感想:「コインロッカー・ベイビーズ」
はじめに
読了後の感想です。
新品を買うのはオススメしない。
借りて読むか安い中古で済ませるが良いと思います。
才能
いつも、作品に感情移入して感想を述べている人を見ると、妙な劣等感に近しい感覚を覚える。 作り物の登場人物に、作り物の出来事。 作り物の空に、作り物の街。 それらをさも知人からの又聞きかのような質感でもって心に染み込ませ、隣町で起きた事案のごとく緊張させたのち、その題名の烙印でもって封をする。 その作業工程のどこに楽しみを見出せばよいかわからなくて、それが虚しいウソの粘土遊びに見えては仕方のないことだけど、結局は俳優の演技力とかセリフの美しさとか特殊効果技術の向上に改めて舌を巻いてみたりするほかなくなる。
自分の理解や限界を超えたものイコール、誰かの平凡な日常。
その式に当てはまるなら、右項は天才と呼ぶに値する存在なのだろう。
わたしは、要は生まれ持った才能に嫉妬している。 説明できない当たり前に憎しみを覚えている。 粗を探して突き崩すことこそが何かを楽しむこととすり替わっている。
だからハシやキクやアネモネを嫌うのかというと、そうではない。 かれらはいたずらに秀でている。 けれどわたしは作品に移入しないから。
嫌うことすらできない。
すこし、さびしくなる。
夢
昔、夢日記をつけていたことがある。
少し早めにやってきて、遅くまで引きずった中二病の後半の時だ。
ほぼ毎日のように夢を見ていたし、多いときは3つも4つも連続で違う夢を見た。 これは才能だと思って嬉しくなった。 夢日記をつけ続けると気が狂うらしいという話を聞いたことがあったから、常識規範を守るのと同じ要領でそうはしていなかった。 トイレは決められた場所でするとか、公衆の面前で喚き散らさないとか、会計を済ませてから食べ始めるとかそういった類の。
そんなものに頼ってしか当たり前になれない自分が嫌になった。 狂ってしまいたかった。 …いくつかのそれらしい建前にあぐらをかきながら、いつ狂うのだろうか、これで平凡な自分を捨てられるだろうかと、日々の楽しみとして消化していった。 夢はすぐに散ってしまうから、枕元に誕生日プレゼントでもらった無印のノートとペンを置き、書き記していった。
当時やっていたブログに内容を転写した。 才能を確認するためだ。 コメントはつかなかった。 View数は伸びず1年もすると夢を見なくなっていったし、自分の才能についても同じで、更新はストップした。
他人の夢の話はつまらないとよく言うが、それは本当だ。
内容は支離滅裂で、あまりに突飛で難解で、なにより現実でないから。
けれど文章にすると不思議と面白さが出る。 ありふれた言葉がつむぐ、存在しえない現象の羅列が刻むテンポが、未開の領域に足を踏み入れたような感覚を味わわせてくれるような、そんな気分になって、そうしてすぐに辺りが霧深くなっていく不安感を覚える。 しかしこれは絶対に身に危険が及ぶことがないという安心感を担保する現実が、すぐ真横に控えているからこそのエンターテインメント。
「コインロッカー・ベイビーズ」は、夢日記のテンポを持っていた。
小説のいいところは全てを自由にとらえていいところだ、とわたしは言う。見たことも感じたこともない、たとえば「鬱蒼としたジャングル」を、先週テレビリポーターとタレントが分け入っていた濃い目の茂みとして映したり、「細く伸びた四肢と柔らかな髪をもつ美女」を、行きつけの珈琲屋のウェイトレスから当てはめていいし、「スラム街にこだまする壊れた洗濯機の音」を胃から立ち上る不快感と排気ガスを紐づけた時の景色と定義してもいい。 「水は命のようで、実際には死に際の人魚の涙だから」なんて表現が出てきたら、何書いてやがんだ馬ッ鹿野郎ォが、と怒り読み飛ばしてもいい。 なんなら読むのをやめてしまってもいい。 わたしにとって小説のいいところは全てを自由にとらえていいところ、なのだ。
ところでわたしは以上を実践しつつ小説を読んでいることが多い。
実践というとテクニックに聞こえてしまうが、努力でどうこうなるものではないだろうと思う。 これはあくまでわたしが文章を脳内で整理するために自然とやっているだけのことで、登場人物は描写から推測してできる限り既存の人物に当てはめてしまうし、それはおおむねテレビの中の人物から選んでいて、時々知人や顔見知りに当てはめて、それができなければオリジナルの表情を与える。 どうしようもないときは、しかたなく文字で処理する。景色についても同様だ。 作り物の風景、既存の風景、パッチワークの妄想。 これがないとなにが起きているのかわからなくなってしまう。
わざわざ「コインロッカー・ベイビーズ」の感想を書き始めたのはこの点において印象に残ったからであって、つまりはこれらの方法がほとんど通用しなかった。
本当に驚いてしまった。
登場人物で顔や姿を思い描けるのは誰一人としていないし、彼らが住む世界は日本だと作者は言い張っているがそんなわけがないと理性が拒否する。
アメリカ郊外に打ち棄てられた工場だったり、中南米の孤島の海岸だったり、中国の寂れた港湾であったり、ロンドンの薄汚れた路地裏を、みな思い思いに歩いている。 かと思えば、車で30分のところに東京が見えている。そして中心にひっそりと置かれたコインロッカーがとにかく異質で、気分が悪くなるほどに心の安寧を妨害してくるくせに、タイトルにまで銘打って忘れさせまいとする。 しかし読み終えてみれば、これこそが正気を保つための、現実に残した「錨」として働いていたのだと気付き背筋に嫌な汗をかく。 彼らが生きる世界で唯一、我々と共有できるものはコインロッカーだけだったのだと。
「コインロッカー・ベイビーズ」という単語が出てきたことに猛烈な不快感を覚えたのは、正しい反応だったのだろう。 わたしには作者が仕込んだ蘇生薬としか思えなかった。 寒気がした。 いつの間にか没入していたとその時に知る羞恥。 たんに目ざわりの良い、導入剤としての役割に見えていたその題名がもつ本当の効き目は余韻という副作用にあった。 ぼやけた薄霧が徐々に晴れていき、脳内で整理しきれなかった荷物を捨てていく。 もう読み返すことはないと思える内容だったし、その気力もなければ興味も足りない。 きっと誰かに薦めることもなく、これは表紙を閉じられたまま本棚に眠り続けるのだろう。 その泣き声を聞く者が現れるまで。
おわりに
この小説は、1980年に刊行されたもので、第3回野間文芸新人賞を受賞した作品でもあるらしい。 コインロッカー幼児置き去りが発生し始めたころに書かれたものだ。
読み進めながらなんでこんなものが賞を、と不思議だったが、思うに賞を与えるほかなかったのだろう。 そうでなければ居場所がなくて、みんなが悲しくなってしまうような、そんな気がした。
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