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なにかを受け入れる生き方とは

犬が結ぶ娘とのつながり

そもそもこの犬は私の娘が和歌山県の村落の住人からゆずってもらった甲斐犬でだ。
生まれた頃は漆黒のいでたちで、まるでビロードの毬のような愛らさだった。娘はその黒さから「ちびくろサンボ」を想起して「サンボ」と名付けた。由来となった物語は子どもたちの間で読みつがれてきたベストセラー。ただ、特定の人種の蔑称であるという意見もあり、賛否が議論されてきた経緯がある。私も娘もそのことは理解しているし、差別的な着想から命名したわけではない。
この物語は、私の少年時代から娘の少女時代に渡って、綿々と読みつがれてきたものであり、ある意味、いまは遠く離れた地で暮らす娘とのひとつの共有資産でもある。

私はこの犬を「サンボ」と呼ぶ時、娘が大事にしていたボロボロのぬいぐるみを抱きしめるようなぬくもりを感じる。サンボが和歌山から東京にやってくるとき、この名を改名しようと少々思った。娘がつけたこの名を大切に呼び続けることが、娘との「絆」を保つ一つの手立てとして考えた。

人間の思いなど意も介さない犬の暮らし

そんなこととはつゆ知らず、山ですくすくと育ったサンボは東京の生活を受け入れた。放し飼いに近い暮らしをしてきたサンボは鎖に繋がれ、朝晩の散歩を楽しみに生きている。人からみれば少し気の毒に見える。私にもいくばくかの罪悪感がある。しかしサンボは私を恨んでいる様子はない。

記憶がおぼろだが、鈴木大拙はそんな犬の暮らしを「絶対受動」の生活といったように覚えている。つまり完全なる受け身の暮らしというわけだ。自立を重んじる禅の思想からすればちょっと違和感のある考え方だと感じる人もいるだろう。しかし、近代化された犬には人生の選択権はない。犬は人間に与えられた暮らしを暮らすほかはない。

「受け入れる」とはどんな生き方か

私は犬を大事にしているつもりだが、犬にとっては、現実に目の前にある暮らしが必然だから、私を憎むことも感謝することもない(もちろん快不快はあるだろうが)。しかし、現実に起きていることを判断せず受け入れるということは、極論をいえば、宗教的な暮らしともいえる。

ここで宗教の話をするつもりはないが、この「受け入れる」という暮らしをただただ批判的に見て、終わらせてしまうにはいささか残念だ。
人間の世界は理不尽なことばかりだ、恐ろしい事件や悲しい出来事に満ちている。矛盾や行き違い、誤解などに満ちている。だから人々は自分の幸せ、人類の幸せを目指し激突する。

私のような脆弱な人間にはこんないさかいの多い世界が耐えられない。暗いニュースを見て肩を落とす私をよそ目に犬は大きなあくびをする。「おまえはいいなあ」と言葉を投げても犬は一向に意を介さない。そんなとき、すべての運命を受け入れて居眠りを続ける犬と私たちは一体何が違うのかと考えさせられる。犬は人間に支配されている。私たちは自然に支配されている(いた)。

人間の暮らしはすべて神様があらかじめ決めている、とか、人間に自由意志はない、などの議論は昔からある。犬のように暮らすことは私たちにはできない。だけど、私は犬を飼っている。私にとって犬はかけがえがない。
この先は考え方は人それぞれだろう。たくさんの考えが共存するのが人類だ。私はこれからも犬と暮らす、ただそれだけだ。

撮影 / TIDY

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