和な生活が続いた。

5人ともがそろそろ初老の年齢が見えはじめて来て、
そんな日々が、それぞれの寿命が尽きるまで続くのだろうと思っていた。

その日々が唐突に終わったのが、11年前だ。
4人で旅行に出掛けたその帰り道、事故にあった。
高速道路をおりた、そのすぐ先で、後ろから車に衝突されたのだ。

運転席と助手席にいたクロさんとシロさんは後遺症も残らず、軽症ですんでしまった。
後部座席に座っていた、クロさん・シロさんの恋人たちは助からなかった。
生死の明暗をわけたのは、座っていた席、ただそれだけだった。

それぞれの伴侶を亡くしてからの数年は大変だった。
初老にさしかかりもすれば、終わりの時を考える時間も増える。
いつかのことを、少しずつ思って覚悟を固めつついたとも思っていた。
けれどまさか、こんなにも唐突に終わるとは思っていなかったから。

それぞれの仕事を終えて、
それぞれの部屋に帰って来て。
もう明かりがついていることも、明かりをつけて待っていることもない。
買い込む食材の量だとか、歯磨き粉の減り方だとか、
つけていたテレビがCMに入ったその一瞬の静けさだとか、
そんなたくさんの小さなところで
「1人」であることを思い知らされることが重なって行く。
以前までと同じ部屋で、
隣には友人が住んでいて、
時折隣室の生活音が聞こえて来て、
けれど聞こえて来るその音も、以前よりも小さく少ないもので。

連れ合いのいた部屋で生活し続けることが困難で、
じゃあ引っ越そうかと考えてはみても、それこそ無理な話だった。
たくさんの思い出が残されているのがつらくて、
けれど残して去ることも選べなかった。

去ってしまえば、離れてしまえば、
溢れるほどの思い出たちが、本当に溢れて
こぼれて消えてしまいそうな気がした。
もう二度と拾い集めることなどできないとわかっているのに。

ぶつかってきた相手も亡くなっていたから、
相手のご家族も、それはそれは悲しみにくれていて。

だから誰に、どこに自分たちの気持ちをぶつければいいのか、吐き出せばいいのか
クロさんにもシロさんにも、山崎や他の友人たちの誰にもわからなかった。


わからないまま、どうにもできないまま
どうしようもない時間が過ぎて、
何回か季節を超えたころ。

どうしてそう感じたのかは、シロさん自身にもわからない。
けれどよく晴れた、春の訪れを感じるような
急に気温が上がり
空気のにおいも変わって来たある休日の昼に、思ったのだ。

(このままじゃわたし、カビでも生えて来ちゃいそうだねぇ……)

たくさんのものを抱えて、
抱えきれないそれらで両腕がいっぱいで、
抱えたまま、
ただ仕事をして帰って来て、家事をこなして眠りについて、
そんな日々。
生活があるから、
決して、物理的な意味では家の中に閉じこもっていたわけではなかったけれど、
随分と長い間、外に出ていないような気がした。

外に出てみようか。
そう思った。
両腕の中にあるたくさんの、宝物のような荷物は離さないままで、
けれど少しだけ、抱え方を変えてみた。
両腕に抱えるのをやめて、
大きなリュックに入れて後ろに背負うようにイメージしてみた。
抱え方を変えたら視界がひらけた。
身動きがとれるような気持ちになった。

(……クロちゃん、なにしてるかな)

帰宅した時や、朝ゴミを出すときには時折、顔を合わせていた。
そんな日には時々は一緒にご飯も食べたし、
一年に一度、事故があって2人を失った日には、
毎年なんとなく、ともに時を過ごして来た。

けれど、それらのどんな瞬間についても
シロさんの記憶には刻まれてはいない。
残ってはいるのだけれど、
どれもひどくおぼろげで味気なく、薄い幕をかけたように色彩がない。
現実味がない、なんだか夢の中の出来事のようだ。

ふいに視界がひらけると、隣室の友人のことが気になった。
彼もまた自分と同じように、
頼りない、色のない、足下の感覚を失ったような日々を過ごしていたのではないだろうか。
過ごしているのではないだろうか。

気になってみるといてもたってもいられず、シロさんは隣室に向かった。
呼び鈴を鳴らすと、ガタンと物音が聞こえて
それからゆっくりと、ドアに近づいてくる足音が聞こえた。
その緩慢さに悲しさがこみ上げた。
彼もきっと、今もきっと、幕の中にいるのだ。
それがわかってしまって。

言われなくても、聞こえなくても、わかることもあるのだ。
わかってしまう、それだけの長い付き合いを、自分たちはしてきたのだから。


それからシロさんとクロさんとは、「久しぶり」を重ねていった。
はじめはシロさんが無理矢理誘うようにして。
外食したり、観光にでかけたり、あの色とりどりの地区にも足を運んだ。
日本にいる時には、山崎もよく2人に付き合った。

そうして、少しずつ生活を取り戻して行った。

そんな日々が続いて、また季節が一巡りしたころ、
2人は考えた。
自分たちにも、いつ突然の「終わり」が来るかわからない。
だからその前に、やりたいと思ったことは全てやり尽くしておこうと。


シロさんはカフェをやりたいと言った。
“変わった体質”にしても、恋愛の対象や身体のことにしても、
シロさんには「1人ではない」ことが大切だった。
だから「1人ではない」ことを感じられるような場所をつくりたかったのだ。
どちらにも子どもはなく、仕事を続けていた日々だ。
亡くした恋人達の遺産のようなものは、2人は受け取ることができなかったけれど、
それでも十分な元手となる蓄えがあった。

その話を聞いたクロさんは「それなら結婚がしたい」と言った。
本当は、元々は、クロさんが結婚したいと思っていたその相手はシロさんではなく
事故で亡くしたかつての恋人だ。

クロさんの言葉に、シロさんは驚いた。
彼女と付き合っている間、結婚をしたいというような願望を、シロさんは持ったことがなかったからだ。
クロさんは違った。
もし、同性同士でも結婚できるのであればしてみたかったのだと言う。
遺産や財産や名字についてのアレコレ以外で
それで何がどう変わるのか、クロさんにもわかってはいなかったけれど、
「家族」として公的な証が残ることには、ほのかな憧れもあったのだという。

そして、クロさんは続けて言った。
「たとえば、おれかシロちゃんかが先にいなくなるようなことがあったとき、
 それでもその場所をちゃんと、続けて行けるように」と。
結婚することには、そのための意味もあるのだと。


その申し出を、シロさんは受けた。
事故で互いの恋人たちを亡くした、そのちょうど4年後に2人は結婚した。
お互いの家族はすでに亡くしていて、
けれど山崎をはじめ、たくさんの友人たちが祝ってくれた。
「地区」の友人たちも、2人の想いを汲み取って祝福をくれた。
式はあげなかったけれど、こうして祝われるのもなかなか悪くないものだと感じた。

結婚すると同時にカフェを始めた。
そして長年住み着いた2部屋続きのマンションから
外に出た。
どうしても捨てきれないものたちだけはとっておいて、
あとは全部、捨ててしまった。
大事に大事に溜め込むことなどしなくても、
どうしたって、なくなりはしないのだということにはもう気づいていた。

『カフェR』の「R」には、「Rainbow」の意味がある。
主に性の有り様に対して言われることではあるのだけれど、
虹色は、
それぞれに様々な、多彩な、多様性を祝福する意味の込められたシンボルなのだ。
2人はそのことを「地区」で知った。
自分たちの呼ばれ方「シロ」「クロ」というのも、それがきっかけでできたものだ。
性の有り様に関わらずとも、虹色を祝う場所でありたいとの願いを込めた。
『カフェR』に集まる者たちの幸福を願う。
そういう場所にしようと。


***************


カフェをつくって最初の数年は、
ひたすら貯金を切り崩す日々が続いた。
なかなかにシビアな生活だったところに、
クロさんの体質のせいか何の縁か、マサキが転がり込んで来て、
3人での生活が始まった。

「やったことのないことをしよう」という案の中には、実は
異性との性行為や子どもを持つことも含まれていた。
けれど十分に信用している相手とはいえ、
やはり異性との性行為はどうにもうまくできなかったし、
できたところで、
年齢的に子どもを持つことも相当に難しいだろうということもわかっていた。
だから、1人立ちできる年齢が近いとは言え
「面倒を見るべき若者」との暮らしができることになったのは、2人には運のよいことだった。
しばらくは生活を切り詰める日々が続いたけれど、
カフェを開いてから3年も経つと、どうにか経営も軌道に乗って来た。

振り返ってみて見れば
なかなかに、順風満帆と言えなくもない日々が訪れていた。
自分たちの場所を持つようになってからは、
山崎はじめ「地区」の友人たちももちろんのこと、
マサキ以外にも、ヒロキや、客でも“変わった体質”を持つ者がやってくることも増え、
いろいろな人間が訪れてくれることになった。
一度閉じられた世界が、もう一度、広く大きな姿になってかえってきた。


ちりん、と小さくベルの音が鳴った。

「戻りました」という、これまた小さな声とともにドアの開く音がして、マサキが帰ってくる。

「よう、お帰り坊主。
 お前もう二十歳過ぎたんだってなぁ。こっち来て一緒に飲むか?」

「あ、山崎さん。お久しぶりです」

「おかえりなさい」

「おかえり」

「戻りました。……そうですね、
 えと、ちょっとシャワー浴びて来てから顔出します」

今日が何の日なのか、マサキも知っている。
普段はほとんど酒は飲まないマサキだけれど
今日だけは別で、参加の姿勢が積極的だ。


閉じこもりたくなるようなことが、
動くことのないものたちに囲まれた世界に戻ってしまいたいと望むことが、
ないわけではない。
かつて自分の半身を奪われた、1年に1度のこの日は特に
後ろ髪をひかれるような想いに苛まれる。
けれど、それでも。

閉じた世界は、楽しく、優しい思い出たちで溢れていて、
そこはとても魅力的だ。
そんな想いにとらわれるたび
それでも、『カフェR』があって、そこに誰かがやってくるうちは
まだもう少し、「こちら側」にいてみようかと思い直す。


少し急いだような足音が通り過ぎて、シャワーがお湯を出す音が聞こえて来た。
そういえばあの足音も、
彼がやってきたばかりのころと比べると、少し変わって来たような気がする。
重みが増して、遠慮や警戒心のようなものが薄くなっているように感じられた。
なんだって、変わっていくのだ。

あぁして疲れて帰ってくる若者がいるうちは、
続けられるうちは、続けられるだけは、この生活を続けてみたい。
思いながらシロさんは、グラスをもうひとつ取り出した。

やはり、なかなかに悪くない生活だと思った。

(to be continued...)

#小説


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