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「私は人種差別者ではない」が被差別者に与える痛み

ジョージフロイド氏の警察官による殺害を受けてアメリカ全土で起こっている反人種差別のデモ、ムーブメント。今までと大きく違うのはそれに呼応する各企業がそのムーブメントを支持するステートメントを出すだけでなく、実際に白人至上主義の社会を変えるべく、行動に移せ、とのプレッシャーを受けているという所だ。


それを受けて、「人種差別主義者」でない普通の白人が様々な本を読み人種差別について学ぶ風潮が起こっている。そこで必ず取り上げられるのがロビン ディアンジェロ著の2018年、

「White Fragility」

と言う本だ。

著者の彼女が大まかなテーマを話しているyoutubeを見つけたので、訳してみた。

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全ての抑圧のシステムは適応性が高い。相反する力を取り込み、例外を作る。市民権獲得を目指す反抗勢力に対して現存人種差別システムが取った一番の適応は「レイシスト」の定義をシンプルな方程式に落とし込んだ事だ。

●「レイシスト」は個人である。必ず個人。制度、システムではない。
●「レイシスト」は意識的にある人種グループを嫌う者。必ず「意識的に」である。
●「レイシスト」は意図的にそのグループに不親切である事を選ぶ。

個人(individual)、意識的(conscious)、意図(intent)。

この定義を持ち続けるなら、誰かが私や私の行動を「レイシストだ」と呼ぶ時それは私にとって
「お前は悪人だ」
と言われた事と同じ事となる。私を、そっちのカテゴリーに入れた、と認識する。

でも私が言ったその一言はわざとじゃなかったし、そういう意図は無かった(私はレイシストでは無い)のだから、その言いがかりは私は絶対にはねのけねばならない。

こういう状況、私達は何度も見て来た。

「レイシスト」の定義をこのように設定するなら、普通の白人が
ーー自分の周りをしっかり見渡して、
ーー自分が確実に差別的なバイアスを持ってしまう状況を見定め、
ーーその差別的「システム」の中で既得権益を享受する自分たちが快適に暮らしている事を確認すること
はまず不可能。

この「レイシスト定義」、either-or、善悪二元論。これが人種差別のトピックに関して私達(白人)が自分たちを守る態度に出てしまう動機の根底にあるものだ。そうすれば、誰も私達を糾弾できない。私達が自動的に持ってしまっている人種差別的世界観を。私達が人種差別の海を泳いだだけで体にしみ込んでしまったその世界観を。

私の話をしましょう。

白人としてこの世界で育って来た結果、私には人種差別的な世界観があります。深い人種偏見があります。レイシストの行動パターンを発達させ、この人種差別的なシステムをしっかりと見据えた事がありません。なぜなら、このシステムは私にとっては快適なものだったからです。このシステムのおかげで様々な個人的苦境を乗り越えられました。このシステムが無かったら、と考える事も無かった。このシステム外で私のアイデンティティーはどうなるのか、なにが必要になるのか。。。

好き好んでこうなった訳ではない。罪の意識はない。差別主義の上に建てられたこの社会で育てば、確実に誰もがそうなる。

罪の意識は「それに対して私は何をすべきか」と言うところで現れる。

人種差別の話をするときに、私達白人は繊細(fragile)になり、すぐ(私をレイシストと言うのか、と)怒ったりする。逆に私達のこの反応が起こすインパクトは繊細でも何でも無い。防御に使われる武器だ。(レイシストと呼ばれて)傷ついた、と言う事を武器としている。非難を撃退するのに非常に有効な武器だ。白人として私は世界の中を24/7人種差別に晒されることなく歩いてる。私が自分の人種に関してぎこちなく感じることは稀だ。そういう所には行くなと、忠告されて生きて来た。そしてたまに人種に関して不快に感じる時、その均衡を元に戻すべく、また同じ場所にどうやってでも戻ろうとする。

その様を見る時、この「白人の繊細さ」ははっきり言って、人種的な「いじめ」である、と言える。

私達はこうやって有色人種に人種差別の話をさせる隙を与えない。私達の自覚のない差別的行為、私達が人種差別基本の社会で生きて来て獲得せずを得なかった差別的世界観を、有色人種に指摘される事を徹底的に防ぎ、それをする時彼等にとても嫌な思いをさせる。そんなに嫌な思いをするなら、と彼等は話をする事を止める。私達は知らないといけない。白人多数の環境で働き、暮らす有色人種は彼等が勇気を出して口に出すより何倍もの侮辱や傷心を毎日家に持ち帰っている事。それを全て報告すれば報復が待っているから。友達を失うから。自分の痛みを矮小化され、却下されるから。話し相手を傷つけたり、攻撃されたと思われてしまうから。

「白人の繊細さ」は日常の人種差別抑圧として機能する。その意図は無くても、だ。

そしてそこに気づく事で私達は自由になり変わる事ができる。

それを認識し理解する事で、過剰に自分を守る事を止められる。(会話を)拒絶することを止められる。(非難する人の痛みを)矮小化することを止められる。その努力をしなければいけない。

私達白人は自分たちへの差別を全く感じず自由に暮らしている。私達が暮らすその社会は差別に溢れている。

コレは真実か?虚実か?の質問ではない。

コレは善か?悪か?の質問でもない。

これはどうやって機能しているのか?という質問。これを問うて行くべきだ。

私が語る物語がどのような機能を果たしているのか。

「私は一人の(人種関係ない)個人だ。一人一人の人間として話をしましょうよ。」

「全ての人を平等に扱うように教わって来たのよ。」

「人種差別を語ることは分断につながるでしょ。」

「私、黒人の友達たくさんいるのよ。」

こういう物語は、私達が人種差別に対して起こす行動ではない。こういう物語は人種差別の会話をテーブルから外す役割を担っている。会話をこれ以上先に進ませないようにする役割。そしてそれは今白人上位のこの社会ヒエラルキーを保護する役割。それを意図してやっている訳ではない。しかし、結果的にそうなるのだ。

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(*訳者私見)

分かりにくいと言う意見もあったので要約しますね。

既得権益層で生きていれば差別的傾向がつくのは当たり前で、みんなちょっぴりレイシストなんだから、「そういうつもりじゃなかった」との理由でレイシストじゃない、って言い張って会話を拒否するの止めたら?

ってことです。

差別主義、というのモノが個人だけでなく、「制度」「システム」の属性にもなり得る、と認識を変えるなら、そこの海で泳いでいた私達が意図せず差別的になる事は当然であり、だからといって私達が悪、と言う訳ではない。そのこと事態に罪悪感を持つ必要もない。そこで勝手に傷ついて会話を持たない事、「あ、それ差別発言だよ」「それちょっと嫌だった」と言われた時に「私を差別主義者とでも言うの!?」と逆切れする事を止めましょう、と言っている

レイシスト、は、組織や社会の仕組みもそうあり得ると知る事。

そうすればこの戦いは

黒人 VS 白人 でなく

マイノリティー VS マジョリティ でもなく

私達全員 VS 旧態依然とした差別構造

の戦いである、と言うことも理解できる。

「人間」や「グループ」をターゲットにした時、「あの人も悪いけど、この人も悪い」「どっちも少し良くてどっちも少し悪い」とグレーゾーンの話になる。それは当然だ。物事は白黒でなく、全てグレーの濃淡だからだ。

しかし、「システム」をターゲットにした時そこには打ち倒すべき厳然とした悪がある。そこの白黒ははっきりついている。私達は一丸となってそこに向かっていかないと行けない。


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