奔る

気づいたら体が動いていた。気づいたら足が前に踏み出していた。自分の体は脳が制御しているはずなのに、明らかに感情が先走った行動に出ているのだと、風を切っている自分を自覚したときに悟った。何が自分をそうさせたのか、なぜ自分が合理的でない、現実的でない確率を想定して動いているのかわからなかった。確かに彼のことを考えていたことは事実だ。確かに彼の連絡を待っていて、そのタイミングで私の携帯の充電が切れたのも事実だ。そして、今日家を出るときの彼の顔が何故か覚悟を決めたような、ある意味で諦めたような表情していたのも事実だ。いつもなら”どうしたの?”だとか”今日はいい天気だね”と話を逸らしたりするのに、話しかけることができない空気が彼の肩から膝までを覆っているように見えた。それでもあの人のことだ、また仕事帰りには意外とケロッとしていて”お腹すいた”とか”疲れたぁ”とか、なんだといつも通りに帰ってくると思っていた。昼間は今朝のことなんてほとんど頭の片隅に追いやってしまって、仕事にひたすら没頭していたのに、帰りの電車に乗り込んだ瞬間から今朝の彼の顔が、彼と家から駅まで歩いたときの映像が脳の大半にこびりついている。映画館のスクリーンみたいな薄さのフィルターが脳に巻き付いているようだった。

駅に向かって走るのは日常的だ。でも、家に帰るだけなのにここまで息を切らして、道行く人になりふり構わず走ることはない。明らかに非日常的だと感じて私は少しおかしくなったりもした。そのおかしさは激しい息切れにかきされて、笑みがこぼれるより、肺の底のほうから漏れ出る吐息に変わった。スニーカーを履いた足で蹴るコンクリートは思ったより硬く、最初こそ走ることの高揚感があったものの、走り慣れていない私の足はすぐに熱を持ち、今すぐにでもぐにゃりと曲がってしまいそうだった。

走りながら最悪の状況も想定していた。最悪の状況が想定できるということはある意味で冷静だったのかもしれない。家までの距離は歩いて10分くらいだから走れば5分くらいで着くはずだ。何故か母親の顔がよぎり、走馬灯に何見ると思う?と聞かれたことを思い出した。その時の返答は覚えていないが、今この瞬間が走馬灯のようだと思った。


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