1章(2);終電の後の話
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あるところに、かわいらしいおんなのこと、かわいらしいおとこのこが
それぞれの場所で、それぞれにくらしていました。
ある日、かわいらしいおとこのこに助けられたかわいらしいおんなのこは、
おとこのこのおとしものをとどけるため、
そのこのすんでいるところをめざすことにしたのです。
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ボタボタと雫のたれる音が聞こえて、マサキは目を覚ました。
枕元に置いている携帯の時間を確かめるが、目覚ましをセットした時間よりも随分と早い。
二度寝する気持ちにもどうにもなれず、アラームはそのまま解除してしまった。
低血圧のマサキは日頃、早起きすることよりも寝過ごすことの方が得意だ。
今日は、よく眠れなかった。
カーテンをあけると、雨が降っていた。
そういえば天気予報で、今日は雨、夜からは雪になるかもしれないと言っていた。
都内では雪が降る機会は珍しいから、少し楽しみになる。
こういうとき、通勤や通学の必要に迫られていないというのは気が楽だ。
おなかはすいていなかったけれど、のそのそと起き上がって階下へ向かう。
冷たい水のまま顔を洗ってしまうと、
冷蔵庫から牛乳を取り出し、平皿とカップとに1杯ずつ注ぐ。
平皿の方は、半分くらい飼っているような状態になっている近所の家のネコにあげるもので、カップの方は自分のための餌だ。
レンジで2度温めてコーンスープの素を溶かして飲むのに、最近マサキはハマっている。
美味しいし、作るのも片付けるのも簡単でいい。
そもそも、朝にきちんとした量のモノを食べるのは苦手なのだ。
朝ご飯がこれだけだと、常時であれば、この家の夫婦はきっとまた怒ったりするのだろうけれど、
昨日から一週間ほど、夫婦は仕事で沖縄へ行ってしまっている。
勝手口をあけて、平皿を置いておく。
しばらくそのまま待ったけれど、ネコのもんたさんの姿はあらわれなかった。
この寒い雨の中、彼はどこにいるのだろう。
だいたいもんたさんは、餌はしっかりもらっていくくせに、
この家の夫婦以外にはあまり姿を見せてくれないのだ。つれないネコだ。
諦めて、すっかり冷えてしまった手を袖に隠してあたためながら、
マサキは昨夜のことを思い出す。
昨夜。
仕事の帰り道で、マサキはすっかり疲れてしまっていた。
仕事自体はもう少し早い時間にすんでしまっていたのだけれど、
そのまま電車に乗ったら酔ってしまいそうで、
ファミレスでホットティーを飲みながら休んでいた。
ぼーっとしていたら、気づいたら終電の時間で、慌てて、あの電車に乗ったのだ。
あの車両に乗った。
そこに、あの彼女がいた。
(……)
信じられないような話だけれど、一目でわかってしまった。
彼女は、マサキにとっての特別な女性だった。
あの特別な彼女と、二人きり、同じ車両に乗っているのが苦しくて
すぐに車両を移動しようとした。
彼女に深く関わるつもりはなかったし、
話しかけたり親しくなったり、そんなことをしたいとも思っていなかった。そんな高望みはしていない。
けれど、もう少し、とも思った。
離れた席だったし、彼女は自分の方に目もくれないし、だから大丈夫だろうと判断した。
そうして数駅が過ぎた頃、あの男が乗車して来たのだ。
思い出すだけで気分が悪くなる。
あの空いている車内で、男は彼女の隣に、ぴたりとくっつくようにして座った。
気づくと男の手が、彼女の足にのびていた。
見ていたから、気づいてしまった。
迷った。
マサキは彼女に、一切、関わるつもりはなかったのだ。
そう決めていたのに、男は手をとめなかった。
彼女も「嫌だ」という意思を伝えていたようだったが、男は止まらなかった。
だから、つい、
ともかく男を彼女から離さなければと思い、そうしてしまった。
結局は、マサキの方が彼女に助けられてしまったのだけれど。
その後も、すぐにその場を離れなければと思いつつ、できなかった。
何を話すでもなくその場にとどまった自分を、彼女はきっと不審に思っただろうと、マサキは自覚している。
彼女自身、そんな気持ちをしっかりと態度で示してくれていたとも思う。
関わりたくなかったのだ。
話したくなかった。一度そうしてしまったら、たぶん、堪えられなくなってしまうから。
近くで見る彼女は綺麗だった。
結局、マサキ自身のせいで
マサキは彼女から話しかけられてしまうという失態をおかし、
住所や名前を探られることになって、
逃げるようにしてその場を去った。
彼女は怒っていた。
怒っていても綺麗だった。
彼女は強い人だ。
そうして今に至って、
マサキは、電車の中に鞄を忘れたことに気づいたのだ。
仕事用にと奥さんの方から貸し出されている、シンプルな女性ものの鞄。
今日、駅に問い合わせに行かなければいけない。
店を開く時間を考えれば、早い方がいいだろう。
財布だけは手元にあって助かっているけれど、
カードも、自分の名刺や「客」の名刺も、免許証も、鞄の中だ。
(駅に……)
駅に行って。
もしまた偶然、彼女に再会してしまったらどうしよう。どうしても期待してしまう。
会いたくない。
そんな偶然は起きないだろうと思っているし、会いたくないのだからそれでいいのだけれど、
会えなかったらきっと、自分は落ち込んでしまうのだ。
そんなことを考える自分が情けなくて、
マサキは自分が大嫌いだ。
***
「え、鞄なかったの?」
「うん……」
午後、オープンするとさっそくやってきた客であり仲間であるヒロキが
少し愉快そうに言った。
駅で彼女に会うことはなかった。
ほっとした。
けれどマサキは、鞄も見つけられなかった。これは困った。
「マサキさん、本当ドジだよね。
傘とかならともかく、鞄忘れてくるとか。俺ちょっとそれわかんないや」
マサキさんのそういうとこ可愛くて好き、とヒロキは言う。
本当に自分を好いてくれているのはわかるけれど、癪だ。マサキはそう思う。
思うけれど、彼は正直なだけなのだと知っているので怒れない。
「鞄なくて大丈夫なの?」
「いや、けっこうマズイ。
免許証ないと困るし、僕の名刺くらいならいいんだけど、お客さんの名刺も入ってたから、
これはちょっと、うん、マズイ」
「うわー」と身を引くヒロキのこえはやはり嬉しそうで、
マサキは怒りよりも脱力感に襲われてしまう。
ヒロキは、マサキに「もうひとつの仕事」をさせるのが好きではないのだ。
だからそちらの仕事客の名刺を無くしたと言っても、彼は喜ぶばかりだ。
一方ヒロキのほうも2つの仕事をしているのだけれど、
学業の傍らでヒロキが行っている「仕事」のうちのひとつを、マサキもひどく嫌っている。
つまり、お互い様だ。
「忘れ物って、近くの少し大きめの駅に集められたりするんだって。
電話かけた時間が早かったから、終電の忘れ物だと、
まだそこに運ぶ途中だったりして確認とれないことがあるみたい。
また夕方ごろ、電話してみるよ」
ふうんまぁがんばってねと、ヒロキはおざなりに答える。
「ヒロキ、もうテスト終わったんだっけ?」
ヒロキは19歳。今年度、近くの大学に進学したところだ。
大学には通っていないマサキだけれど、大学の冬休みが長いらしいことは知っている。
学校によりまちまちではあるが、
1月末から2月頭にかけて試験期間となる学校が多い。
ヒロキはたしか、レポートはすでに出し終えてしまっていたはずだ。
「うん、昨日終わった。
だから俺今日、ヒロキさんの手伝いできるよ」
「バイトの募集は現在行っておりません」
元々この店『カフェR』は、マサキの世話になっている夫婦が2人きりで切り盛りしていた店だ。
6年ほど前から、諸事情によりヒロキが手伝うこととなったが、
店自体も決して広くはなく、夫婦が不在とはいえ、人手は不足していない。
「それに、ここは未成年は雇わないことになってるから」
「マサキさんがここで仕事始めたとき普通に未成年だったじゃん。中学生だっけ?」
「卒業はしてたよ」
マサキが店で仕事を始めたのは、彼がちょうど中学を卒業した3月のことだ。
「一緒だよ。俺より年下じゃん」
「うん。で、僕を雇ってしまったことをお二人が反省して、
以来ここは未成年雇うの禁止になったの。
未成年バイトは僕が最初で最後。残念だったね」
正確には、募集を制限しているのは「未成年」ではなく「学生」だ。
それにはそれなりの理由があって、それをクリアしさえすればいいのだが、
面倒なので、それは話さない。
彼が成人してしまったら、その時はきちんと説明して説得しなければいけないかもしれないけれど。
悔しそうな顔でヒロキはアイスコーヒーを口にする。
「バイトがダメならボランティアでもいいよ」と食い下がって来たけれど、
マサキはもちろん、苦笑しつつ「それも募集してません」と断ってしまう。
ヒロキはマサキに、よく懐いている。
「あ、マサキさんに教わったとこ、テストに出てたよ」
「それはよかった」
これは本当に嬉しくて笑顔になる。
ヒロキが行っている仕事のひとつ、高校生相手の家庭教師の話だ。
教え子が定期試験を迎えるというので、マサキはその相談にのってやっていたのだ。
「マサキさん、俺より全然、テストのヤマはったりすんのうまいよね」
「ヤマっていうか、ポイントがあるから。
ここおさえておけば後はそれの応用、みたいな」
「要領いいよね。俺マサキさんのそういうとこも好きだよ」
「ありがとう」
ヒロキは本当に正直だ。
彼の正直さがマサキには大きな安心であり、羨ましいところでもある。
店内に他に客がいないのをいいことに、ヒロキは今日、マサキを独り占めしている。
そういう時間を狙ってやってきている節すらある。
狙い通りになって、嬉しそうだ。
けれど窓の外が暗くなってきたころから、徐々に客足は増え、ヒロキは退散を決めた。
彼の帰る前、駅に再び電話をかけたマサキが「鞄、無いみたい」と伝えると
やはりヒロキは嬉しそうな顔をして帰って行った。
夕方の時間を超えると、再び静かな時間が訪れる。
夕食の時間を過ぎてしばらくすると、
どこかで一杯ひっかけてきたらしい客が食後のコーヒーを楽しみにやってくる時間が訪れる。
終電近くまでそんな時間が続き、それが過ぎると閉店だ。
忙しく接客をしている間はそれで頭がいっぱいになるけれど、
最後の客が帰って店が静かになると、行方不明の荷物のことを思い出す。
(明日、昨日歩いた場所歩いて探してみないとダメかな……。
通った場所の交番とかにも聞いてみないと。あ、カード停止しなきゃ……)
店の開店は午後からだから時間はあるけれど、
ともかく、面倒だった。
マサキはわずかに頭痛を覚える。
面倒のせいではなく、耳の奥から痛むこれは、おそらく気圧が変化したせいだ。
カーテンを薄く開けて外をのぞくと、みぞれまじりの雨に変わっていた。
崩れた天候の中鞄を探しに行くことを考えてため息をつきそうになっていると、
小さく、ドアのベルが聞こえた。
客が入って来たらしい。
終電まで、つまり閉店まであとわずかの時間しかない。
この時間に来店する客は、少しめずらしい。
考えながらドアに視線を向ける。
「いらっしゃいま、せ……」
「こんばんは」
そこに、彼女が立っていた。
あの「特別な彼女」が。
挨拶をしたきり言葉が出なくなってしまったマサキを気にかけることもなく、
美咲はマサキの正面のカウンターに腰掛ける。
「ホットコーヒーお願いします。サイズはSで」
「あ、はい。
えと、あの、どうしてこちらに……?」
美咲が相手になると、マサキはうまく話せなくなる。
「これ」
美咲が差し出したのは、マサキの鞄だ。
「あ。それ」
「これ、昨日忘れたでしょう?
勝手に開けてしまって申し訳なかったけど、中見させてもらったら
免許証と、あなたの名刺があったから。
ここの住所も書かれていて助かった、
お金も渡したかったから、届けに来たの」
鞄が見つからないよりも何よりも、最低のパターンだと思った。
もう会うつもりはなかったのに。
どうしよう。
大丈夫だろうか。
ぐるぐると考えて動きをとめてしまったマサキに、美咲は不機嫌な顔になる。
「コーヒー。もらえますか?
それとももうラストオーダー終わっちゃった?」
「う、あ、いえ、少々お待ちくださいませ」
緊張して、指が震えるのを堪えきれない。
自然いつもよりゆっくりとした動きで、マサキはコーヒーを作り始める。
二人きりの店内で、静かに時間が過ぎて行く。
熱いコーヒーの香りがたちはじめたころ、ようやくマサキの指の震えがおさまった。
「お待たせいたしました」
差し出したマサキの指に、受け取る美咲の指が触れた。
カップを取り落としそうになったのには気づかれずにすんだ。
触れた指がひどく冷えていたことで、
美咲が随分と濡れてしまっていることに、このときマサキはようやく気づいた。
「あの……すみません気づけなくて、タオルすぐお持ちします」
マサキの立つカウンター背面には扉がついていて、
奥には厨房と、タオルや紙ナプキンやティッシュなどの設備品をしまった棚がある。
整頓されたタオルの山を崩しながら、急いで取り出したそれを手渡す。
「ありがとう」
答える彼女の声は少し震えていた。
おそらく寒さのせいだ。
急いで室内の設定温度を上げた。
恐縮した気持ちで美咲の前に立つマサキは、
どうしても、無言になってしまう。
「ねぇ」
沈黙を破ったのは美咲だ。
「ここ、24時までよね?
このあたりに24時間のファミレスってあります?」
「そう、ですね……駅前に1軒レストランはありますが、もう閉まっていますね……」
24時間のレストランを探しているのか。
どうしたのだろう。おなかがすいているのだろうか。
けれどそれなら、コンビニを探すのでもよいのではないか。
気になったけれど、踏み込んで訊ねるのも気が引けた。
軽食であれば用意することはできるが、それでは終電に間に合わなくなってしまう。
「そう」と答えたきり、美咲は黙り込んでしまった。
ざっくりと身体と鞄をふいた美咲から、簡単なお礼とともにタオルが返された。
コーヒーと店内の温かさで美咲の震えはとまったようだったが、少し顔色が悪い。
「あの、体調を崩されてませんか? 顔色がその、少し悪いようですが……。
市販のものでよければ、風邪薬とか、ありますけど……」
「いいの。大丈夫。ちょっと嫌なことあって、たぶんそのせいだから。
傘持ってくるの忘れちゃったし、家帰るの面倒で困ってはいるけど」
嫌なこと。
(まさか、また痴漢にでもあってしまったのだろうか)
相手が美咲でなければ訊ねていたかもしれないけれど、
美咲だったから、できなかった。
踏み込むのには覚悟が必要だ。
「……何かあったんですか、とか聞かないの?」
「う、え、すみません」
「昨日も言ったけど、そのすぐ謝るのやめてくれなません?
なんか私が悪いことしてるような気分になっちゃって、不愉快です」
「す、……いえ、あの」
「あー、なんか聞かれると思ったんだけどな。まぁそうじゃなくてよかった。
こんな時間に開いてるお店って、バーの人とか、
若い女の客が何か落ち込んでると大抵どうしたのって聞いてくるじゃない。
あぁいうの鬱陶しくて」
「あの、差し出がましいかな、と、思いまして……」
「うん。なるほど」
そういうのは悪くないですね、と美咲は言う。
褒められた気がして嬉しい。
一瞬でマサキの顔が赤くなる。耳が熱くなったことにマサキ自身も気づいた。
そんなマサキの様子を見て、美咲が少しだけ笑顔を浮かべた。
また無言の時間が過ぎて、一息ついたらしい美咲が口を開く。
「ここ、真崎さんのお店なの? 他の店員さんが見当たらないけど」
「僕は雇われているだけで、その、店長たちは数日留守にしています」
「24時までお店やってるんだと、終電なくなっちゃわない?
真崎さんのお住まいはこの近くなの?」
「いえ、その」
自分のことを答えるのに躊躇したけれど、
答えないのも申し訳ないような気持ちになってしまう。
「僕、ここの2階に住まわせてもらってるんです。なので、大丈夫です」
マサキ個人としてでなく、店員としても、こんな個人的な話をするのは「違う」とわかっていた。
普段であれば答えない。
美咲だからこそ答えたくないのに、美咲だからこそ答えてしまう。
やっかいだ。
美咲は綺麗に笑顔をつくって言った。
「ねえ、ひとつ、お願いがあるの。
鞄届けたお礼だと思ってきいてくれない?」
ひるむ気持ちは強かったけれど、マサキはどうにも逆らえない。
彼女の言うことであれば、できるだけ従いたいと思う自分がいる。
マサキはそれを自覚している。
「僕でできることであれば、その、はい……」
マサキの言葉を聞くと、
笑顔のまま美咲は言った。
「私、今日帰りたくないの。
傘も持ってないし、タクシー乗るのも嫌だし。
今日、真崎さんのお部屋に泊めてくれないかな?」
「う、え」
それは勘弁してくれ、と思った。
「あ、あの、タクシー代でしたら差し上げます。
ですが、その、泊めるというのはちょっと……」
「真崎さん付き合ってる人いるの? そういうの気にする人?」
「付き合ってる人はいません。でも気にはします!
その、突然泊めてとか、そういうのはちょっと」
「襲ったりしないから安心してよ。
部屋の隅っこに場所かしてくれるだけでいいの。
襲われても怒らないから、そこも安心していいし。
ね、どう? ダメ?」
「ダメです、ちょっとそれは、すみません……」
美咲はゆっくりと後ろを振り返る。
白い壁には木製の時計がかけてあって、
(あ……)
マサキも気づいた。
「あーあ、終電もう行っちゃったみたいだね」
美咲の声は明るくて、余裕がある。
わざとなんじゃないだろうかとマサキは思うけれど、聞けない。
だって、なぜ?
彼女がわざと、自分の部屋に止まりたがる理由があるだろうか?
理由はひとつも思い浮かばない。
いや、自分の部屋でなくてもいいのかもしれないけれど。
このあたりにカプセルホテルや泊まれるネットカフェはあっただろうか。
一瞬で考えたけれど、思いつかなかった。
第一、そんな場所に彼女を一人で泊まらせるのは安全でないような気もした。
マサキの葛藤をよそに、美咲は元気に振り返る。
「あのね、もう一回言うけど。
私、傘持ってないの。こんな雨の中濡れて帰るのも嫌だしさ。
コーヒー飲んだ後だからタクシーなんて乗ったら酔っちゃうし。
だから、ね、泊めて?」
どうしたらいいのだろう。
マサキは少し泣きたくなった。
「そうだな、じゃあ……」
考えるような素振りを見せてから美咲は言葉を続ける。
「もし泊めてくれないなら、私、表で一晩過ごすよ。
きっと風邪ひいちゃうし、夜中に一人で外にいるなんて危ないかもしれないね。
でも、安心して。
もしそうなっても、真崎さんのせいになんてしないから」
もはや脅迫だった。
そんなことを言われて、放っておけるわけがないではないか。
「わ、かりました……あの、泊まって行っていただいて大丈夫です……」
「うわぁー助かるありがとう!」
嬉しそうに答える彼女にコーヒーのおかわりを注いでやってから、
マサキは手早く看板を下げ、フロアを片付け、翌日の簡単な準備に取りかかることにした。
看板を下げに外に出たとき、この冬一番と思えるような冷え込みを感じた。
耳の奥だけでなく、鼻の奥まで痛くなった。
雨よりも雪の割合が多くなっている。
明日の朝になれば、少しつもっているかもしれない。
こんな夜の中に、彼女を追い出すわけにはいかない。
自分でも「言い訳だ」とわかっている理由を必死で自らに言い聞かせて、マサキは美咲の元に戻る。
美咲は大人しくコーヒーを飲んでいた。
マサキが必要な作業を終えたのを見計らって美咲は言う。
「あのね、毛布だけ貸してくれたらいいの。
もしできたら、タオルと、ジャージかなんかも貸してくれたら嬉しいけど。
私そこの椅子で寝るよ。
お金にもモノにも困ってないから、そこは信用してもらえると嬉しいけど、
もし不安だったら、いろいろ鍵かけて、
金目のモノだけ部屋に持ってくとかしてくれるといいかな」
「疑いません。
でもあの、僕の部屋、ちょっと片付けて来ますから、嫌でなければ
僕のベッド使ってください。
2階の一番、奥の部屋なんですが、あの、
清潔にはしてるつもりなんですが……」
「いやいや、ここでいいですから。っていうか、廊下とかでいいの。お気になさらず」
気になるに決まっている。
ドアはもちろん、今日は特に念入りに窓の鍵もカーテンも隙間無く閉めるようにはするが、
まさか、誰もいない1階に彼女を一人残しておくわけにはいかない。
防犯の意味で、1階の危険性は2階よりも高い。
この家が3階建てであればよかったのにと、マサキは初めてそんなことを考える。
「ともかく、か、片付けしてきますから、待っていてください……」
マサキの部屋は荷物が少ない。
ノート類だけは大量にあったけれど、ベッドと机と洋服と、ほとんどそれだけだと言える。
枕カバーとシーツは新しいものにかえた。
数日前に買ったばかりのスウェットは開封しないまま彼女に渡すことにする。
彼女は背が低いから、きっとぶかぶかだろうけれど、これは我慢してもらうしかない。
(あ、シャワー……)
タオルは渡したし、フロアは十分にあたためてはいたけれど、
一度雨に降られた身体のままでは、やはり風邪をひきやすいのではないだろうか。
今から湯をためたのでは時間がかかってしまうけれど、シャワーなら。
(……無理だ)
「シャワー浴びて来てください」なんて、言えるわけがなかった。
それはどういう意味で言っているのかと、
彼女にそう考えさせてしまうかもしれないと思うだけで、もう、無理だった。
そんなことをぐるぐると考えながら、
着替えのスウェットと、未開封でしまったままだった歯ブラシとを洗面所に用意してから階下へ行けば
「図々しいと思うんだけど、可能だったらシャワーかりてもいいかな?」
美咲は平気な顔でそんなことを言う。
マサキの方が困惑して頷いた。
風呂場は1階にある。
2階の洗面所に置いておいた着替えと歯ブラシのセットに、バスタオルも合わせて持って降りて、美咲を風呂場に案内する。
湯の出し方が少し古いタイプなのだが、説明の必要はないようだった。
「あの、っ、シャワー終わるまで僕、部屋にいるので……上がったら、声かけてください」
同じ1階のフロアにいたのでは、どうしても美咲のシャワーの音が筒抜けになってしまう。
それが美咲に悪いような気がしての配慮だったが、美咲はやはり気にしていないようだった。
美咲がシャワーを浴びている間、結局微かに音の聞こえてしまう自室で、マサキは考える。
おろしたてのシーツを僅かでも汚さないよう、椅子に座って、机に肘をたてて頭を抱える形だ。
決して小さな机ではなかったけれど、長身のマサキでは少し狭い。
常であればしばしば身体が痛くなってしまうその狭さが、
今のマサキにはむしろ心地よかった。
どうして。
どうして、彼女を泊めるなんてことになってしまったのだろう。
もう、本当に、関わる気なんてなかったのに。
全ては昨日の痴漢のせいだった。
見て見ぬ振りをすればよかったのだろうかと考えるけれど、それもそれで最低だと思った。
がたん、と窓が風に叩かれた。
悶々と考えているうちに、けっこうな時間が経ってしまっていたことにマサキは気づく。
シャワーの音が聞こえない。
彼女はあがったのだろうか。
(1階でいいって、言ってたな)
自分に声をかけることなく、1階でさっさと寝てしまったのだろうか。
フロアはどうしても、部屋よりも風が入りやすい。
自分のベッドの掛け布団も、全て、かけにいってあげよう。
そんなことを考えて慌てて立ち上がると、
(え、あれ、……)
階段の軋む音が聞こえてきた。
もちろん、美咲が階段をあがって来ている音だ。
(ちょ、ちょっと待って……!)
「入りまーす」
マサキの心の声が聞こえるはずもなく、美咲は待たなかった。
濡れた髪から雫をしたたらせたまま、
覗き込めそうな程にぶかぶかの黒のスウェットを着た美咲は
躊躇なく、マサキの部屋に上がり込む。
袖も裾も何重にも折っている。
「ちょ、の、ノック! ノックして下さい!」
自分は、あがったら声をかけてくれと言ったのだ。
それは階下から声をかけてくれという意味であって、部屋に来てくれと言ったつもりではなかったのだ。
そう説明したいけれど、マサキのその思いに、頭も口もついてこられていない。
「あ、ごめん」
悪びれた様子もなく美咲は言う。
ごめんと思うなら気をつけてほしい。
きっと本心では「悪い」なんて、彼女は考えていないんだ。絶対に。
そう思った。
なんとなく、自分が部屋から出るまではベッドに彼女を近づけたくなくて、
マサキはベッドを自分の背にするようにポジショニングをはかる。
「あのね、私、やっぱり悪いし、ほんと廊下の隅でも借りられればいいから。
着替えとスウェットと、歯ブラシも、ありがとう。使わせてもらったよ」
「い、いえそれはいいんです。
廊下で寝るのはダメです。この部屋使ってください。
シーツとかカバーとか新しくしたし、その、そんなに綺麗な部屋じゃないけど、汚くもないと思うので……」
「いやあ、この部屋、すごく綺麗だと思うよ。
っていうか本? ノートか、すごく多いね。で、他に何にもないね。ノートのための部屋みたい」
実際、そんなものだとマサキも思っている。
ここはむしろ、本当に、ノートのための部屋だ。
「あの、この部屋は自由にしてもらって大丈夫です。
他の部屋は店長夫妻の部屋なので、そちらには行かないで下さい」
「うん、わかりました」
言われて時計を見れば、1時を既に30分も過ぎている。
全然眠くならないせいで気づかなかった。
こんなに焦っているのに眠くなんてなれるわけないとマサキは思う。
「ノート、タイトルも何も書いてないんだね。こんなたくさんのノート、どうやって分類できてるの?」
その理由を美咲に説明するつもりはなくて、マサキは聞こえなかったふりをした。
「あの、じゃあ、僕下に行くので……」
言って美咲の脇をすり抜けようとしたマサキの袖を「いやいやいや」と美咲は掴んでしまう。
「私廊下で寝るってば」
「ダメです」
「家の人下に寝かせて私がベッドで寝るとかできるわけないじゃん。
さすがに申し訳ないっていうか」
「気にしないでください」
「気になる。きっと気になって眠れなくなる」
じゃあ、どうすればいいと言うのだろう。
今夜は自分は、徹夜するべきだろうか。
彼女をもし下のフロアで寝かせることになるのであれば、自分はフロアのドアの前で夜を過ごそう。
彼女が安全に夜を過ごせるように。
そう、覚悟を決める。
「ね、だからさ、一緒に寝ようか」
「え、いや、」
それは無理だ。
その覚悟はなかった。
「何を……何を言ってるんですか。もう、本当に、やめてください……」
「大丈夫だよ。ほら、ベッドけっこう大きいみたいだし。
私ちっちゃいからあんまり邪魔にならないと思うし、抱き枕みたいにしてもらってもいいよ」
「いや、だってそんな」
「私と一緒じゃいや?」
少しだけ美咲は首を傾げて訊ねる。
マサキは「いやいやいや嫌じゃないですけど!」と焦って答えた。
「じゃあいいよね?」
「ダメですって!」
なんでダメなのーと、美咲は少し不機嫌な顔を作って言う。
どんな言葉で答えようかと考えて考えて、マサキはやっとで言葉を紡ぐ。
言いたくないけれど言う。
「あの、さすがに、その、無防備すぎだと思います……。
ぼ、僕が襲いかかって来たらどうしようとか、思わないんですか?」
「ん、別にいいし」
(あーそうだった……)
必死で絞り出した言葉だったけれど、
そうだそう言えば、彼女はすでにそんなことを言っていた。
忘れていた。
本当に、どうすればいいのだろう。
どうすれば納得してくれるだろう。
だって、そんな、いきなり。
ちょっとどころではなく泣きそうな気持ちになってマサキは考える。
「っていうかね」
マサキの目をまっすぐに見つめ、
見つめたまま美咲は身をよじるようにして
マサキの膝裏を踵で、両肩を両手で強く突いた。
(……え)
綺麗に「膝カックン」を決められた形で、マサキはベッドに倒れ込んだ。
倒れたマサキの両肩を掴んだまま、そこに体重を乗せるようにして美咲は言う。
「むしろ、それこそ望み通りって感じなんだけど」
「え……え、え、え……」
押し倒されている。
その事実に遅れて気づく。
押しのけられる前にと、美咲は覆い被さるようにしてマサキに抱きついてしまう。
(わ、うわ、うわ、うわ)
マサキは混乱している。
どうしたらいいのだろう。
どうしたらいいのだろう?!
「……真崎さん。嫌?」
「あの、嫌というか、えと、」
「嫌?」
重ねて聞かれた言葉に、「嫌、ではないですけど……」と、つい答えてしまう。
でも、困る。
本当に困るのだ。
「本当に嫌じゃない?」
「嫌、ではないです。全然ないです。でも、その、ダメです」
「どうして?」
「どうしてって、だって……」
うまく答えられない。
「付き合ってないと、しちゃダメだと思う?
きちんとお付き合いして、お互いのことよく知って~ってしないと、ダメかな?
そうじゃないのにしたいとか言ったら、変なヤツだと思う?
気持ち悪いとか、汚いとか、思う?」
「……」
彼女の体重が、
熱が、形が、においが、やわらかさが。
彼女が触れている。
痛いくらいに身体のあちこちが脈打っているのが気になって仕方なかったけれど、
彼女の問いには、しっかりと答えなければいけない。
そんな気がして、どうにか気持ちを沈めようとマサキは懸命になる。
深呼吸をしてから答えた。
「……僕にはよく、わかりません。
無理矢理とかなんか、そういうのじゃなければ、その、いろんな関係があっていいのだろうとは、思います。
人によってそれぞれだとも、思いますし……
気持ち悪いとか、汚いとか、少なくとも今、あなたに、そういうことは感じていないです……」
ぴたりと密着していた美咲が上半身だけを起こした。
スウェットの首のところから、中が、見えてしまいそうだ。
そして、押し付けられるような形になった胸が。その感触が。
顔が近い。
呼吸が。
吐息まで聞こえてしまう距離だ。
自分の物のはずなのに、シャンプーがいつもと違って香っている気がする。
シャワーを浴びてあたたまったせいか、彼女の頬は少し赤くなっている。
美咲は、
それはそれは可愛らしい顔で笑った。
「じゃあ、いいよね」
(……いやいやいや!!)
ダメに決まっていた。
ともかくダメだと思った。
「こ、コンドーム!
僕持ってないですから! せめてそれくらいの安全がないのはダメだと思います!」
美咲の笑顔は変わらない。
中の覗けてしまいそうな、そのスウェットの首もとに手が突っ込まれて、
胸のあたりから、おそらくブラジャーの中に潜ませていたと思われるケースが取り出された。
「私ね、鞄に入れていつも持っておくようにしてるの。
やっぱりマナーとか安心とか安全とか、気をつけるのって大事だよね」
持っていたのか。
そして、この部屋まで持って来ていたのか!
頭の中が真っ白になって、何も考えられなくなった。
美咲のその、可愛らしい笑顔が、香りが近づいて来て、
そして、
……
マサキはそれ以上、抵抗する術を持っていなかった。
力づくで抵抗することはもちろん可能だった。
けれど、できなかった。
したくない気持ちも、あったからだ。
欠片でも「いいのかも」と思ってしまって、
彼女自身から望んでいるとも言われて、
だからもう、マサキは自分をとめられなかった。
やっぱり少し、泣きそうになった。
ダメだったのに。
彼女にはもう関わらないようにと決めていたのに。
それを思うと情けなくて、悲しかった。
*
何も考えられないような時間だったけれど、
絶対に彼女を傷つけないようにと、必死だったことだけは覚えている。
そんな時間が過ぎて、行為の後処理を終えてしまってから
2人分の水を持ってマサキが部屋に戻ると、彼女はすでにベッドに深く沈んでいた。
うとうととして、半分夢の中にいるようだった。
だから、彼女の分の水はそっと枕元に置いた。
自分がベッドに戻ってしまったら、彼女の目を覚ましてしまうかもしれない。
そう考えてやはり自分は階下に行こうかと思っていると、
彼女が、寝転んだ自分の横のスペースをぽんぽんと叩いた。
「ここに入ってくればいい」と言ってくれているようだ。
少しだけ迷って、けれど彼女の言葉に従った。
そっと身を横たえる。
彼女の方を向くのもなんだかどうしていいかわからなくなりそうだったし、
背中を向けてしまうのも悪い気がしたので、天井を見上げる形で身を滑らせる。
けれど彼女の方はそんなことは気にしていないようで、
マサキがベッドに入るとすぐ、後ろを向かれてしまった。
そのまま寝付いてしまうだろうと思っていたら、おもむろに言われた。
「美咲」
「え?」
「私の名前。美咲っていうの。まだ言ってなかったでしょ」
名前ちょっと似てるねと、眠たそうな、吐息にのせるような声で美咲は言う。
マサキが答えないでいると、すぐに寝息が聞こえて来た。
眠ってしまったらしい。
美咲。
彼女の名前。
「知ってるよ」
その言葉を、マサキは飲み込んだ。
終電の車両の中で見かけて、すぐにわかった。
マサキの記憶の中にある姿よりも、当然成長していてしまってはいたけれど、
それでも、ひとめでわかってしまった。
マサキは美咲のことを知っている。
「……おやすみなさい」
マサキも、彼女に背を向ける体勢になって言った。応えは返ってこなかった。
知っている。
そのことをマサキは、彼女には言わない。
絶対に、絶対に。
2人はそのまま、お互いに背を向けて眠りについた。
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こうしておとこのことおんなのこは
この日一緒に夜をすごし、
そして、
この後一緒に、もっとたくさんの時間をすごしていくことになるのですが、
それはまだ先のお話です。
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(to be continued...)
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