5月23日

今までも手書きで日記を書く習慣はあった。もう3年ほど前になるだろうか。あの頃の私は名古屋で浪人だかプー太郎なんだかよくわからないが、文字通りさすらっていた。あっちこっちに行って、色んな人に会って色んなものに触れてみた。大学生というわけでもなかったし、ほかの浪人生は誘える雰囲気ではなかったから一人で行動することが多かった。
その時の話はまたどこかでするとして、当時書いていた日記の内容はもう忘れてしまった。数年前の日記には気恥ずかしい内容もあっただろうが、日記において大切なのはただ記すことにあるのだと思う。瞬間の生の感情を書き殴り、後で振り返った時に自身の未熟さに唇を噛み締める。ここまでで日記を習慣化したということなのだ。

それにしても、なぜ私がまた日記を書こうとしているのか。人生に迷っているのか、強く揺れ動く感情を残しておきたいのか。はたまた、ただ暇なのか。いずれにせよ、凡庸な生活を送っている私の日記にどれほどの価値があるのかわからない。自信があるとかないとかではなく、単純に面白さに欠けるのではないかと感じる。そこで凡庸な日記を救う方法として、なるべくリアルな言葉を等身大で書き記すことだけを念頭に置いておこうと思う。

最近の私はというと、人間関係に疲れ、または感動し、金がないと嘆いてみたり、金がないからこそ見えてくる、湧いてくる活力があるのだと悟り、給料が入れば全てが元通りになるような生活を送っている。少し先述の文章をニュアンスが違うことをいうのであれば、将来に対して基本的には楽観主義を貫いているということだ。
楽観主義でいることは悲観的に物事を考えるより体力がいることだ。もしくは頭の柔軟さが必要なことだと感じる。以前、悲観的な思考の癖が私にはあった。そこから脱却できたのは単純に物事を分解する引き出しが増え、何もかもを今この瞬間に処理しなくてはいけないとは考えなくなったからであると思う。ただ年を重ねただけかもしれない。

最近、明らかに感情的で支離滅裂な文章を書く、支離滅裂な感情に振り回される回数が減った。生きるのが随分楽になったと感じる。同時に、小さな頃、両親に新しいゲームを買い与えられたときに感じたような得も言えぬ感情というのを手放した気がして、それはそれで寂しい気持ちになっている。

もっと等身大の文章が書きたい。背伸びしていない素直な文章が書きたい。これがすでに等身大で背伸びをしていない素直な文章なのかもしれないが。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?