2章(1);彼の呪いの話

***************

あるところにすんでいたかわいらしいおとこのこは、
呪われたような体質をしていました。
おとこのこがそのことに気づいたとき、
かれはまだ、ほんのちいさなこどもでした。

***************

「あのね、もうすぐバレンタインですけれども、
 マサキさんまだ美咲と付き合ってるの? うまくいってるの?
 別れる話とかは出てないの? 別れたらどう?」

「なんでヒロキはすぐ僕たちを別れさせたがるの」

夕方の、込み合う時間になる少し前の『カフェR』では
今日もヒロキが、所定の席でマサキとの会話を楽しんでいた。

「別れないよ。とりあえず、美咲さんが別れるって言い出すまでは。
 今のところは」

マサキの答えは、ヒロキがいつ訊ねても、どんな訊ね方をしても変わらない。

「俺マサキさんのこと好きだけど、
 そういう主体性ない考え方するとこはちょっとどうかと思う」

「うるさいよ」

そこが自分の欠点であると、マサキ自身も感じている。
そんな自分が好きではないのだけれど、そういう性格なのだから仕方がない。

「だいたい、なんでお前美咲さんのこと“美咲”って呼ぶんだよ」

ニヤリと笑ってヒロキは言う。

「メル友だからね!
 マサキさんと付き合ってさえなければ、俺あいつのこと結構好きだし。
 俺たち仲いいんだよ。客にすんのやめて友達になったの。
 楽しくやってるよー同い年同士。
 どう、妬ける? 嫉妬する?」

「……別にしないよ。
 年齢だって2つしか変わらないだろ年寄り扱いするなよ」

「俺たちの年齢で2この違いは大きいんだぞー。
 マサキさん、顔幼いくせに考え方とか高齢者だよね。そんなところも好き」

「おい」と食器を磨いていた手をとめて反論しようとすると、
そのマサキの隣に並んでカウンターに立っていたシロさんが笑って言った。

「この子はたしかに、昔っからあんまり若いところのない子だったねぇ」

「シロさん……。いや、僕まだ本当に若いんですから」

シロさんと呼ばれた彼女は、この店を経営している夫婦の1人で
中学を卒業したばかりだったマサキを住み込みで働かせてやる、その決断をした人だ。

「マサキちゃん、美咲ちゃんからチョコレートもらえるといいわねぇ。
 あの子、たまにしかここに顔出さないけど、仲よくしてるんでしょ?」

「はい、まぁ、その」

マサキは困ったように少し顔を赤くする。
シロさんはそれを見て「あら可愛い」と言うし、
ヒロキは不機嫌そうな顔をして舌打ちをする。
美咲と付き合いだしてから、店では少し、やりにくい。

「おい、そろそろ時間じゃないか」

カウンターの後ろ、厨房から低く太い声がした。クロさんだ。

「あ、本当だやばっ」

ヒロキは急いでコーヒーを飲み干し、マサキも慌てて奥に入ってエプロンを外す。
うっかりしていた。
以前は仕事に関してはこんな風になることはなかったのだけれど、
美咲と付き合いだしてから、なんだか調子を崩している。
彼女に影響を受けているのは、ヒロキやシロさんだけではないらしい。

「気をつけてねぇ」
「気をつけるんだぞ」

夫婦の声に送られて2人は店を出る。
ドアのベルが、いつもより大きな音を立てた。

「そこのコンビニでノート買ってっていい?
 で、そうするとたぶん電車だと間に合わないから、タクシーで。
 タク代は僕が出すから」

「りょうかーい」

小走りになってコンビニに向かう。
マサキがノートを買う間にヒロキがタクシーを探してくれていて、
会計をすますと、すぐに乗り込める体勢が整っていた。
行き先の住所も伝えてくれていたようだ。仕事が速い。
スムーズに走り出したタクシーの車内でヒロキが言った。

「ね、美咲さんには言わないの? マサキさんの“体質”のこと」

「言わないよ。お前、ばらすなよ?」

ヒロキは苦笑する。

「しないよそんなこと。
 言ったって、どうせ信じないだろ」

それもそうだと答えて、マサキも苦笑した。

***

「こんにちはー、『カフェR』の者ですー」

たどり着いた先、何の変哲もない民家のインターフォンに向かってヒロキが言う。
これから自分が、自分たちがすることを考えると
どうしてもマサキの気は重くなってしまうのだけれど、
ヒロキの声からはそういった感情は一切感じられない。
それがとても不思議なことのような気がした。

ガチャン、と鍵の開いた音がして、中からあらわれたのは中年の男性だ。
二ヶ月ほど前から『カフェR』に来るようになって、
シロさんの審査の末、2人の「客」となることになった男。

男にすすめられるまま2人は家に入って行く。
マサキの沈んだ気持ちと、男の抱えている不安とが空気を重くするけれど、
ヒロキの「はーいおじゃましまーす」という明るい声がそれをすくい上げる。

通された居間でお茶を出されかけたが
「あ、そういうのほんとおかまいなく」とヒロキが言って、すぐに本題に入ることになった。

今日はもともとは、ヒロキのみが仕事を請け負う予定だった。
マサキにも依頼がいくと決まったのは数日前のことで、
つまり、今日の仕事のメインはヒロキで、
だから彼が率先して話をすすめていくかたちになった。
料金は前払いで受け取る。そういう仕組みになっている。

茶色い封筒に入れられた、厚みでみればそれほどでもない料金を受け取ると、
まずはヒロキからだった。

ヒロキが居間で仕事をしている最中、マサキは別室に通される。
2人が一緒の対象に仕事をするのは珍しい。
けれど初めてではない。
別室で待つ、この時間がマサキは大嫌いだ。
別室のヒロキの様子は見えない。
けれど聞こえるのだ。
音が、
息づかいが、
おそらく堪えているのだろうヒロキの声が。
別室で傷ついていくヒロキの様子を、どうしても想像してしまう。
(……)
それでも、
どんな仕事内容だったのか、想像しかできない状態で
仕事を終えて帰ってくるヒロキを、ただ『カフェR』で待っているよりはマシだった。

聞こえてくる音から判断する限り、
今日の客は、それほど荒れているわけでもないらしい。
ヒロキが「仕事」とはいえ、何かしらの危害を加えられていることは間違いないから、
安心することはできないけれど。

長く感じられる時間がすぎて、音がやんでしばらくすると
マサキの部屋のドアが開けられた。
やってきたのはヒロキだった。

「おまたせー」

「……、」

仕事の前から変わらない調子で言うヒロキの姿は、
けれど口の端が切れていて、鼻からも血が出ているし、
シャツのボタンは一つ飛んでいて、よく見れば爪も一枚はがれていた。
服も乱れていたが、それは上半身だけ。
今日はそういう客だったのか。
(あー、やっぱり、無理……)
見ているだけで痛かった。

「さ、マサキさんの番だよ。
 でも俺、けっこうがんばったからさ。
 あのおっさんがマサキさんの方はもういいやーみたいな感じだったら、
 金返してこのまんま帰ってもいいんじゃないかな?」

ヒロキはそう言うけれど、
その話をつけられずにこの部屋にやって来たということは、
たぶん、そうはならない、ということだ。

自分に「仕事」をさせることを嫌がるヒロキは、おそらくすでに、相談を相手にもちかけているのだろうから。
ヒロキが言ってダメなら、口べたの自分の言葉など相手は聞かないだろうとマサキは思う。

「ダメ。僕も金欲しいから」

マサキがそう答えれば「俺が養ってやってもいいよ」とヒロキは答える。
自分の体質を利用した「仕事」をマサキ自身も大嫌いだったけれど、
ヒロキがたくさんの傷を作って稼いだ金で養われるなど、考えるだけで吐き気がした。

鞄を持って、今度はマサキが居間に向かう。
ヒロキがその後に続いた。

ヒロキがマサキの仕事の何をサポートするということはない。
ただ、見ていたいのだろうとマサキは思う。
彼は自分を心配しているから。
マサキも同じだから、ヒロキの気持ちは痛いほどにわかる。
ヒロキが「無理、耐えらんない」というから、マサキが彼の仕事の様子を見せてもらえることはなかったけれど。

自分の仕事をしている様子を見せることは、
マサキにとっては、まさに醜態を晒しているようなものだった。
けれど、ヒロキならいい。
それを見せるくらいで彼の不安が少しでもおさまるなら、いくらでも見ればいい。

「よろしく」

少し息を荒くして、居間の床に座り込むようにしていた男が言って、
マサキにメモの切れ端を渡した。
彼が息を切らしているのは、それだけの力で、ヒロキを痛めつけていたからだ。
怒りを感じるけれど、表には出さず、男から渡されたメモを読む。
オーダーシートのようなものだ。
ここに、マサキの探り抜き出すべきものが書いてある。
肩越しに覗き込んで来たヒロキが「あーこれはちょっと悲惨だねぇ」と言った。
そののんびりとした声にも、少し苛立ちのような気持ちを感じた。
けれどマサキは、やはりそれも表情には出さない。
あれは彼の仕事で、彼が望んでやっていることだ。
痛かったのも、傷ついたのも彼だ。彼自身が納得して。
だからその彼の前で、自分がそんな感情を見せるわけにはいかないと思った。
無言のまま、マサキは仕事にとりかかった。

座り込んだままの男の頭に、左手をかざした。
マサキのした行為といえばただ、それだけだった。
けれど。

そうしはじめて10秒ほど経った頃、
男のつむじのあたりから、黒い羽虫のようなものが湧いて出てきた。
一匹や二匹ではない。
何百、何千、ひとつひとつは小さなそれが、
蠢きながら固まりのようになって湧いて出ては、マサキの左手に吸い込まれていく。
「……」
羽虫の固まりは、大きくなったり小さくなったりと形を変えつつ、
けれど一切の音も無く、全て、マサキの手に飲み込まれていった。

薮や茂みや、あまり手の入れられていない池や、初夏の掃除前の学校のプール。
そんなところに、いっぱいになってたまって発生している、
人の体温を感じて集まってくる、あの小さな羽虫。
アレとよく似ているとヒロキは思う。
それが手の中に吸い込まれていく様子は、いつ見てもグロテスクだと思う。
何の音もたたないあたり気味も悪い。
あんなものを手の中に、身体の中に入れてしまうマサキの姿は、ヒロキの不安な気持ちを煽る。
そんなことをする彼は気持ち悪くて、
そんなことをしていても、彼は彼だった。

時間にすれば2分程度。
頭から湧いて出る羽虫の数が徐々に減っていって、
最後は数匹の残り滓のようなものばかりになって、
そして、虫は姿を表さなくなった。

「……終わりました」

かざしていた左手を抱え込むようにしてマサキが言った。
顔色が悪い。
そのマサキを、ヒロキが支えるようにして男から下がらせる。
呼吸が浅く、手が冷えていた。額には脂汗を浮かべている。

「じゃあ、俺たちはこれで。縁があれば、また」

無言で宙を見つめたままだった男が、ぼぅっとした視点のまま「あぁ……」と答えた。
マサキが仕事をしたあとの相手は、いつもああいった様子になるのだ。
もう少し時間が経てばいつも通りに戻る。
いや、いつもより、もっとずっとスッキリした心持ちになっている。
「客のストレスを取り除く」。
彼らがしているのは、そういう仕事だ。

***

居間を出て、ヒロキに支えられて廊下を歩きながら、
マサキは鞄から先ほど買ったノートを取り出す。5冊ある。
いつもは、もっとちゃんとした「本」の厚みのあるものを持ってくるのだけれど、
ブランクの「本」のストックを切らしていたのだ。
だから今日はノートだ。仕方がない。

歩きながら左手で取り出した
5冊重ねたままの一番上のノートの表紙に、広げた右手を当てた。
「……」
マサキの右手から、またあの羽虫のようなものが這い出てくる。
ノートが抵抗するように震えて、
羽虫は、今度はノートに吸い込まれて行く。
靴を履いて、ヒロキに開けてもらったドアをくぐって男の家から出て、
駅に向かって歩いて行く。
そうしながら、羽虫をノートに吸い込ませて行く。

男の家を出てから5分ほどすると、やっと全ての羽虫がノートに収まった。
ノートには、使い古されたように皺が刻まれている。

「面倒だし、帰りもタクっちゃう?」

稼いで来たあとのため、ヒロキもマサキも、金遣いに関しては少し気が大きくなっている。
ヒロキの提案に、無言のままマサキが頷いた。
まだ顔色が悪く、少しふらついているマサキを休ませて、
ヒロキがまたタクシーをひろってきた。

それをする彼の鼻血はすでにとまっている。
口の端の怪我も治っていて、
爪も、すでに綺麗にそろっていた。
いつもと変わらない、彼の姿がそこにあった。

***

呪いのように感じている、それは彼らの体質だった。
ヒロキは、ケガの回復が異常に早いこと。
マサキは、人の記憶を消したり移動させたりができること。
自らの体質がとても変わっているということに気づいたのは、
それぞれ、今よりもずっと若いころのことだ。

ヒロキは12歳、両親と弟とを亡くした大事故で、1人生き残ってしまったとき。
マサキはもっと幼かった。

便利だと思ったことがないと言えば嘘になる。
けれど群れを成して生活する生き物の中で、
明確に「自分は異質である」と感じながらやっていくのは存外に大きなストレスで、
脅威で、
だから2人とも、自分たちの体質をひどく嫌っている。

年齢も環境も「体質」も違った。
けれど共通していることもあった。

2人とも「体質」のせいで、一所にとどまることに困難を抱えていた。
ヒロキは、体質を隠している心苦しさのせいで、友人や家族のそばにいられなかった。
マサキは、自らのそれが明るみに出てしまったせいで、友人や家族たちの暮らす日常から阻害されてしまった。

たどり着いたタイミングはそれぞれだったけれど、
『カフェR』に出会っていなかったらどうなっていただろうと、2人はたびたび考える。
店長夫婦もそれぞれ、変わった「体質」を持っているのだ。
夫婦に呼ばれたかのように、そこにたどり着けたこと。
「体質」を隠さずにいられる場所に出会えたこと。
幸運だったと思っている。

共通点はもうひとつあった。
2人とも金を必要としていたのだ。
ヒロキは、育ててくれた保護者にいつか、返すため。
マサキは、自分の力で生きて、生活していくことができるようになるため。

そこで2人は考えたのだ。
どうしたら、自分たちの年齢でも、ある程度の金額を稼ぐことができるようになるのか。

考えだした結論が「殴られ屋」と「掃除屋」だった。
ヒロキとマサキは、自分たちの仕事をそのように呼んでいる。
キッカケは、ヒロキがテレビで「殴られ屋」という商売を行っている、とある若い男のドキュメンタリーを観たことだった。
数分いくらで、ストレスのたまった人間に自分を殴らせる仕事。
テレビに出ていた男よりも、自分の方がずっと向いていると思った。
何せ自分なら、少しくらいのケガなら、すぐに治ってしまうのだから。

とはいえ、どの程度のケガなら「大丈夫」なのか、ヒロキ自身にもつかみきれていない。
幼い頃に経験した大事故でも生き残ったのだから
相当の可能性はありそうだとは思っていたけれど、
さすがに限界までを試す勇気はなかった。
ある程度まで、試そうとしたことはあった。
けれど、ケガは治りはするけれど、ヒロキにも人並みの痛覚は存在しているのだ。
殴られれば痛い。
痛みが強ければ気を失うこともある。
例えば指や足や、もっと言えば首を落としても生きていられるのか。
落としたその部位は元に戻るのか。
心臓を刺されたらどうなるのか。
どうにかなるかもしれないけれど、どうにもならない可能性もあって、
そしてそうなってからでは、ヒロキにはもうどうすることもできない。
だから自分の体質の限界値は知らないままだ。

この仕事を思いついて、最初に『カフェR』で話したとき。
当時、すでに何かと目をかけてくれていた店長夫婦からは随分と反対された。
もっと危険の少ない、「普通」の仕事を探すべきだと。
けれど世間は不景気で、コンビニのアルバイトでさえ、採用までこぎつけるのは難しかった。
そしてそんな時勢だからこそ、ストレスをためた人間は多く、
つまり「殴られ屋」の仕事口はとても簡単に探せそうだった。
何よりヒロキ自身が、その仕事につくことを望んでいた。
稼げるだろう金銭という点でもそうだったけれど、
自分の「体質」を活かした仕事をしたいと思ったのだ。

被虐趣味があるわけではない。むしろ痛いのは嫌いだ。
けれど、圧倒的に不都合にさらされる理由となることの多かった自分の「体質」を活かすことができるのならば、
少しは、「体質」と折り合いをつけて生きていけるような気がしたのだ。

そしてマサキが、その話にのった。
「体質」のせいで不都合を強いられていること、
「体質」と自分の中で折り合いをつけるため、それを活かせるなら活かしてみたいと感じていること。
マサキも、ヒロキと同じ想いを持っていたのだ。
「体質」を利用することを恐れるのと、同じくらいに強い気持ちで。

マサキの「体質」も、随分と利用価値があった。
人の記憶を消すことができるということは、
つまりその人の怒りや悲しみや、抱えきれず持て余している感情を取り除けてしまうということだ。
大本の記憶を消してしまえば、それによって引き起こされた感情も消えてしまう。

恐ろしい力だと、マサキはいつも考える。
例えば自分が何か悪事をはたらいたとして、
目撃者がいても、その人物の記憶を消してしまえば、その悪事が明るみに出ることはなくなってしまうのだ。
そういう卑怯な力を、マサキは持っている。
生理的に受け付けられないと感じることもあった。
怒ったり、悲しんだり、何か大きく傷つけられたとき、
マサキであればその記憶を、それによって引き起こされた感情ごと、消してしまうことができるのだ。
当人にとっては、多くの場合は「救われた」と感じられることかもしれない。
けれどそれは、その人の人格を変えてしまうことになるのではないか。
楽しいことや嬉しいこと。
それと同じように、
イヤなことや失敗したこと、恥ずかしいと感じるようなこと。
そういうものの積み重ねで、「人」はできているのではないだろうか。
たとえ「負」とカテゴライズされるものであったとしても、それを消してしまったら、
その人はその人でなくなってしまうのではないか。

それをできてしまう自分の体質が恐ろしく、気持ち悪いと思った。
マサキは自分の「体質」が大嫌いだった。
そんな「体質」をもった自分を、人に災厄をもたらす者のように感じていたし、
実際にそう言われて育って来た。
けれどだからこそ、
自分が感じる「体質」への嫌悪感を少しでも解消できる可能性があるのであれば、やってみたいと思った。
これ以上嫌いになどなれないほど嫌い抜いている「体質」だったから、
逆に失うものもなかった。

店長夫婦はそれぞれに怒ってみたり、悲しんでみたり、冷静に説得を試みたりした。
けれど2人の気持ちは揺るがなかった。

だから夫婦も、2人の仕事に多少なりとも、関わることにした。
2人が仕事を行う客は、夫婦が選ぶこと。
コーディネーターの役割だ。
夫婦の「体質」を使えば、その客が極端に危険でないかどうか__2人に取り返しのつかないほどの危害を加える可能性のある者かどうか__を見極めることができた。

最初2人は、夫婦にそんな手間や迷惑をかけられないと断ったのだけれど、
夫婦は「2人がとりかえしのつかないことになったらショックで店なんてやってられない」と、わかりやすい脅迫をしてみせた。
『カフェR』は、夫婦にとってももちろん、2人にとっても大事な場所だ。
自分たちを救い上げてくれた場所。
だから自分たちのせいで、その店の存続を危うくする訳にはいかなかった。

***

2人が店に戻ると、夫婦はいつも、心底ほっとした顔をする。
そして温かいミルクティーを淹れてくれるのだ。
作り方を教えてもらって何度も挑戦したけれど、夫婦がつくるそれほど美味しいものを、
マサキはまだ一度も淹れられたことがない。

「体質」の力を使うと、マサキはいつもくたくたになってしまう。
客から抜き出した記憶と感情とを、
音やにおいや温度や湿度も鮮明に、色付きで、マサキは追体験する。
「本」にそれらを移し終えてしまうまで、
客の記憶や感情が鮮明で強いものであればあるほど、
同じほど、マサキも強くそれを体感してしまうことになるのだ。
「本」に移してしまえば、それらは徐々にマサキの中から出ていってくれるけれど、
一度味わってしまった記憶や感情は、時にマサキをひどく消耗させる。
夫婦の淹れてくれた温かいミルクティーは、削られたマサキの気持ちを芯からあたためてくれる。

「美咲ちゃん、たしか今夜遊びにくるのよね? あら、もうすぐかしら?」

シロさんが楽しそうに聞いてくる。
照れくさいような、少し気まずいような気持ちでマサキは頷く。

「ふふ、いいわねぇ。ロマンチックねぇ」

嬉しそうに言うシロさんに、マサキは苦笑を返した。
シロさんが「ロマンチック」という理由は、マサキにもわかっている。
それに同意はできないのだけれど。

自室に戻って、マサキは素早く着替えをすませる。
「体質」を使う仕事をした後は、どうにも体中がくすんでしまったような気がしてしまう。
本当は熱いシャワーも浴びたいのだけれど、
美咲がやってくるまでにもう、それほどの時間は残されていなかった。

マサキの部屋いっぱいにある本棚の中身は、
全て、もとは他人の記憶であったものたちだ。
マサキが抜き取ったほぼ全ての「他人の記憶」が、この本棚におさめられている。
捨てるなり燃やすなりしてしまってもいいのだろうけれど、
元は誰かの一部だったのだと思うと、そうすることにもためらいがあった。

「……」

そろそろいっぱいになりそうな本棚にノートをおさめ、
マサキは再び、階下へと向かって行った。

(to be continued...)

#小説


ワンコインのサポートをいただけますと、コーヒー1杯くらいおごってやろうかなって思ってもらえたんだなと喜びます。ありがとうございます。