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『恨み』について ~恨みが人生に及ぼす影響、そして復讐心の根源~ #虎note

こんにちは、高見( https://twitter.com/tiger_stlv )です。

恨み。

貴方の人生には縁があるものでしょうか、ないものでしょうか。

この記事を読んでいるということは、貴方にはきっと縁のあるものなのだと思います。

貴方にとって、恨みとはどんな存在ですか?

自分を苦しめるものでしょうか?
それとも、自分をモチベートするものでしょうか?
それとも、付きまとってくるもの?煩わしいもの?

何かしらの深刻さのあるものだと思います。

どちらにしろ、長く人生に恨みがあるのであれば、恨みは貴方の人生にとって重要なものであるということです。

私にとって、恨みは身近な存在です。

先ほど、コンビニで買い物から帰る時に、途端に雨が強く降り始めました。

その時に「世界は俺に恨みでもあんのか!?」という気持ちが湧きました。

傍から見たらとんでもないおかしな話ですが、ご自身に引き当てて考えてみてください。

不運が続くと「自分が何か悪いことしたのかな?」という気持ちが出てくる。
辛いことに見舞われると「なんなんだよ!」という憤りが湧いてくる。
嫌いな人に出会うと「こんな人、いなければいいのに」と思う。

我々の人生は、そんな思い通りにならないことの連続です。

そして、それが続くとこういう感覚が湧き起こってきませんか?

「自分の存在は世界に歓迎されていないのだろう。」

と。

自分が不運で、嫌なことが起こるのは、きっと自分という存在がいてはならなかったのだ、というような思い。

世界に嫌われている、という曲がありました。

恨みの気持ちを持っている人は、そういう『受け入れられていない』という気持ちをどこかで持っていると思います。

その証拠に、気に入らない人がいると攻撃したくてたまらなくなりませんか?
その時に、どうしても自制が利かない。その人を叩き潰したくてたまらない。

その時の『自分が正しい!』という感覚と『恨み』がくっついていることに気付いていますか?

批判心は攻撃心は、いつでも恨みに裏打ちされています。

人生の一番ひどい時期、私はこう思っていました。

「俺をこんな風にしやがって!」

と。

グレてしまった人の多くは、こんなやり場のない怒りを持っているように思います。
グレていなくても、昨今の密告文化、暴露文化を見ていると、人々は何かを恨んで恨んで仕方ないように見えます。

恨み、というエネルギーが日本社会に蔓延している。

私も、恨みによって人生を過ごし、また恨みによって苦しめられた人生です。(いまだに、さっきのコンビニの帰り道のようなことを思うくらいですし。)

今回は、この記事を読んでいる貴方が、恨みから解放され、自分の人生をより自由に生きていくヒントを提供できればと思い、執筆に至りました。

今日は、我々の人生にとって、重篤な意味を持ちそうな『恨み』について書いていきます。


人生になくてはならない『恨み』

まず、大前提のお話をします。

恨みは悪いものではない。

ということです。

範囲の大きい話ですが、資本主義に於いてはより強い怒りが勝ちます。
もっと小さい範囲でいうと、あらゆる競争は怒りがなければ成立しません。

つまり、怒りの根源は恨みで在り、恨みがあればあるほどパワーがある。

ですから、恨みそのものを否定する必要はありません。

ですが、そのパワーの強さゆえに、恨みに過剰に振り回されてしまうことが沢山あります。

恨みがあったから努力をした。
恨みがあったから競争で勝とうとした。
恨みがあったからモテようとした。
恨みがあったからお金を稼ごうとした。

モチベーションとしては、恨みほど強いものはありません。

何かを獲得するとき、恨みは強いパワーを自分に与えます。

ですが、同時にそれらを失わせるのも恨みだということです。

例えば昨今の芸能人報道問題の多く。
彼らはおそらく恨みのパワーがあったからここまで這い上がれた。
だけど、恨みの解決をしなかったから、這い上がった後も復讐するように色々な物を得ようとした。
その結果、恨みによる自分の行いのツケが回ってきた。

短期的でわかりやすいものであれば、最近出所した暴露系Youtuberの方などはとても良い例です。
多くの人が恨みを持って生きているから、恨みのパワーで世に出て、支持を得た。その勢いで議員にもなった。
だが、恨みのエネルギーで生きたため、それ以上の恨みを産み出し、最後には恨みで得たものをほとんど失った。

つまり、我々は恨みによって何かを得て、恨みによってそれらを失うという構図になっているということです。

私も、恨みによって得たもののほとんどは、自分の恨みによる行いによって失っていきました。

つまり、どこかで恨みの処理方法を考えねばならない。

せっかく大きなものを手にしても、恨みを抱えている大きさだけ失ってしまうように世界はできているようなのです。

では、恨みがどういうメカニズムによって作られるのか、考えていきましょう。

『恨み』のメカニズム 序章

我々は、この身近な恨みという感情に疑いを持ちません。

恨んでいる時、あまりに当たり前で、自分が正しいという感情がある。

だから、なんでこんなに恨んでいるのかということを考えない。

考えたことがありますか?

だってアイツはこうなんだから、恨んで当然だろ!

そういう気持ちしか、なくはないですか?

恨んでいる時、我々は自分自身を哲学しません。
よって、恨みは恨みのまま放置されるのです。

先ほどの、暴露系Youtuberもそうです。
暴露系Twitterの人もそうですね。

あの人たちに対するコメントを見るのがわかりやすいでしょう。

「こういう人は罰されなきゃならない!」
「社会から追放すべきだ!」「償いをしろ!」

恨んでいる自分を、疑っている様子はありません。
だからこそ、そういったメディアが伸びるのだと思います。

ですが、考えてみてください。

同じ事象でも、恨む人と恨まない人が居る。

つまり、恨みとは我々それぞれ個人特有のものなのです。

この章では、そこにメスを入れて行きます。

先ほどの私の例を見てみましょう。

先ほど、コンビニで買い物から帰る時に、途端に雨が強く降り始めました。

その時に「世界は俺に恨みでもあんのか!?」という気持ちが湧きました。

通学や通勤で、ずっと向かい風だったことはありませんか?

そういう時に「俺が何をしたんだ!」っていう気持ちになったことはありませんか?

恨めしいですよね、そういう時。

我々は、理不尽……というか、自分の理解の範疇を超えた不運が人生に続くと、こう思うものです。

ですが、そう思わない人も当然います。たまたま向かい風だっただけで、別になんか自分が何をしたんだとか、俺は運が悪いだとかは思わない。

この違いはなんでしょうか?

『恨み』のメカニズム 本編

同じ出来事が起こっても、恨めしい気持ちを持つ人と持たない人がいる。

もっと言うと、過去に酷い出来事が起こっても、全くそれがなかったのようにあっけらかんと過ごしている人もいる。

この違いの正体は『期待』です。

「こうして/こうされて当然だ」という期待が我々に恨みを持たせます。

私の先ほどのコンビニの例で言えば
『俺が外を歩いている時には雨風に打たれなくて当然だ』
という期待があるのです。

よく私はふざけて「俺は晴れ男だ」と言いますが、こういう期待、もっと言えば傲慢さから言っていることに、今書きながら気付きました。

期待しているということは、それをされて当然だと思っていること。
それをされて当然だと思っているということは、自分が偉いと思っていること。

つまり、自分が偉いと思っていなければ、誰かを恨むことなどないのです。

先日、こういうツイートがバズりました。

これを見た時には「どういうことだろう?」と理解が及ばなかったのですが、この記事を書き進めながらようやく理解しました。

我々は、期待するから怒り、恨む。
期待の前提にあるのは「~されて当然」という傲慢さ。
ナチュラルに、自分は偉いと思っている。
「~されて当然」の身分だと思ってるから、怒る。

つまり、我々の恨みは外部が原因だったのではなく、自分自身の期待によるものだったといえるでしょう。

『恨み』のメカニズム 結論

更に、ここでもう1つ深く踏み込んで、このメカニズムを見てみましょう。

我々は、期待するから怒り、恨む。
期待の前提にあるのは「~されて当然」という傲慢さ。
ナチュラルに、自分は偉いと思っている。
「~されて当然」の身分だと思ってるから、怒る。

このメカニズムをよくよく観察していると、もう1つのことがわかります。

「私の願望を叶えてくれて当然だ」と信じていなければ、この状態にはならなくないですか?

他人は自分の思い通りに動かないと思っていれば、怒りもしない。
他人が自分の要求を叶えなどしないと思っていれば、腹も立たない。

だけど、他人や外界がそれをやってくれると信じて疑わない。

それは、子供が「お母さん、なんでコレやってくれないの!」という態度に似ています。

つまり、他者、もしくは世界に対して、ある意味子供のような純真な気持ちを持たなければ、この態度を取ることはないということです。

その自分の純真さ、もっと言うと愚かさや頭の悪さを認めたくない時、人は恨むのです。

勝手に期待して、勝手に失望して、勝手に恨んだ。
その一連の流れがあまりに子供っぽくて、愚かだと思うと、人は人を恨まなくなります。

先ほどの私の例を見るのがいいでしょう。

先ほど、コンビニで買い物から帰る時に、途端に雨が強く降り始めました。

その時に「世界は俺に恨みでもあんのか!?」という気持ちが湧きました。

私の先ほどのコンビニの例で言えば
『俺が外を歩いている時には雨風に打たれなくて当然だ』
という期待があるのです。

俺が外を歩いている時に雨が降るべきじゃないなんて、何言ってんだって話ですよね。

お前が天候を操作できるくらい偉いと思ってんのかって、傍から見る分には言えますよね。

勝手にお前が天気に期待して、勝手に雨に降られてイライラして、勝手に世界を恨むなんて、なんて幼くて、身勝手な話だって思いませんか?

そうです。

恨むというのは、子供の親に対する態度なのです。

勝手に期待して、勝手に裏切られたと思った時、人は恨むのです。

その奥には、先ほど申し上げた人に対する純粋で身勝手な、子供のような信頼と期待があったのです。

ですが、冷静に考えてみてください。

他人は貴方の期待に答える義務はありません。
天気に私の期待に答える義務がないように。

そして、他人は貴方が恨んでいる間も、幸せになっていきます。
貴方は、貴方が恨んでいる時間の分だけ、恨むということしかしません。

恨みによって手に入るのは、恨みです。

貴方は、貴方の人生にとって有益なものを手にしません。

恨んでいる間、貴方は自分の人生ではなく、他人の人生を生きています。
コントローラーのついてない他人が主人公の物語を、コントローラーがついているかのように、観客として文句を言い続けるだけなのです。

野球の観戦と変わりません。

それが好きならいいですが、好きでないなら貴方は貴方の人生を無駄にしています。

それが、本当に貴方の欲しいものでしたか?

自分の人生を生きる

恨まなくなったら、貴方はどう生きていきたいですか?

恨みがなくなって、自分のことに注力できたら、もっと毎日を没頭して生きて行けるのではないでしょうか。

それでもなお、恨んでいたい人は恨んでいるのがいいでしょう。
その人は恨むのが趣味ですから、好きなだけ恨んだらいいのです。

ですが、恨んでいる間、自分の人生が何も生産的でなく、何より自分の未来を潰しているかもしれない、とこの文章を読んで気付かれた貴方は、きっと恨みによって得たパワーを、前向きなものに換えて、ご自身を生産的で幸せな道に連れて行くことと思います。

恨まなくなるということは、自分の生きたい人生を生きられるということです。
逆に言えば、自分の人生を生きたければ恨みというゲームをやめることが重要なのです。

この記事を読んだ貴方が、ご自身の人生を充実させて、新しく生きて行って貰うことを、心から願っています。

思い立ってから1時間ほどで書き上げた記事ですので、わかりづらい部分や解説が足りない部分もあるかもしれません。
ですがそれは、期待を手放した貴方が自分なりに色々と試行錯誤して、自分の人生に活かしていってくれたらいいなと思います。

お読み頂いてありがとうございました。

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