2章(3);バレンタインの後の話


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美咲が体調を崩したと、マサキの元に連絡が入ったのは、
バレンタインの3日後だった。


14日、バレンタインの当日マサキは
カフェの仕事を終えた後、初めて美咲の住む部屋を訪れた。
シロさんとクロさんにはひやかされ、ヒロキには舌打ちをされた。
そんな反応が気にならないわけではなかったけれど、それよりも
1人で暮らしている女性の家に行くということが
こんなにも緊張することなのかと、そのことで頭がいっぱいだった。

自分と美咲は付き合っていて、
そもそも付き合いはじめる前に
もっと緊張するようなことはすませてしまっていて、
だからこんな状態になっている自分がマサキには不思議だった。

マサキにとっては、誰かの家に遊びに行くということ自体がめずらしい。
学校に通っていたころも、マサキはろくに友人を作ってこなかったし、
学校を卒業してからはカフェの2階に住み込ませてもらって仕事にいそしむばかりで、
夫婦とヒロキ以外にはロクに人付き合いをしてきていない。
思えば、随分と限定された人間関係の中でしか生きて来ていなかったのだと
あらためて気づかされる。
だからといって、そのことにマサキ自身後悔はないし、
むしろ自分から望んでそういう環境を作って来たのだという納得もある。
ただもう少し自分にも広い交友関係があれば、
こんなにも緊張するハメには陥らなかっただろうとも思った。

初めて行く誰かの家で、
それが女性で、
付き合っている相手で。

手みやげはいらないと言われていたけれど、やはり何か持って行くべきではなかっただろうか、とか、
もっと脱ぎやすいブーツにしておけばよかったとか、
そう言えば靴下に穴はあいていなかっただろうかとか、
そんなことに思いが及んだのは、すでに電車に乗ってしまってからだった。

一度気になってしまうとどうにも落ちつかず、
美咲には結局、30分ほど遅れると連絡を入れて、
彼女の家とは逆口にある小規模なデパートのようなところでプレゼントを買って行くことにした。

デパートの中、入り口を入ってすぐの一番目立つスペースでは
バレンタインのチョコレートを大規模に陳列していた。
バレンタインに彼女から呼び出しを受けるということは、
つまり、自分もチョコレートをもらえてしまうということだろうか。
陳列棚の脇を通り過ぎながら、顔が火照っていくのを押さえられなかった。

カフェの夫婦は、毎年チョコレートをくれる。
バレンタインの日の特別メニューとして、『カフェR』では毎年
チョコレートのパウンドケーキとコーヒークッキーとを販売しているのだ。
それらと一緒に、綺麗に包装されたチョコレートをもらった最初の年、
マサキは初めて「バレンタインのチョコレート」を食した。

バレンタインと言えばそれまで、マサキにとっては、クラスの様子を「見ている」日だった。
クラスの中でのマサキは「よくわからない」「気味の悪い」「近寄らない方がいい」存在として、
それはもう確固とした地位を築いてしまっていて、
だから教室の中で行われるそれらの行事では、マサキはいつも傍観者だった。
それでいいと思っていたし、
そういうものだとも思っていた。

だからこの年になって、自分がこんな行事に参加する側の人間になっていることが不思議だった。

手みやげに何を買えばいいのか、見当もつかなくて
ヒロキに連絡して相談しようとも思ったけれど、
それもなんだか間抜けな気がしてやめてしまった。

考えに考えて重い手みやげを買って、
靴下に穴があいていないかはデパートのトイレで確認をして、
遅刻しそうになって小走りで美咲の家に向かった。

3階建てマンションの最上階、6畳程度のロフトつきのワンルーム。
室内には、散らかりようもないほどの必要最低限の家具しかなくて、
部屋の中央には濃い茶色のカバーのかかったこたつが1つ。
部屋全体の色合いも、ごくごくシンプルなものだ。
イメージしていた「女性の部屋」というような華やかさはない。
美咲はすでに室内着になっていて、
手触りのよさそうな紺色のフリースの上下に、濃いピンク色のパーカーを羽織っている。
化粧も落としてしまっているようで、いつもより少し顔が薄い。

美咲さんて可愛いんだな、と感じさせられながら
室内のシンプルさに、持って来た手みやげは不適切だったのではないかと不安になる。

「……めずらしいもの持って来たね。ありがとう」

狭い玄関で、少し焦りながらブーツの紐を解くマサキの手みやげを見て
美咲は笑った。

「……あの、よくわからなくて」

マサキが渡したのは、
小さな花束と10キロの米。

「一番可愛いっぽい色にしてもらったんだけど、
 美咲さん、あんまり花とか好きじゃなかったかな……」

「いやいや、花束のほうじゃなくて。
 米って。
 私誰かからこんなたくさんのお米もらったのはじめてだよ。
 うわ、しかもこれ高いヤツだ!」

そっちに突っ込まれるのかと、マサキは少し驚く。
我ながらこちらはいいアイデアだと思ったのだけれど。

「美咲さん1人暮らしだし、
 だからその、食材って大事かなと思って。
 お米って重いし、買うの大変だろうなとか、その……」

「あぁ、うんうん、いいの驚いただけ。
 助かるよ。ちょうど買わなきゃって思ってたとこだったし。ありがとう」

ブーツを揃えるのもそこそこに、マサキはキッチンスペースに米を運ぶ。
米びつの中には、まだ十分な量の米が残っていた。
せっかく持って来た手みやげだったのに、逆に気を使わせてしまって恥ずかしくなる。
こんなことも自分はうまくできないのかと、なんだか落ち込みそうだった。

その後は美咲が用意してくれていた夕食を食べて、
テレビで放映されていた映画を見ながら、ワインをあけてケーキを食べた。
駅向こう、マサキが寄って来たデパートで売っていた、それほど高価ではない赤ワインだ。
美咲が作ったという小さなケーキは、甘さのおさえられたシンプルなものだ。
緊張しながら切り分ける、恭しいまでのマサキのその態度に、美咲はまた笑った。

映画が終わって、食器類を片付けてしまってからシャワーを浴びた。
美咲はマサキが来る前にすでにシャワーをすませていると言っていた。

誰かの家の浴室に入るというのは、どうにも緊張するものだ。
熱いシャワーを浴びながら、はじめて『カフェR』で風呂に入った日のことを思い出す。
もう忘れかけてしまっていたけれど、そう言えばあの時も、自分はひどく緊張していた。

テレビでよく流れている有名なシャンプーのセットや、
メイク落としのできるタイプの洗顔料。
肌に優しいと銘打たれているボディソープ。
どれもマサキが普段使っているものとは違って、慎重な心持ちになった。

小さなドライヤーで髪の毛を乾かすと、
美咲はすでにロフトにあがっていて、寝転がりながら本を読んでいた。
室内の灯りはロフトの間接照明だけになっていたから、
そんな中で本を読んだら目が悪くなってしまうのではないかと心配になった。

ロフトへの梯子の下、そんなことを考えながら
今さらながら、この上に自分は上がってしまって良いのだろうかと迷う。
動けずにいるマサキに気づくと、
美咲は小さな、笑うような吐息に乗せるような声でマサキを呼んだ。

シャワーを浴びて来たばかりのはずのマサキよりなお、
美咲の身体はあたたかかった。


翌朝、いつもよりも随分と早い時間にマサキは目覚めた。
目覚めた瞬間に頭が冴えているようなことは、寝起きのマサキにはめずらしい。
スッキリとした目覚めだった。
隣にはすでに美咲の姿はなく、ロフトの下、朝食の準備をはじめていた。
朝食は自分がつくろうと思っていたのに、失敗してしまった。

「おはよう。早いね」

たしかに、まだ6時半だ。

「美咲さんも早いんじゃない?」

目覚ましをかけなくても、いつももっと早い時間に目が覚めてしまうのだと美咲は言った。朝には強いのだと。
自分とは逆だ。
ひとつ、美咲について知っていることが増えた。

朝食の準備を手伝おうと思ったけれど、
キッチンスペースは狭く、用意もあらかた終わってしまっているとのことで
手持ち無沙汰に、マサキはテレビをつけた。

「あ、ごめんテレビつけないで」

言われて慌ててリモコンの電源ボタンを押す。
映画や音楽番組以外、美咲は普段テレビを観ないのだと言った。
美咲についての知識が、またひとつ増えた。

変わりに音楽をかけて欲しいと言われて、窓際のコンポの電源を入れた。
入ったままになっていたCDをそのまま再生する。
何かの映画のサウンドトラックらしい。

いい天気だった。
窓の外は寒そうだったけれど、すでに光が差し込んで来ている。

一緒に朝食を食べて、片付けはマサキが担当をして、
そのまま美咲の家を出た。
室内で感じた明るい窓の外の景色は、
部屋を出てしまえばまぶしいほどにマサキの目を刺す。
少し眠い気のする目をこすりながら駅に向かった。

とりたてて特別なことがあったわけではなかった。
けれど、なんだか胸がいっぱいになるような朝だった。


……それが、4日前の出来事だ。

その後、ほんの2日程度だけれど、美咲からの音沙汰がなくなった。
『カフェR』に来ることもなくて、
2日目の夜、少しだけ心配になって携帯に連絡を入れたけれど、電話もメールも返ってこなかった。
バレンタインの日、もしくはその翌朝
何か自分は失礼をしてしまっただろうかと不安になって、
ヒロキに相談してみれば「そういえば俺も連絡とれない」などと言う。
彼女の身に何かあったのではないかと本格的に心配になってしまって、
部屋に様子を見に行こうか、そこまでするのは差し出がましいだろうかと悩みだした3日目の朝、
美咲本人からメールが届いた。

《風邪ひいたみたいでずっと寝てたの。連絡返せなくてごめんね》

絵文字も顔文字も、何もないメールだった。
倒れているとか事故や事件に巻き込まれただとかでなくてよかった。
安心したけれど、体調はやはり心配だった。
すぐに電話をして聞いてみたところ、
熱はもう下がっていて、起きていても問題はないのだという。
けれど様子見でもう1日は寝ている予定だから、
今日もカフェには行かないでおくと、美咲はそんなことを言う。

「……」

どうしてだかわからないけれど、
悲しいような、怒りのような感情が沸き上がった。

風邪はもう治ったと、美咲は言った。
けれどやはり1人暮らしでは、体調を崩せば不便なことも多いだろう。
それで4日目の今日、マサキはカフェの仕事は休みをもらって
美咲の部屋へと向かうことにしたのだった。

朝、これから向かうと連絡を入れると
美咲からは「来ないで!」と言われてしまったのだけれど、
それを言う美咲は咳き込んでもいて、
だからマサキは説得を試みて、やっと訪問の許しを得た。

昼頃に行くと伝えたけれど、
なぜか逸る気持ちのせいで、彼女の部屋の前に到着したのはまだ11時になったばかりのころだった。
コンビニではスポーツドリンクのようなものやゼリーなど
迷いに迷って選び、たっぷり悩んで買っていたにも関わらず、だ。

呼び鈴を鳴らすと、
予定より早いマサキの到着に驚く美咲の声と、何かがガタガタいう音が聞こえて、
しばらくしてから、やっとドアが開いた。

出て来た美咲は、グレーのスエットにカーディガンを羽織っただけの姿で、
4日前に訪問した時のような可愛らしいパーカー姿ではなかった。

「は、早いよ……!」

少し困ったように怒ったように言う美咲の顔は、
よく見ると半分眉毛がない。

つい視線をそちらに向けてしまうと、
「うあ、しまった」と言ってすぐに隠されてしまった。

汚いけど驚かないで、と念押しされた上で部屋にあげられる。

「……」

室内を覗き込んでみれば、たしかに、床にはいろいろなものが散乱していた。
その多くは脱ぎ散らかされた洋服で、
キッチンには洗っていないままの食器類が積まれている。

こんなに荷物があったのか、ということと、
以前来たときはすでに落とした後だと思っていたけれど、
美咲はどうやら薄く化粧をしたままだったらしいことがわかって
なかなか気づけないものだと、マサキは感心したような気持ちになる。

床に広がった洋服を片付ける美咲はやはり時々咳をしていて、
まだ完全に風邪が治ったわけではないのだとわかる。
買って来た飲み物やゼリーを冷蔵庫にしまうと、マサキは食器を洗い始めた。

洋服を洗濯機につっこんだ美咲は
「化粧してくるから、さっき見た眉毛のことは忘れて」と洗面所に向かおうとする。

「……たぶん忘れられないし、化粧とかしなくていいんじゃない?」

むっとした顔をして、
けれど結局美咲は、そのままリビングのクッションに身を傾けた。

「美咲さん、あんまり化粧とか気にしないのかと思ってた。化粧しなくても可愛いのに」

可愛い、などと言ってしまったことに、言ってから気づいて恥ずかしくなる。
食器の泡を洗い流しながら、美咲には顔を向けずにそのことを隠していると
「まぁねそれはわかってるけど」と返事が返ってくる。

「……可愛く見られたくて化粧してるわけじゃないの。
 正直面倒だし、自分が可愛いことも知ってるの。
 でも、化粧ってしないと逆に目立ったりするのね。
 それに化粧するとさ、ちょっと気分変わったりもするし。
 だから人に会うときはね、絶対にするようにしてるのよ。
 ……してたのに」

「来るの昼って言ってたじゃん」とか「遅刻はダメだけど約束の時間より早く来るのって場合によってはもっとダメなんだからね」とか、
美咲の文句はとまらない。
勉強になるなぁと思いながら、
いつもより口数が多いから、やはりまだ彼女は熱があるのではないかとマサキは考える。

「……真崎さん、告白はされるけど、最後にはフラれるタイプじゃない?
 今まで付き合って来た人とかに“気は使うのに気が利かない”とか言われなかった?」

気は使うのに気が利かない。
言葉にされて気づいたけれど、本当に自分はそんな感じだなと思う。
言い当てられた感が大きくて驚いてしまう。

「言われたことはないなぁ。
 誰かと付き合うとか、今までしたことなくて」

「え、そうなの? 真崎さんもなの?」

驚いたのは、今度は美咲の方だった。

「だって真崎さん、遠目でみたらカッコいいじゃない。
 カフェで仕事してるとか、なんかストレートにオシャレな感じだし。
 ちょっと童顔すぎでアンバランスな感じすごいけど、
 それだって見てるうちに慣れるし。
 基本的にいい人だし、モテそうなのに」

微妙に失礼なことを言われていることにマサキは気づかない。

「そんな親しくなるような人、今までいなかったしなぁ……
 ヒロキくらいのものだよ。
 バレンタインのチョコレートもらったのも、シロさんたちが初めてだし。
 いい人ってほどいい人でもないよ。たぶん、普通、じゃないかな。
 それに僕、あまり頭もよくないし。
 ……僕と話してて、美咲さん、つまらなくない?」

「えと、そういう何か卑屈っぽいこと言われるとつまんない。
 けど別に普段は気にならないよ。頭悪いの?」

「だって僕、美咲さんとかヒロキと違って大学どころか、高校も行ってないし。
 シロさんたちがいろいろ気を遣ってくれて勉強はしてたけど、
 高卒の認定みたいのも持ってないから、大学なんて受験もできない」

「え、そうなんだ?」

「うん」

マサキが大学に行っていないことは知っていた。
けれど高校にも行っていないとは思わなかった。

「……なんで?」

突っ込んだことを聞くようで少し緊張しながら美咲は訊ねる。
洗い終わった食器を乾燥スペースに並べて、
かかっていたタオルで手を拭きながらマサキは、何でもないことのように答えた。

「中学卒業して、すぐに家出ちゃったんだ。
 ともかく家出ようっていうので頭がいっぱいで、
 その後どうしようとか、高校はどうするとか、全然考えてなくて。
 シロさんクロさん夫婦に出会えて拾ってもらえたのは、
 自分のことながら、本当に運が良かったなって思ってるよ」

数日変えていないせいでくたっとしてしまっているタオルは
そのまま回っている洗濯機の中に入れてしまって、
変わりに美咲に視線で示された先にある洗い立てのタオルをかけておく。

そこまでしてから、マサキも席に着いた。
冷蔵庫から買ったばかりのゼリーを2人分、取り出して持って行くのも忘れない。
クッションは膝に抱えるようにしてこたつに入った。

オレンジとグレープフルーツのうち、好きな方の味を美咲に選ばせて、
自分は余った方のものにする。
美咲はグレープフルーツを選んだ。
スプーンはゼリー自体についている。
果肉がたっぷりの、コンビニにしては高価なタイプだ。

「……高校、行きたかった? 行きたい?」

少しだけ考えてからマサキは首を振る。

「行っても、別にすることなかったと思うし。
 それまで、勉強は嫌いじゃなかったけど、わざわざ行ってまでしようとも、思えなかったし。
 仕事することの方が大事かな」

美咲の言った“卑屈な感じ”にならないよう、笑顔で言う。
けれど美咲は笑わなかった。

「私はね、高校行ってよかったなって、思ったよ。
 中学までじゃ会えなかった、いろんな友だちができたよ。
 高校入った時は、進学しようとは思ってなかったんだけど、
 高校が楽しかったから、大学も、行こうって思ったの」

「うん」

どう答えたものか迷って、マサキは少し困った顔になる。
けれど笑顔は崩さない。

「真崎さん、実家ってどこ?
 おうちの人と、あまり仲良くないの?」

「……実家は、けっこう近いんだ。
 仲は、そうだね、あまりよくなかったかな。
 家出たくて、出たのに、こんなに近くにいるのも不思議な感じなんだけど」

「じゃあ、私たち小さいとき近くに住んでたんだね。
 私も小学校行くまではこの辺に住んでたんだよ。
 家出てから、家族の人と会ったりしてる?」

美咲がこの近くに住んでいたことを、マサキは知っている。
自分たちは“友だち”だったのだ。
美咲が覚えていなくても。

「してないよ。
 場所は近いけど、使ってる駅が違うから、偶然会うこともないなぁ」

「真崎さん、友だちとかあんまりいないでしょ」

「あー、うん、ヒロキくらいだ」

美咲は考え込むようにして黙っている。
だから真崎も黙ったままで、ゼリーを食べ進める。

底が見えて来たあたりで美咲が言った。

「あのね、今からでも遅くないから高校行けとか、
 そういうこと言うつもりはないの。
 友だちつくれとか、そういうこと言う気もない。別にいいの。
 でも、でもさ、
 じゃあ、いっぱい遊びに行こう。
 仕事も忙しいと思うけど、でも、いろんなとこ行こう」

「え、うん。そうだね」

美咲から返ってくる言葉が「遊びに行こう」だとは思わなかった。
どうして突然、「遊びに行こう」なんだろう。
不思議に思うマサキの顔を見て美咲は言う。

「真崎さん、あんまり遊びに行くとかしたことなさそうなんだもん。
 行きたくないとこ行って楽しくないんじゃ意味ないけど、
 でも、例えば年とって山登れなくなったり海泳げなくなったり、
 ジェットコースター乗れなくなったり遠くに行くのしんどくなったり、
 そうなったら、もしかしたら、
 あー昔もっといろいろ行ってやっておけばよかったなーとか、
 そんな風に思ったりすること、あるかもしれないじゃない。
 それからじゃ遅いんだよ。
 だからさ、今からできることは
 してみたいって思えるんなら、しておくのがいいと思うの。
 真崎さん、コンプレックスみたいに思ってるでしょ。
 高校行ってないことも、
 それで学校であんまり勉強してないことも、
 学校の友だちとどこか遊びに行くとかしてないことも。
 だから“頭よくない”とか“話しててもつまらない”とか言うんだよ」

言われてみれば、そうなのかもしれない。
そうなのだろうか。

「そうなのかな。
 あんまり僕、自分の思ってることに気づくの得意じゃなくて」

「わっかんないよ私にも。ただの想像。
 真崎さんが自分でもわかんないこと、私がわかるわけないよ。わかんなけどさぁ。
 でも、せっかくだもん。
 無理に誘ったりとかしないから、だからさ、いっぱい遊びに行こう」

「……うん、そうだね」

笑って答えたけれど、緊張した。
人の多いところに行くのが、マサキは苦手だ。
考えるだけでも少し緊張してしまう。
『カフェR』で客と対峙することには慣れた。
カウンターを隔てているし、ヒロキ以外では、とりたてて会話をかわすこともないから。
けれどたくさんの人の中に入るのはダメなのだ。
自分の体質の異質さを、どうしても意識してしまう。

マサキが及び腰になっていることには美咲も気づいただろうけれど、
同意を得ただけでも、とりあえずは満足したようだった。


ゼリーを食べてしまうと、シンクの下にあった小さな土鍋に
卵と出汁と、少しの塩だけで味付けをしたおかゆを作って、
簡単に温められるようにしておいてから、美咲の部屋を出ることにした。

帰り支度をしながら
(あぁ、そうか……)
ふと気がついて、美咲に言った。

「あのね、美咲さん。
 風邪ひいたとか体調悪いとかなったら、連絡して欲しいんだ。
 できたらでいいけど、嫌だったらいいけど、すぐ連絡して欲しい」

「え、だって、なんか心配とか迷惑とかかけたら嫌だなって思って……」

「連絡ないほうが心配するよ。
 美咲さんさ、僕が高校行ってないって言ったら、心配したでしょ。
 で、おせっかいなこと言ったでしょ」

「あ、ゴメン、うん、おせっかいだったね」

「そうじゃなくて、
 いいんだ、それは、嬉しかったから。
 でも、僕にもおせっかいさせてよ。
 迷惑とかそういうの、そんな考えなくていいから。
 せっかく付き合ってるんだから、
 困った時とか、少しは便利に使ってくれていいんだ。
 美咲さんが、気を使って遠慮してくれて、ちょっと悔しかったんだよ」

「悔しかったの?」

「うん。なんか寂しいみたいな怒ってるみたいな気持ちになったんだけど、違った。
 美咲さん一番体調悪い時に何もできなかったなって思って、悔しかった」

「そっか、わかった。
 ありがとう。ごめん」

「うん。いいんだ。
 でも、次もし、何かあったら、連絡してくれると……嬉しいな、と、……」

そこまで言ってから、
ふいにマサキの顔が赤くなった。

「……え、何。耳赤いけど。どうしたの?」

「いや、なな何でもない」

じゃあ、と言って、
答えははぐらかしたままで部屋を後にした。


(あー……)

マサキは気づいてしまった。
恥ずかしいような、照れたような気持ちに自分がなっていること。
それはどうしてなのか。
駅までの道を歩きながら考える。
本当は、すでに答えもわかっている。

思ったことを、感じたことを、
こんなにハッキリと誰かに伝えたことが、今までなかったのだ。
思ったままの、感じたままのことを、そのまま言葉にすること。
伝えること。

慣れていなくて、
気持ちをさらけ出してしまったことが、なんだか恥ずかしかった。
裸を見られることよりも、もっとずっと恥ずかしい。

けれど、どこか気持ちのいいものでもあった。
恥ずかしいし、心臓が高鳴っているのだけれど、
身体が少し軽くなったような気がする。

こんな風に感じるのかと、ひたすらに新鮮で、驚きだった。
自分がそれをしたことが。
自分にも、それができたことが。

「思っていることを口にする」だけのことで、
こんなになってしまうことも恥ずかしい。
誰かと向かい合うことの、その経験値の低さに情けなくなる。
それでも気持ちは高揚していた。

(うわぁー……なんか、なんだ、どうしよう……)


外の風は冷たかったけれど、
どこかワクワクとしたような気持ちは、マサキをたしかにあたたかくした。

(to be continued...)

#小説


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