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奥村が選んだ未来、その選択に関する考察。

ちょっと自分でもやばいなってくらい、最近『BANANA FISH』のことばっか考えてるんですけど
ちょっと、本編の「その後」のこと、
『光の庭』に至るまでの奥村の人生について考えることがあったので、これは書いて残しておこう、と思って書きました。

当たり前だけど、超想像の超妄想なので「解釈違ってもまぁ許せるよ」という人、
かつ大前提として
・本編読後
・『光の庭』も読んだ
もしくは
・読んでないけどネタバレ全然問題ないです
って人だけ続きにおすすみください。











大丈夫? 本当に大丈夫?

以下からいきますよ?



奥村に関しての謎

奥村はなぜカメラマンになったのか。 が、実は私、ずっとよくわからなかったんです。

でもこないだ、アニメ始まるちょっと前に『BANANA FISH』全部読み返していたとき、ASIAN KUNG-FU GENERATION(アジアン・カンフー・ジェネレーション)の『転がる岩、君に朝が来る』って曲が流れてきて
それ聴いて、あぁ、こういうことなのかもな。って、ちょっとしっくりきたのです。

『転がる岩、君に朝が来る』は、ユーチューブの公式チャンネルで聴けます。

https://www.youtube.com/watch?v=sXrkgyxATwg

歌詞は、さっき検索してとりあえずすぐ出てきたやつを貼っときますね。

http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=A02680


アッシュは何に勝ったのだったか

奥村はアッシュに「運命から君を守りたかった」と書いた。
では、アッシュの運命とはなにか。彼の運命を作っていたのはなにか、といえば、社会とか環境とか、そういうものだったと思う。

アッシュは勝った。支配の象徴である暴力で従わせようとする人間に。過去から現在まで自分を縛っていたものに。
そして、どれだけ手酷く扱われても、「魂は自由だ」と言った。そう言って挑んでみせて、その先で、アッシュはたしかに魂の自由を勝ち取った。

で、どうなったのか。

その後アッシュは、「また街のダニに戻る」と言ったのだ。
もちろん、自分を「街のダニ」と言ったときに浮かぶ感情は、以前のものとは違っていただろう。
感傷や、どこかワルぶってみせるみたいなところもあったかもしれない。相手は師匠だし、おどけてみせるような。
でも、本心でもあったはずだ。
「街のダニ」ではない、違う人生を彼は生きようとはしていなかった。

アッシュの生きる世界は変わらず、彼を取り巻く社会もかわらない。
ということは、
街のダニであるアッシュは、また何度でも狙われ、脅威に晒されたろうと思うのだ。

アッシュは、個人としては「チート」としかいいようのない存在だ。
物語として、チートである必要があった。チートでなければ到底抗えなかった。なぜなら相手は個人ではなく、社会だから。
ただの個人では「社会」に勝てない。だから、ただの個人ではいられなかった。

何がアッシュを奪ったか

もちろん、ラオではあるんだけど。
これもけっきょく、「社会」とかそういうものになるのではないか。

アッシュが奪った命は計り知れないほど多くあって、ということはラオではなくとも、動機がラオとは違っても、どうせアッシュは狙われ続け、いつかは同じ最期を遂げていたのではないか。そう思う。

なぜ隙を見せた、とラオは言った。
手紙のせいのように見えたし、それはたしかに事実ではあるけれど、あの時にそうなっていなくても、おそらく結局は、遠くない未来に同じようなことは起きただろう。
なぜならアッシュは自由になり、安息を知ったから。

たとえば、奪われる一方でひとときも気の休まらない環境の中よりも
安心できる、落ち着ける、息のつける環境に身を置くことを知ってからの方が、悪夢にうなされて飛び起きるようなことは多かったはず。
少しでもまっとうな環境に身を置いてしまうと、それまでの異常に耐えるのは難しいから。

だから自由と安息を知ってしまったアッシュは、もう気を張り続けることはできない。
手に入れた日常の中にある安らぎは、ナイフを差し込むのにあまりにもちょうどいい。

それだけの敵を生むような生き方、それらは全て、生きるために必要な闘いだった。
そういう環境だったし、社会で、その中に彼は生まれ落とされた。
社会が、環境が変わらなければ
アッシュはあぁいった最期を迎える以外の生き方はできなかっただろう。

……と、いうようなことを、奥村はどこかで想いはしなかったか?

奥村は知っていた。
アッシュがアッシュになるまでの軌跡。
もちろん、すべてを知っているわけではない。
しかし、幼い彼の身に何が起き、なぜ彼は8歳で人を殺し、故郷を捨てねばならなかったのか。
どうやって踏まれ続けてきたのか。
その中を生き延びてきたのか。

「運命」と言えるほど多くの存在が、彼をそう扱ってきた、ということを、奥村は知っている。

奥村が見ていたのはアッシュだけではない。
アッシュの仲間たちにも奥村は好かれていて、それは奥村が彼らひとりひとりと、ひとりひとりの個人として関わっていたからではないか。
それぞれに個性的で、「いいやつ」とさえ言える彼らも、しかしおそらくは、アッシュと同じく「社会」では生きていけない存在だった。
幼く、純粋で、ただまっすぐにアッシュを慕っていただけのスキップが、いとも簡単に殺されてしまったこと。

アッシュ自身も、かつて、弱肉強食の最後にいるのが自分だと言った。
それは彼自身という個の話に見えて、実は仕組みや構図への言及だ。

奥村に見えていた景色はアッシュのそれとは違う。
でもアッシュの隣で、彼らの置かれた環境を奥村は見てきた。

「街のダニ」たちが殺し殺される社会であること、そういう構造があることを、奥村もまた垣間見てきたのではなかったか。

たとえ言語化し、明確に認識していたのではなくとも、奥村もまた同じ断絶を見ていたはずなのだ。

奥村は闘う人である

奥村は可愛い。ただしご存知の通り、可愛いだけの天使ではない。
そもそも彼はスポーツマンで、つまり、闘ってきた人だ。
記録と。自分と。周囲からのプレッシャーと。努力だけでは必ずしも埋められないものと。その中で常に、絶えず、限界を飛び越えようと闘ってきた人間だ。

たとえば、とても柔和にみえた7seedsの新巻がバーサーカー的な本質をも持っていたのと似て、奥村も闘う人なのだ。
アッシュとは違うけれど、奥村もまた、闘って生きてきた人間だった。

奥村のその「闘う人である」という本質は、アッシュと出会い別れた後も、変わっていなかったのではないか。

奥村はカメラという武器を選んだ

イベさんと最初に渡米してきた時、奥村に「カメラマンになろう」というまでの意思・決意はなかった。アシスタントとして、ごく最低限のことはできても。気の迷いのような揺らぎはあったとしても。
ほんの少し前までは強烈な別の世界(棒高跳び)を持っていて、そのことについて思い悩み鬱屈を抱えていた、ただの19歳の少年だ。
カメラの道に進むと決めて渡米した、わけではないのだ。

アッシュを失ってからも、その将来への展望がすぐに明確に変わり作られた、なんてことはなかっただろう。
(彼との日々の中で、カメラと親しむことはあったわけだけど)

彼を失って、すぐにカメラを手にしようと決めたわけはないし、自分の将来とか、そういったものを考えることすらもろくにできない日々だったはず。
むしろ今までに一度だって、「自分の将来のこと」としてカメラを捉えたことはないかもしれない。その道を選んだ今でさえ。

奥村はあのことがあったその後、
フィルムにおさめてきた彼との思い出を全て封印し、目を背け続けてきた。
見つめることができなかった。
奥村にとってカメラは、そういうツールだった。

なのに、なぜそんなツールを選んだのか。
それは、カメラがそれだけ強力な……目を向けただけで自分を完全に打ちのめすことができるほど、それほどに”強い”力を持ち得るものだと、知ってしまったからではないか。

カメラは瞬間を、リアルを、目に見えた世界を切り取り映し出し、残し、見る人に否応なくつきつける。
その威力を知ったからではないか。

強いものと知ったから、怖くても、奥村はそれを武器にしたのではないか。自分もまた闘うために。

奥村が映し出すもの

奥村が被写体に選んだのは、ニューヨークという街そのものだった。
街は、そこに生き暮らす人々がつくるもの。その街に暮らす人々が、どう生きているのか。
光も闇も、全部。

「街のダニ」と呼ばれた存在たちは
生きていれば邪魔、死んだら死んだで迷惑、そんな命だったはずだ。
でも、そんな命も
おそらく奥村のカメラの前では、等しくただの人間なのだろう。
ダニではない。
ゴミでもない。
おしゃぶりするしか能のないセックストイでもないし、何かのついでに殺さるべきものでもない。
ニューヨークに暮らす”普通”の人々と街のダニとの間にあった深い断絶の、
その「あちら側」と「こちら側」に暮らす人々との間に、なんの違いもなかったはずだ。

チャーリーらは、アッシュを嫌いにはなれないと言った。
相手が生きている人間だと知って、思考も感情も持つひとりの人間として見ることができるようになってしまえば、もう、ダニとして駆除し踏み潰して当然の命には見えなくなる。
そういうこともある、のかもしれない。

そういう可能性を、奥村は見たのではないか。つくり、つかもうとしたのではないか。

深い断絶があって、「あちら側」は断絶のこちら側を人間とは思っていない。
アッシュは、そういう社会そのものと闘っていた。
残された奥村は、だから奥村も、闘うことにしたのではないか。

エンデの『はてしない物語』で、アトレーユがバスチアンの消えた世界を引き受けたように
BFの生みの親である吉田秋生の『YASHA』で、有末静が選んだように
奥村もまたアッシュのいなくなった世界で、彼の闘いを生きて継ぐと決めたのではないか。
奥村にできる方法で。
奥村の闘い方で。


……と、いうようなことを考えていました。

奥村が写し、暴いてつきつける「優しい」世界は
断絶のあちらとこちらのどちらにも、同じだけの光をあてる。

深い深い世界の断絶、
その色濃いラインを引きなおすこと。
自分の暮らす街の足元にもあるその線を、これまでとは違う色で塗り替えていくような、そうして境界をなくしていくような闘い。
とても地道で、派手さもない営みだけれど
でも実際に社会を変えてきたのは、いつだってそういう「チート」ではない人たちの営みでもある。

まぁ奥村はもう注目されてたけど
それはチートではない彼が、Aの写真とは向き合えなくても、それでも逃げずあの街で暮らし、生きて、歩き続けてきた証でしかない。

全ての断絶をなくすような大それたことじゃないかもしれないけど、
そのために、ということを、もしかしたら意識的にしていたのですらないかもしれないけど、
だけどちょっと、やっぱり、それもあるのではないかな。と。

つまり結論は「奥村も尊い」ですね。
奥村も尊いです。


おまけ

奥村はその後、結婚もしたかも。子どももできたかも。
ただ、あの街から離れることだけは絶対にできなかっただろうな。

と、長らく思っていたのですが
吉田秋生本見たらそんなようなコメントがあって、ですねー、と思ったのを思い出しました。

そうか彼は生きて、「その後」を積み重ねていくことができたのだなーと、ますます感慨深くなったりしたのでした。
尊いね。


おわり。

およみいただき、ありがとう!


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