抜け落ちていく

書きたい文章があり、綴りたい言葉があり、残しておきたい温度がある。それが私が生きていくうちに感じている何かである。いつもはその言葉たちは頭の片隅に残っていて、眠るまでの間であれば一日中引っ張り出してくることができる。正確には引っ張り出せたであるかもしれない。最近、正確に言うとここ数日は、感じたことや綴りたい言葉たちが薄っすらと浮かび上がってきても、すぐに靄がかかり、水に流されていくような感覚に襲われている。これが何を意味するのか分かるはずもないのだが、ただ単純に日々に忙殺されているのか、文字を書き殴る段階でなくなったのか、人に言葉を贈る機会が多く内省の時間が減ったのか分からない。

最近は将来のことをうっすらと考えるようになった。今まで毎日、この瞬間に全力を尽くし、嘆き、悲しみ、喜んで、笑っていたのだが、腰を据えて、腹を括って未来と向き合う年齢もしくは段階に来たのだと思う。就職であったり、どうしても勉強したいので院に行くのか、また商売をするのか、よく分かっていない。昔ある人に言われた、”君はどこに行っても大成しないよ”という呪いが、今では、彼は私のことが怖かったんだなと思えるようにはなってきた。他人の言葉に、思想に振り回されなくなってきている。それは軸を確立したとも取れるし、柔軟な取捨選択ができるようになってきたとも言えるかもしれない。

一年前と比べ、何が変わったかといえば精神的な話ばかりで、物理的に大きく豊かになったとは言えないかもしれない。しかし、6歳頃から抱えていた希死念慮とは大きく距離が取れるようになり、鬱屈とした気分にならなくなったのは明らかな成長だといえる。成長というと語弊がありそうだが、進歩もしくは脱却と言い換えれそうな気もする。

私は今も昔も色々な人、組織、思想、信条に影響を受けてきた。今までは自分自身の軸がないのだと悲観的に捉えていたが、ここ一年くらいは素直で実直なのは良いことじゃないかと言えるようになってきた。日常的な出来事、社会的な出来事で人と喧嘩したり議論ができたりする時点で、自分の軸は立派に出来上がっているではないかと確信できたためである。あとは貪欲に他者を恐れず、吸収しながら与えれる影響を考えていきたい。

まだまだ書きたいことはあるが、読み返してみたときに文章が物語調でなくなった瞬間に、文章というのはこうも重くなり、硬くなるのかと思い知らされたので、今日のところはこの辺にしておこうと思う。駄文でよければいつだって書けるのだが。

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