見出し画像

宗教画を描くひとの気持ち

メトロポリタン美術館展に行ってきたので、そこで考えていたことを書いてみる。(美術批評では全くない)

この展覧会はアメリカのニューヨークにあるメトロポリタン美術館に所蔵されている約2500点の作品の中から、1400年代の初期ルネサンスから1800年代のポスト印象派まで、西洋絵画の500年を彩った65点を選び展覧されたものだった。

展覧会は
 Ⅰ. 信仰とルネサンス (15~16世紀)
 Ⅱ. 絶対主義と啓蒙主義の時代 (17~18世紀)
 Ⅲ. 革命と人々のための芸術 (18~19世紀)
という時代順で構成されていて、高校のときに世界史を勉強していた身からすると懐かしさを覚えながら鑑賞することができた。

今回の展覧会で色々考えたことはあったけれど、このnoteでは宗教画について考えていたことを書いてみたい。


少し前に美術に詳しいひとから
絵画を鑑賞する時は、腕を伸ばして手が届くぐらいの距離まで近づいて観てみるといい。つまり画家が筆を持って描いている距離で観るということ」
と教えてもらったことがある。

その一言をきっかけに最近絵画を観るときは
「画家のひとはどういう気持ちでこの絵画を描いたんだろう?」
と、描いたひとの靴を履こうと試みている。

そうやって鑑賞した時に面白かったのは、宗教画だった。

『ゲッセマネの祈り』

最初鑑賞していた時には、宗教画を描く画家の全く気持ちが理解できなかった。
だが、当時のことを考えてみると、現在と違ってスマホはもちろん、パソコンもテレビもラジオもない。都市といっても車も電車も飛行機もない。情報伝達や情報記録の技術が今と比べると著しく低い
ということは、今みたいに映画や漫画など触れられるコンテンツ量も少ないはずで、当時の主流コンテンツはキリストの物語(聖書)しかなかったんじゃなかろうかと。
僕たちが『鬼滅の刃』や『呪術廻戦』というコンテンツを消費するように、当時の主流コンテンツが聖書だったのではないだろうか。

そう考えると、宗教画は現代における二次創作イラストと捉えると、少し気持ちがわかる気がしてくる。
好きなラノベを読んで、そのなかで好きなシーンをイラストに描き起こすように、聖書を読んで、心に残ったシーンを絵画として描きだしていたのではないだろうか。

あくまでただの妄想なわけだけど、そうやって妄想してみると、宗教画がちょっとかわいく思えてくるし、元ネタ(聖書)の内容もちゃんと知りたいなと思えたりする。

いただいたサポートは、書籍代に消え、そして雨となって次のnoteになっていきます。