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【桜のある景色② -しだれ桜を見上げる犬-】

虫にやられて今はもう無くなってしまったが、山口県下関市にある祖父母の家には小さいがしっかりとしたしだれ桜が一本あった。母が生まれる前から私が幼いころまであったから樹齢は7・80年だったろう。女性的ないでたちで、春になると華奢な姿に趣のある花をつけて家族を楽しませた。

その桜の下には頑丈な瓦が一枚置いてあり、そこには拙く「ポチのお墓」と彫られていてそれは私の母と叔母が小中学生の頃に飼っていた白い雑種犬の墓だった。ポチがいたのは昭和30年代だから放し飼いも許されていたのどかな時代で、ポチは近所の子供たちのいい遊び相手になったし、夕方になると公務員だった祖父を迎えに一匹で駅までトコトコと歩いていき、帰りは嬉しそうに尻尾を振りながら祖父を見上げ一緒に帰るのが日課だったという。

ポチは母と叔母、祖父母にとって大切な家族の一員で、かけがえのない犬だった。

ところがある日、晩ご飯を食べ終わった途端にフラフラし始めそのまま庭にパタンと倒れてしまい、祖父が慌てて獣医師のところへ連れていくとこれはかなり前から心臓の病気にかかっていたらしくもう手の施しようがないという診断だった。
「今晩、もつかどうか・・・」
という結果を抱えて祖父は青ざめた顔をして帰ってきた。

降って湧いた突然の最後通告がどうにも受け入れがたく大声で泣く娘二人に祖父は

「今晩は二人の布団に入れて一緒に寝てあげなさい」

言い、そのまま自室に引っ込んでしまった。毎夕欠かさず自分のことを駅で待っている愛犬をまさか明日喪うなど祖父にとっても受け入れがたかったに違いない。もともと番犬として屋外で飼っていた犬だったから潔癖な祖父としてはポチを家に上げることなどこれまで一切許さなかったが、最期の晩を一人外で過ごさせて翌朝の変わり様を見るのも忍びなかったのだろう。その晩は最初で最後、家の中に上げることを許した。
祖父に言われ小学生の母と中学生の叔母がお互いの布団をくっつけて二人の間にポチを寝かしつける。ポチは、初めて味わう柔らかな布団と二人に挟まれて眠るという体験に一瞬興奮したらしいが既に立ち上がる力はなく、わずかに尻尾を振って二人に喜びの意思を伝えるのがやっとだったという。小中学生の二人は息も絶え絶えになっていくポチの体を祈る気持ちで撫で続けた。そして、ぽつりぽつりと二人で話し始めていくこれまでのポチとの思い出。

「ポチが初めて家に来たときは、なんだか弱々しくってさぁ」
「ポチが小さいとき、私たちの靴をお庭に全部隠しちゃってねぇ」
「ポチが初めてお父さんを駅まで一人で迎えに行ったときは
 とにかくびっくりしたけど、お父さんがすごく喜んで。
 『ポチはお前たちよりずっと偉い』ってしばらく言い続けて
 私たち肩身が狭かったものね」

語りだせば止まらない思い出の数々。ポチがいなければ決して過ごせなかった幸せな時間。楽しかったこと、嬉しかったこと、叱ったこと、励まされたこと。犬と人間、残念ながら言葉こそしゃべれないけれど、お互いにすべては通じ合っていたのだと思う。ポチは人間の言うことをちゃんと聞いていて、実はすべてをわかってくれていた。

二人は泣きながら笑いながらポチを挟んで話し続け、ポチも二人の話を黙って聞いていた。そしていつの間にやら三人は眠りに落ちて明け方。ハッと母が目を覚ますとポチがじっと母の顔を見つめている。

「ポチ!!
 ねぇ!お姉ちゃん起きて!生きてる!
 ポチが、峠を越えたかもしれないよ!!」

大慌てで姉を叩き起こし二人してポチを見るとポチはいつもと同じよう、パチクリと大きな目を開けて優しい瞳で二人を見つめていた。よかった、心臓が悪いだなんて嘘だったんだ、あの獣医はヤブ医者だ、ポチはどこも悪い所なんてありゃしないんだ、ああ、安心した、ポチがまだ死ぬわけがない、ずっと、ずっと、一緒にいようね。喜ぶ二人。ポチはそんな二人を見てゆっくりと顔を上げ静かに顔をペロ・・・ペロと舐めた。
そして。
微笑んだままゆっくりあごを枕に乗せて再び目を閉じ、そのままになった。

「ポチ!・・・ポチ!!!」

揺すってもさすっても、もう、ポチは目を覚まさない。
急速に冷えていくポチの体が怖くて母と叔母は強く必死に撫で続ける。

「ポチ!!ポチ!!・・・・ダメ!!・・・・いやぁ!!」

・・・・・・・・・
小さい頃からずっと一緒だった英子ちゃんと美恵子ちゃんが、
ボクの体を一生懸命に撫で続けてくれたやさしい夜。
一晩中聞かせてくれた数々の思い出話はとても楽しくて幸せな時間だった。
最後、二人と一緒の布団で初めて眠り目覚めた朝は特別の朝。
どうしても二人にありがとうを伝えたくて、起きるのを待っていたんだ。
二人の手の温かみと楽しい話のおかげで、今、ボクの体は痛みもなくとても穏やかです。
みんなの家族の一員になれて、ボクは幸せだった。
最後、会えなかったけど、お父さんとお母さんによろしくね。
・・・・・・・・・

ふすま一枚を隔てた隣の部屋、娘二人がすすり泣く声で祖父もすべてを察したろう。

「・・・・おとうさん・・・・ポチが、死にました」

娘たちの報告に、祖父は朝刊で顔を隠しながら短く

「しだれ桜の下に・・・お墓を作って埋めてあげなさい」

最初に言ったよう、しだれ桜はもう祖父の家になく、「ポチの墓」と書かれた瓦も当然のことながらもうない。祖父母もいなければ私の母も亡くなってしまい、この話を知るのは叔母と私の二人だけだが叔母も認知症が進んでしまって今は記憶が定かでないと親戚から聞く。

私自身が犬を飼うようになって、私は母から聞かされたこの話をよく思い出す。そしてこの話を思い出すたび、愛犬と過ごす一瞬一瞬がかけがえのない喜びなのだということに心があらたまる。犬の命はあまりにも短く、人間の命は長い。


私の記憶に遠い、既に無くなってしまった女性的な一本のしだれ桜。
青空の春風にたゆとう可憐なしだれ桜の下、話を聞く限りかなり利巧なポチという名の白い犬が、祖父母、母、叔母の4人で笑っている心象風景が私にはある。心が、形になっている。

薄紅色のしだれ桜が、やさしい春風にいつまでも揺れている。

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