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2014年に38年間の歴史を終えた「春だ。桜だ。金☆だ。」で始まる「ラキラキ」六本木GAY術・劇場~Mとの出会い

「ラキラキ」(Laki Laki)はインドネシア語で「男の子」の意味だそうです。

1976年から2014年まで続いた伝説のショー・クラブです。

最初は六本木交差点近くの一階に酒屋が入ったビルにありましたが、クラブ・「Seventh Heaven」があるビルの6階に移りました。

38年間の歴史を終えるまで、「ショー・タイム」は年4回、春夏秋冬の季節でかわりました。

「ショー・タイム」の始まる前に必ず「キャチフレーズ」が流れます。

春は「春だ。桜だ。金☆だ。」夏は「夏だ。祭りだ。金☆だ。」秋は「秋だ。紅葉だ。金☆だ。」そして冬は「冬だ。コタツだ。金☆だ。」

このフレーズは、ずっと変わりませんでした。

懐かしいフレーズです。

初めて「ラキラキ」に行ったのは、いつだか定かではありませんが、まだ酒屋のビルにあった頃です。

六本木のバーで飲んでいた時、店長に「面白い店があるから行きませんか?」と
誘われ、結構、酔っていたのですが、一緒に行くことになりました。

連れて行かれたお店は満席状態でしたが、Cママと店長が顔見知りなので席を作ってもらえました。

そこで紹介されたのが、MとCママでした。

Mはスキニー(痩せ形)な目鼻立ちがくっきりとしたシォートカットの美人でした。

僕は相当、酔っていたのですが、Mはタイプだなと思いました。

4人での会話が弾み、僕は酔った勢いで初対面の彼女に赤坂に当時あった芸能人の歌と食事が楽しめる「コルドン・ブルー」にいかないかと誘いました。

MはCママと店長と4人で行くなら、オッケーだというので、「コルドン・ブルー」の後は同伴で「ラキラキ」に行くことにしました。

その時は相当、酔っていたので、次の日、Mに確認の電話を入れました。

電話に出て来たMの声で、彼女が男性であることを再認識しました。

後でわかった事ですが、Mは「ラキラキ」でも人気があり、1982年に公開された映画「道頓堀川」(監督・深山欣二 主演 松坂慶子・真田広之 )にカルセール麻紀と一緒に
出演したこの世界で有名人であることを知りました。

また銀座でホステスをしたこともあり、お客様の人気もあり「ラキラキ」でNo1の1人でした。

「ラキラキ」は西麻布にあった高級ニューハーフ・クラブ「プティシャトー」とは金額的にもお店の客層も全く違っていました。

踊り子さんへのチップも「プティシャトー」では万札単位でしたが、「ラキラキ」では千円札単位でした。

ここではショーが始まる前に、前述の「キャッチフレーズ」が流れます。

また店内が暗くなると、踊り子さん達は席を離れ、楽屋に行きショーの準備をします。

ショーの構成はコミック組と美人組が交互に出て来るものです。

この対比が面白くお客様は大笑いと美人組の美しさに見惚れてしまいます。

最後のフィナーレには全員が美しい同じ衣装で出て来ます。

その後、踊り子さんの紹介が1人づつあり、その時、お客様は気に入った子にチップをあげるわけです。

フィナーレで1番人気があったのは、全員がウエディングドレスで出て来て、各人がお客様の中から、パートナーを選び、お客様とのツーショットの写真を撮るものでした。

インスタント・カメラで撮り、写真はお客様に渡されます。

最後は出来上がったカップル全員で集合写真を撮ります。

これはど迫力でした。

後ショーのトリで演じられるCママの「花魁道中」も大人気でした。

Cママは物凄く妖艶で美しかったです。

「ラキラキ」には女性同士や男女のカップルそれに団体の男性のお客様が多かったです。

ショーは大体、1日に3回ぐらいやっていました。

ここでは女性のお客様も男性のお客様も踊り子さん達との少しHな会話を楽しみ、踊り子さん達へいろいろな質問を浴びせていました。

Mとは気が合ったせいか「コルドン・ブルー」に行った日以来、度々、食事をして
お店に同伴するようになりました。

またMは当時、赤坂にあった高級クラブ「Joy」や新宿にあった「あべちゃん」や「黒鳥の湖」それに六本木の「シャルル」や「マンディ」などの老舗や有名店を紹介してくれました。

そんなことで結構、僕もこの世界で顔が広くなり、後にいろいろな方たちと知り合うきっかけをMが作ってくれたのでした。

それから2、3か月たったある日、お休みの日に2人で近場のグァム島に行こうという話になりました。

Mは水着がないと言うので西武デパートに買いに行くことになりました。

2人で女性の水着売り場に行く時は、少しドキドキしました。

Mは気に入った水着が見つかり、店員さんに
「あたし、男の子なので水着にパットを沢山入れてくれませんか?」
  と頼みました。

その時の店員さんのキョトンとした顔を、今でも覚えていますが、僕も内心、顔に火がついたような恥ずかしさというか、戸惑いで一杯でした。

グアム島には早朝出発するパック旅行で行くことにしました。

お店が終わってから、2人で箱崎に向かいました。

MはノーメイクでT-シャツにジーンズという軽装でした。

グアム島に向かう飛行機の中では、Mはグッスリ寝ていました。

ホテルに着き、夜、グループツアーの人達と一緒に食事した時には、バッチリ化粧したので、グループツアーの人達は、ビックリした目で、彼女を凝視していました。

Mと免税店に行った時、店員さんに「新婚旅行ですか?」と聞かれた時
Mは嬉しそうに「YES」とうなづいていました。

あっと言うまに、グアムの時間は過ぎ去り、帰りの飛行機の中では、Mは、またノーメイクでした。

日本に到着した日は、Mはお店に出勤しなければならないので、少し寝てから夕食をとって、2人で同伴でお店に入りました。

お店の子たちは好奇心一杯の目をしながら、「グアムどうだった」と聞いて来ました。

Cママは、僕に「ラキラキ」に来るお客様達を紹介してくれました。

ある日、当時のNHKの大河ドラマの出演が決まった俳優のNを、紹介してくれました。

僕は日本史中心の出版社をやっていたので、参考資料としてNに、自社の「秀吉」関係の出版物をNの自宅にお送りしたことがあります。

Nからは勿論、礼状が届きました。

Nは腰の低い魅力的な方でした。

また「ラキラキ」の常連であった「なんとななくクリスタル」で1980年度の文藝賞を受賞した作家Tとも知り合いました。

彼は後に政治家になりN県の知事にもなりました。

Tとはその後、食事をしたり、ロータリークラブで卓話をしてもらったりしました。

「ラキラキ」は朝4時頃までやっていたので、最後まで残って賄いをみんなで一緒に食べたこともありました。

一度、Cママに「「ラキラキ」に勤めている子達は、いろいろな悩みを抱えているのよ」

「でもスポットライトの下では、艶やかに踊り、客席ではお客様と何の悩みもないように会話しているの」

「あなたは、それを、よく理解してあげてね」

と言われたことがあります。

世の中には表と裏があり、表だけ見ていれば、華やかに見える世界も、裏には、いろいろな汚いことや悲しみが隠されていることを痛感しました。

「バブル時代」にはお金が湯水のように使われ、人々は夜の街にくり出し、明け方まで飲みあかしていました。

当時は酔っ払いも多く夜の街で見かけましたが、この10年以上、酔っ払いを見かけることは、ほぼ無くなりました。

深夜まで、営業しているレストランも無くなりました。

赤坂、六本木からは「ラキラキ」のようなお店や高級ゲイバーもなくなりました。

夜の六本木や西麻布を歩いている時、当時の喧騒を懐かしく思うのは、僕だけでしょうか?

自分が歳をとったんだなーと思うこの頃です。


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