自分の身体は自分で労わらないと可哀想かもしれない
自分の中ではとっくに終わってることなので普段は忘れているけれど、何かの拍子で蘇り、一度蘇ると長い長いストーリーだったことに気づきます。
つい今しがた他のnoterさんの共通のテーマの記事を読みました。全てではないけど明らかに重なっているところがあり、蘇って来た痛みの日々のことを、同じような状況にいながら周囲にわかってもらえず、一人で苦しんでいるかもしれない人のために書きます。(長文です)
もっと自分の体の叫びを聞いて、労わっていたら、違った人生だったかもしれません。
この話は婦人病、特に子宮内膜症にまつわる話です。
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「生理痛がひどい」とひと言にいっても、その程度は人それぞれで「私も!」という人がいてもその程度が同じであることは稀です。ですので親しい友人などに話しても、話を聞いてもらえるという以外には正直あまり助けにはなリません。でも親しい人でないと、なかなか持ち上がらないトピックでもあります。
体質的に、私は中医学でいうところの血の道症というやつだと思います。体温が低く、顔に血の気が見えず、唇には赤みがなく、皮膚は褐色。足が冷えるのは昔からで、冬は霜焼けというか、足の指が部分的に紫色のゼリーのように半透明っぽくなるのが常でした。体質が改善できることを知ったのはごく近年のことで、それでもソックスを履かずに寝られるのは1年のうち8月だけ。常に貧血気味で、高校生の時献血をしようとして断られ、生理痛にかけては、ひどい時はバスルームの前で床にのたうち回るほどでした。それでも一連のこの症状は、殆ど理解されることはありませんでした。
私にとって一番辛かったのは、一番守ってくれてもいい、同じ女性である母親の無理解と心無い言葉の数々でした。
「病気じゃないんだから」
「あなたはすぐ弱音を吐く」
「気にしすぎ」
「家にいるから余計気になるのよ、外へ行ってらっしゃい」
と、お腹が痛くて直立もできない時に外へ放り出されます。バス停までもろくに歩けず、でも近所の目があるので必死で、公園までがんばろう、と何とか這いながら歩き、どこという当てもなく外出させられました。母はただうずくまっている娘が家にいるのが目障りだったのかもしれません。
生理痛の本格的にひどくなった高校時代は、友達はとても協力的でした。ある時一緒に下校していた友人二人が、歩けなくなった私のために薬を買いに行ってくれ、駅の構内のおそば屋さんでお水をもらってくれ、私は駅のベンチで前かがみになっている以外は動けず何もできませんでした。彼女たちは何台も何台も電車を見送り、「帰っていいよ」という私を、動けるようになるまで待ってくれました。それでも薬はそれ程効かなかったのですが、その涙が出るような行為は今でも鮮明に憶えています。
大学の頃は自分でスケジュールなどをある程度コントロールできるのでまだましですが、働き始めると大変でした。まず私は通勤に2時間半くらいかかっていたので、生理の時でなくても、この通勤がものすごく負担でした。私の使っていた電車は15-20分に一度しか停車せず、したがってドアが開きません。その間に気分が悪くなって意識がなくなってしまうのです。時にはそれが来るのがわかり目の前が紫色になります。でもそれが起こった時は既に遅く、満員電車ではしゃがみ込むことも不可能です。そして気が付くと、駅の柱にもたれかかり酷い格好で座り込んでいるのです。どうやってそこへ落ち着いたのか全く記憶にありません。電車を下りる人のさぞかし迷惑になっていたと思うので、「邪魔だよ」と言われ蹴っ飛ばされながら降りたのかもしれません。とにかく電車の中で優しい待遇を受けたことはありませんでした。
やがて私はちょくちょく品川駅の駅長室にお世話になるようになりました。気が付くと、駅長室の中の細いベッドに寝かされ、私が意識を取り戻すころ、いつも朝礼のようなものをやっていました。ここでも何か声をかけられたことはなく、誰かが連れて来てくれたのか、柱にもたれかかりうなだれているところを駅員さんに発見されたのか、記憶がないので全くわかりません。その朝礼に邪魔にならないほどかぼそい声で「すみませんでした」と謝り、既に遅刻している職場へ赴きます。
仕事場の同僚も先輩もみんな理解がありました。私が20分ほど遅刻してくる時はそういうことなのだろうと、誰も意地悪を言う人はいませんでした。しかしまた私ほどひどい人も他にはいませんでした。会社の先輩、友人、恋人がみんな気遣ってくれる中、実の母親だけが鞭をふるっていたのです。
私はまた小学生の頃から朝礼でも持ちませんでした。同じように気持ち悪くなり、その場にうずまり込むか、我慢に我慢を重ね気づいたら倒れているかのどちらかでした。親が言うには、私が漫画ばかり読んでいて睡眠が足りないからだとか、好き嫌いが多いからだとか、朝食をしっかり食べないからだとか、つまり全て私が悪いのです。何を言っても私に跳ね返ってくるため、次第に何も言わないようになりました。まして駅で何度もお世話になっているなんて言ったらなんとドヤされていたかわかりません。またそんな感じですので、通勤に近い都内に住む事も許されませんでした。学生時代の通学においては片道に3時間かかり、それでも一人暮らしは許されなかったので。
一度婦人科にも相談しましたが、「基礎体温を測って3カ月後にいらっしゃい」と言われるだけでした。せめて薬だけでもくれていたら。。また医者に行くには保険証が必要で、親にバレるのでそのルートも塞がれました。
この通勤のこともあり、2年努めた後私は10時出社の会社へ転職しました。座っていればこれは起きないのです。そのため同じ時刻に家を出ても遠回りをしてすいている電車に乗れば座ることができたのです。
私は当時日本で売られていた、いわゆる生理痛に効くとされた薬は全て試しましたが、どれもそれほど効きませんでした。
アメリカへ引っ越してからは、これが電車の中で起きないように細心の注意を払いました。なぜなら私の頭の中では、ニューヨークは全ての人が泥棒、恐ろしい所、地下鉄の中で意識不明になれば財布から何から全て盗まれると信じていたのです。なので、なるべく混んだ車両を避けたり、満員に近い電車は見送ったりをしていました。
ところが毎日通勤をすればそうもいかず、ある時地下鉄の中で例のように具合が悪くなってしまいました。しゃがみ込むスペースがあったので、そういう時はぶっ倒れるよりましなのでその場でしゃがみ込むと、前に座っていた人たち3人が一斉に立ち上がって私に席を譲ってくれたのです。そして、
「大丈夫か。掛かりつけの医者はいるか?」
など口々に心配してくれて、私はこんなに驚いたことはありませんでした。日本にいた時は誰一人として気遣ってもらったり、優しい声をかけてもらうことがなかったので。私の心配とは裏腹にこの隙に盗みを試みる人もいませんでした。
今ではこれは起立性調節障害か起立性低血圧ではないかと思いますが、当時はそんなものは誰も聞いた事はなく理解も得られず、なんとなく怠慢に見られていたかもしれません。自分でそのような状況を作らないように努力すればなんとか防げるのですが、生理痛は相変わらずどうにもなりませんでした。ただ、アメリカではIbuprofenという強力に効く鎮痛剤がスーパーでも入手できます。これは学生時代アメリカに友人を訪れた時に知ったもので、それ以来アメリカに行く人がいれば何よりもこれをおみやげに買ってきてもらったほどです。そしてこれは私がアメリカに移住した理由の一つでもあります。これがないと生きていけなかったのです。
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ところが何年もすると、これさえも効かなくなりました。その頃は40代初めで「もう子供が持てなくてもいい、いっそ子宮を取ってしまおう」と思い医者へ相談へ行きました。私がフロアーにのたうち回るのを何年も見て来た当時の夫は、この決断については異存はありませんでした。
そして婦人科へ行くと、子宮筋腫(Fibrosis) が見つかり専門医へかかるように言われます。次に会った医者は 卵巣嚢腫(Ovarian cyst)があるといい、また別の専門家へ行けと言います。そして3人目の医者は大学病院で教えている権威のある人で、最終的な診断はステージ4の子宮内膜症(Endomitoriosis)で、子宮を摘出するしかないということでした。
私はこの時まで本当に母の言った「病気ではない」の言葉を信じて疑わなかったので、心底驚くと同時に、心底救われた思いでした。やっぱり病気だったのです。そしてこんな立派な(笑)名前のある病気で、重症だったのです。
医者は、
「どうしてこんなになるまで放っといたんだ?よく今まで耐えていたね。。。」
と同情的でした。この人が、見知らぬ、初めて会った、外国人の男の人が、初めて私のこれまでの苦しみをわかってくれたと思うと、感極まり、その感情はちょっと筆舌に尽くし難いです。
そして子宮から卵巣から一切を摘出し、それなりに精神的な打撃はあったものの、長年のこの悩みはとうとう解決しました。以来、痛みは完全になくなり、ガンのように何かが転移するなどもなく現在に至っています。
しかしながら、その診断と同時に母親への怒りは一気に燃え上がりました。
母親の言葉を真に受け、ずっと我慢し続けてきたこと、私を「根性無しで弱音をすぐ吐く性格」呼ばわりで傷つけただけでなく、ベッドに寝ていても痛がっている娘を外へ追い出した鬼のような母。。
何十年も苦しんだだけでなく、このために子供を持たずに私の人生は終わったのです。それまでは単に妊娠しなかっただけだと思っていましたが、明らかにこの併発した3つの病気のために妊娠できなかったのです。
これはアメリカではともすれば母親を告訴することもできます。特に結婚という契約を結んだ夫が、自分の子供ができなかったのが妻の母親の落ち度によるとなれば。ただし、私の母はアメリカに住んでいなかったし、母から裁判所を通してお金をもらっても少しも怒りは軽減しません。
その代わりに母にその怒りの全てをメールでぶちまけました。どんな思いで子供時代から耐えて来たか。医者はここまで進行するのは何十年もかかっていると言いました。苦しむだけ苦しんで子供を持たずに終わった、何のための生理だったのか、など胸の内の全てを書きました。
すると私の母はそれに対して逆切れしました。被害者気取りで、そのメールを家族親戚全員に転送したのです。生理のことなどが書いてあるのに兄や義理の弟にまでも。
実際にはそれを実行したのは父でした、母はパソコンを全く使えないので。私はその中学生並みのリアクションに呆れ、言葉もありませんでした。どうやら父までが母の味方で、後日
「(母が)かわいそうだ、何か言ってやれ。」
などと言って来る次第です。私の一人で苦しんできた長い年月の何一つも知らない人間が、数日間だけ娘に非難されたことで被害者気取りでいる母の肩を持ったのです。
更に驚いたのは兄嫁が手紙をよこしてきたことです。恐らく母に言われてのことだとは思いますが、内容は、そんなに責めたら母がかわいそうだ、ということ。。また、
「私の友達でも子宮筋腫で子宮を取っちゃった人がいるけど、せいせいしたわ、と言ってたわよ。」
などとよくしゃーしゃーと、人の家の事に口を挟めると感心しました。子育てを終えて子宮を取った人と、この病気のために一度も妊娠せずに終わった人間を一緒に考えているようでした。それに私は病気のために子宮摘出になったことだけを嘆いているわけではないのです。母親に産婦人科と同じレベルの知識を要求していたわけでもありません。どのような仕打ちを受け子供時代を過ごさなければならなかったか、一つも知らない人間が、いくら義母に頼まれたとはいえ、大した点取り虫です。
と、返信しようとよっぽど思いましたが、兄のために黙ることにしました。彼女は義母に頼まれたようにしただけのことでしょう、恐らく。でも私だったらしません。絶対に。同じ女として。
この時期私のただ一人の理解者は妹でした。妹はバスルームのフロアーでのたうち回っている私を、子供の頃から見て来たためだと思います。
「もっと早い時期にわかっていれば治療をして、とっくに子供を持てていたよね。」
と言ってくれました。母のメールの転送事件について教えてくれたのも妹です。ただ一人でも理解者がいたために、私はこのことを乗り越えて忘れることができたのだと思います。
私が母にたった一つ望んだことは「ごめんね」のひと言だったと思います。プライドかなんかでそれがどうしても言えないとしたら、せめてねぎらいの言葉とか。
「傍に行けないけど手術頑張ってね。」
とか。けれども何一つとしてありませんでした。
この事について話をすると、日本人の友人知人はまず母を非難しません。日本人は他人の親を悪く言わないようにプログラムされているようです。
「お母さんもそんな病気があるなんて知らなかったんじゃない?」
など、みんな母の肩を持ちます。結果私が理不尽な事についてゴネているような印象を受けます。
アメリカ人の友人達は100%私の味方です。
「人として、お母さんはあなたに謝るべきだ。でないとお母さん自身も救われない。」
などと言います。考え方の違いでしょうか。
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母はその2年後に家庭内事故で他界しました。私は母をずっと憎み続けたわけではないけれど、あれ以来どちらからも連絡を取ることはありませんでしたし、それについて後悔はしていません。兄嫁とは顔を合わせましたが、特に何にも触れずに普通にしていました。彼女はもうそんなことはとっくに忘れていることでしょう。
今はネットで色々調べられる時代で、知らない人と情報交換もできるので、一人で悩まずに済む事かもしれませんが、私の経験談として誰かの参考になればと思い書きました。生理痛と一口に言ってもその程度は1-10まであります。アメリカでは医者へ行くと何でもその時の痛みについて、1-10までのスケールでいくつかと聞かれます。1と10では同じ病気でも対処が違うはずです。
また最近では手術をしなくても、ホリスティックに子宮内膜症を治療できるらしい事も聞きました。私の場合はあの段階では手術以外には無理でしたが、まだ早期段階だったらそういう道もあるとわかってきたことは、素晴らしいことだと思います。
私の経験では、最初に行った時は医者は何でもないようなことを言い痛み止めさえくれず、次に行った時はもう手遅れ、という感じでした。痛みは自分の体が自分に向けて出しているSOSだと今では考えています。それを封じるように痛みだけを止めて蓋をしていると、もっと大きなことに発展してしまうかもしれず、その時に誰かを責めても、傷つき、苦しみ、何かを失うのは自分です。
誰もわかってくれる人がいないのは、どんな事でも辛いですよね。正しい認識があって自分だけでもそれを知っていたら、人生でしばしばぶち当たる「あの人にはわからないんだ」で済ませ、自分で自分の体に耳を傾けることが大切だと思います。自分が自分を労わればそんなに一人で怒り狂うことも、必要以上に傷つく事も防げるのでは、と今では思います。
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今日の記事が他のnoterさんの記事で、大きく大きくご紹介を頂きました。
今日の記事の題材となったのは、もともと智春さんのこちらの記事です。
智春さんはたくさんのファンがいる、鋭い視点からメスを入れるタイプの作家さんです。でも読者を縛らない、いろんなスタンスで読んでくれていいんだよ、といつも語り掛けます。智春さん、ありがとうございました。苦しみが少し減りました。(時間がやや経ったのは私が貼り付けの機能についてよく知らなかったためです 笑)