ぼんやりのはざま
前にnoteを書いたのがいつになるのか覚えていない。だらだらと過ごす時間は振り返るのにいい時間だったかもしれない。転職をしてから前の職場のことを思い出したり、自分の体調を顧みたりしていた。差別の絶えない構造の国の真ん中よりちょい上程度にいる自分に負い目を感じて生きていた。なんというか自分の負い目を見つけて責め続けることに関しては天才的かもしれない。よく今生きてると思う。
そのことに対して気にしないことや割り切って構造に甘んじるということもできない。結果週末には一人で地方の駅にプラカードを持って立って1時間ばかりの抵抗をすることを続けた。仕事では得意だった地理系の仕事をしたり、英語で話してみようとしたり手に届くものから始めてみている。
転職前からメンタルクリニックに通ってもう2年ほど経つ。大阪にいた前職時代にクリニックでもやっとしたことを抱えながら生きて下さいと言われた。当時はその言葉はあんまり好きではなかったが意味がなんとなく理解しつつある。
もやっとしたことを抱えながら生きるという言葉が嫌いであったのは現状を容認し、変化をもたらすことを一切あきらめるというニュアンスを感じていたからだ。ザ・賢い人の言う「そんなこと言ったって現実は変わらないんだからあきらめろ、コスパが悪い」の亜種だと思っていた。
今はそれは問題を解決しないことじゃない、あきらめたと自分を錯覚させてあきらめないことを続けるための方法論だと思う。もやっとしたものは全景がぼんやりしていて、それをかき消してくれるものはない。ならばそれを溶かそうとしたり、ほつれをみつけようとしたりしてみるのは一つの方法だ。
昔はトレーディングカードゲームとかで攻撃力が高いものを出せば勝てるでしょという考えだった、でも勝てない。実際には対象はもっとあいまいなぼんやりしたものだ。そのときドラゴン一匹ではどうにもならない。生活でも仕事でもすべてをそれ一枚で解決してくれるような切り札のドラゴンは存在しない。
生きるとかこうしたいとかっていうのがもっとぼんやりさせておいていいと思う。こういう社会になってほしいというのも。そもそも問題の解決方法がわかっているときは問題は9割がた解けてる。あとは作業です。その作業にいくまでのぶらぶらするのが必要。一人プロテストもそう。世の中に文句言ってもいいんだって人を一人でも増やせれば十分程度で思っている。
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