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【海賊版】初めてのギターが響かせたのは、淡い友情の算段

本記事は本田すのうさん主催「下書き再生工場」企画にて本田すのうさんの手により再生された、コニシ木の子さんの下書き『初めてのギターが響かせたのは、淡い友情の算段』の海賊推し事版です。

※長い。8500字あります。


――Panoramaの優勝、おめでとうございます。

「ありがとうございます。オケのみんなと、父の作ったスティールパンで勝ち取ったものです」

――二年ぶりに帰国されて、どんなことを感じましたか?

「どんなこと?  うーん……あ、AppleMusicの邦楽新曲ランキング、知ってる人がほとんどいなくなってるなって思いました。元からそんなにJ-POP聴いてたわけじゃないけど」

――普段はどんな音楽を?

「スティールバンド、スティールオーケストラばっかりです。演奏も、聞くのも。寝ても醒めてもスティールパン。気分転換がしたくなったら、Within Temptationか、昔のBUCK-TICKを聴いて沈むことにしているの」

一昨日帰国したばかりだという目の前の彼女は、ターコイズブルーのソファーにしっかりした骨格の長身を預けながら、ほら、だってスティールパンって無条件で明るくって、笑顔でいることを強いられるじゃないですか、だから対極を行きたくなるときがあるんです、と静かなトーンで語った。
褐色の肌は、彼女が現在拠点を置いている国の日差しによるものというより、その血筋による影響が大きいのだろう。時折しなやかに動いて身振り手振りを交える腕は気まぐれに組み替えられる脚同様に長く、インタビュアーでありながらその一挙手一投足に思わず見入ってしまう。パフォーマーとして生まれた人の身体だと思った。
まだ二十歳だと聞いていたが、大きな瞳でこちらをじっと真正面から見据えるその眼差しには、強い力が宿っている。目を合わせることがはばかられるのは、私の中のからを簡単に見抜かれてしまいそうだから。

ーー今後の展望を教えてください。

「むしろ教えてほしいくらいです。Panoramaの優勝と、父が作ったスティールパンを演奏するってことだけを目的に日本を出たのに、あっという間に叶っちゃった。うーん……とりあえず、快く迎えてくれたコミュニティもあるので、もう少し向こうを拠点に活動しようかなとは思います。日本でもスティールパンの裾野を広げたいし、母と一緒にやっていた音楽教室をもう一回復活させたいなって気持ちもありますけどね」

最後の質問を終えたタイミングで、計算されたように彼女のマネージャーがレンタルルームのドアを開けて入ってくる。彼と交換した名刺を見て、高校時代の記憶が蘇りそうになったのを無理やり押し留めたのは、つい一時間ほど前のことだ。
同席していたカメラマンが追加で写真を撮っている間に、私はマネージャーに今後のスケジュールを手短に伝えた。
私は彼のことを一方的に知っている。でも、私の知っている彼とは印象が全く違っていた。同姓同名の別人かと思ったが、左耳に残るいくつものピアス穴を見て彼だと確信した。特に関わりのない一同級生だった私でさえかぎ取ることができたほど、かつての彼が色濃く纏っていた棘も陰も、今やその色を失っている。穏やかで人当たりの良い、平均的な二十代後半のサラリーマンがそこにいた。綿のジャケットにカットソーというカジュアルな装いではあるけれど、奇抜な要素は一切ない。十年前の彼は同じ制服の集団の中でもとてもよく目立っていて、同級生の中で彼のことを知らない子はいないほどだった。なのに、今の彼はこのレンタルルームを出てしまえば街に紛れてもう二度と見つけられないだろうと思った。
ほとんど無意識のうちにチェックした左手の薬指には、何もない。
「私、前田さんと同じ高校に通っていました」
言い出そうかどうか迷っているうちに、撮影を終えた彼女を連れて彼は部屋を出て行った。
今日、私はどんなふうに抱かれるんだろう。そんなことを考えながら、荷物をまとめてトレンチコートを羽織り、レンタルルームを後にした。


私には何もないということを確信したのは、誰かの左耳がびっしりと描き込まれた亜衣のノートを見たときだった。かなわないなぁ、と思った。
亜衣の絵の上手さは中学の時から同級生の中でも抜きん出ていて、小学校まで「上手いね」とちやほやされていた私なんて比べものにもならないほどだったけれど。私に向けられた「上手いね」には言葉にされることは決してない「その年齢にしては」という枕詞がついていて、亜衣に向けられる「上手いね」にくっついているのは、「絵を描く人たちの中でも特別に」とか「プロ級に」とかそういう類のもの。
私も義務教育の間は、その年齢の子供らしく「イラストレーターになりたい」「漫画を描いて生きていきたい」と淡く希望を抱いていないわけではなかった。でも、絵という共通の趣味を通じて亜衣と親しくしているうちに、私には無理だという思いを強くしていった。いつか絵をお金にしていくであろう亜衣と、決して世に出ることはないだろう私。嫉妬なんてしなかった。悔しいとさえ、思わなかった。
だって、亜衣のように自分の琴線に触れたものををしつこく描き続ける、ううん、描かずにはいられない変態性が私には備わっていなかったから。世に出ていくのは、こういう子なんだって高二の初夏に思い知ってから、私は少しずつ趣味でいいや、と思い始めていた絵からもフェードアウトしていった。
亜衣のノートに描かれていた左耳が、彼女と同じクラスの前田という男子のものだと知ったのはそれから間もなくのことだった。私は前田さんのことを亜衣の絵を通してしか知らなかったし、一度も関わることはなく今に至る。
まさか、東京で出会うなんて思ってもいなかった。

「なんかあった?」

背中に回した右手だけで私のブラジャーを外しながら、男はそんなことを言った。
明るさを落とした暖色のダウンライトは男のまつ毛の影を下まぶたに投げかけていて、濃いクマのように見える。二十九歳だと言っていたけれど、この照明のせいかもっと倦んで疲れたように見える。私もきっとそんなふうに見えているのだろう。
右手に大きめのすりガラスの窓がはまっていて、そこからは景色が見えるわけでもなく、浴室がぼんやりと白っぽく透けている。
ピンク色のブラジャーを床に無感動に落とす茶髪の男の顔を見つめ、誰だっけ、と一瞬考えてしまった。
婚活と称して二年ほど前に始めたマッチングアプリ。初めの頃こそ真面目に価値観の合う人、なんてものを探していたけれど、そもそも私には大切にしたい価値観も、人生の展望もなかった。いつしか目的は婚活から、美味しくも不味くもないご飯を一緒に食べながら身のない会話をして、気持ちのこもらないセックスをする相手を探すことに変わっていた。要するに、暇つぶし。
目の前の男もそんなふうにして出会った男で、会うのは今日で三回目だった。初回からホテルに行った。火曜日が固定の休みだという男は、月曜から抱いてくれる稀有な存在で重宝していた。変な嗜好もなく、いい意味で普通のセックスをする男だった。

「今日取材があってね、トリニダード・トバゴから帰国したばっかりのmahoroっていうスティールパン奏者の子にインタビューしてき、」

紡ごうとしていた言葉は途中で鼻から抜けた。男が腰を屈めてさして大きくもない私の左胸を揉みながら、右の乳首を吸っている。お風呂に入っておきたかったなあ、と考えながら、私は先ほど脱ぎ捨てたトレンチコートとニット、エルメスのスカーフが乱雑に重なるベッドの上に倒れ込んだ。コートとニットはともかく、スカーフのことが気がかりでなんとか背中の下からそれだけを引っ張り出す。ネイビー地に、色とりどりの花が描かれたスカーフは、ライターを本業にしていく目処がたった記念に買ったものだった。
スカートの中に手が入ってきて、ストッキングごとパンツが下ろされる。


先日のインタビューは記事となって季刊の打楽器専門誌『レットリング』に掲載され、ニュースサイトにも小さく取り上げられた。それがあるインフルエンサーの目に留まり、「この子すごくかっこいい。記事読んでー!」とスクリーンショットがインスタのストーリーに転載されたことで、無名だったスティールパン奏者・mahoroは一夜にしてその名を日本中に轟かせた。
彼女の演奏技術の高さもさることながら、その容姿や生い立ち、スティールパンとの出会いやPanorama優勝までの経緯も話題となったことは間違いない。朝の情報番組で日本にいた頃のYouTubeチャンネルが紹介されるだけだったのが、次第にゴールデンタイムのバラエティなんかにも彼女自身がゲストとして呼ばれて出演し、スティールパンの演奏を披露することも増えてきた。先日は同じくトリニダード・トバゴにルーツをもつ女性シンガーと音楽番組で共演しているのも見かけた。
『レットリング』はその手の雑誌には珍しく重版されることになった、と編集部から連絡があり、さらに次号で特集を組みたいからまたよろしく、とのことである。夏にCDを出したり、年内いっぱいツアーをしたりする予定が立っているのだという。
二十歳そこそこの若者を食い物にしようとしている者の存在を、ここまではっきりと身近に感じたことはなかった。そして、彼らの前に餌を提供したのは私だ。いっとき毎日のようにいくつもの番組に出演していたのに、今となっては全く見かけることのなくなった芸人の顔がいくつもよぎった。
ありていに言えば、良心の呵責、というものを感じていたのだと言い訳することもできる。私は手帳に挟んだままにしていた前田さんの名刺を取り出し、電話をかけた。マッチングアプリを開くときと同様の下心がなかったか、と言われると、完全には否定できない。


高架下のスターバックスで、座面の小さく高い椅子に座りながら前田さんと向かい合っている。彼のオフィスがこの辺りなのだという。食事時ということもあって、飲みものと軽食しか出さない店内は比較的空いていた。ジャズ調のBGMにスチーマーやフラペチーノを作るミキサーの音、そして高架の上を走るJRのレール音や揺れが混ざり、独特のリズムを生んでいる。

「浅野さんが記事にしてくださったおかげで、mahoroも売れっ子です」

ありがとうございます、と言って彼はマグの中のドリップコーヒーをすすった。白いセイレーンがこちらに向かって微笑んでいる。私はいえ、とだけ短く答えた。雨が窓ガラスを濡らし、テールランプが赤く滲みながらゆっくりと止まるのを前田さんの肩越しに見ていた。目の前の歩行者用信号が青に変わり、駅から吐き出された人々が一斉にこちらに向かって歩いてくる。
春の金曜、夜。新しい環境や仲間たちへの期待と、慣れない状況に対する疲労とがないまぜになり、皆どこか浮ついている。フリーランスで仕事をしていて大きな環境の変化というもののない私でさえ、春というだけでそわそわ、ふわふわしてしまう。その空気に当てられての、現在のスターバックスなのではないだろうか。

「うちはもともとマイナーなアーティストの事務所なので、こんなに名前が知られるようになったのはmahoroが初めてなんです。社内みんなあたふたしてますよ」

「CDはメジャーレーベルから出るのかなと思っていたんですが、移籍するというわけではないんですね」

「そうなんです。彼女は日本での活動はあくまでおまけみたいなもので、向こうにルーツがあると言ってますから。昨日帰りましたよ。またすぐ来日することになるだろうけど」

「芯がしっかりした方なのですね。……私、正直申し訳ないなって思ってたんです。mahoroさん本人は望んでいないかもしれないのに、世の中に広く知られるきっかけを作ってしまった。mahoroさんのしたいこと、奏でたい音楽、そういったものとは真逆の世界に引っ張っていってしまったかもしれないって」

大丈夫ですよ、と言ってから、前田さんはマグの中身を飲み干した。「浅野さんがおっしゃる通り、mahoroは年齢以上にしっかりしています。軸があるから」
それじゃあ、と言ってマグを持ち立ち上がろうとする彼に、私は先日迷った挙句飲み込んだ言葉を、ほとんど衝動的に告げていた。

「あの、ご出身は北海道ですよね? 私、前田さんと同じ高校で、同級生でした」

彼はえ、そうなの、と砕けた口調になり、一度浮かせかけた腰を元に戻す。

「早く言ってよ。浅野……」

「浅野莉花です。私は四組だったので、一組の前田さんとは関わりがありませんでした。同じクラスだった宮村亜衣、わかりますか? 亜衣と仲が良くて」

「あー、宮村ね。彼女、ずっと俺をスケッチしていたんだよ。あいつ、今どうしてる?」

少し細めた瞳の奥に、彼は今間違いなく亜衣を見ている。じり、と音を立てて私の奥で何かがほんのわずか、焦げ付くのを感じた。
就職に伴って上京して以来会っていない亜衣の顔が思い浮かんだ。

「今度ゆっくり話しませんか。よければLINE教えてください」

差し出された画面のQRコードを読み取ると、「前田伊織」という名前が画面に表示された。友だち・・・に追加し、「よろしくね」というスタンプを送信。
また連絡しますね、というと、それがそのままお開きの合図になった。自宅もオフィスの近くだから歩いて帰るのだという彼に見送られ、先程の店内からも見えていたJRの改札を通る。
白い光が曖昧な影を落としている電車に乗り込み、手すりにつかまってドアの横に立つ。黒い車窓にうつる自分の顔を見ているうちに股の間に何かが漏れ出た感覚をおぼえ、帰宅して真っ直ぐトイレに入ると出血していた。プラセボ期間に入って二日目、予定通りだ。ナプキンをつけていたのでスカートもストッキングも汚れていない。
トイレから出て、いつものように洗面台の棚の一番上に置いてあるピルを手に取った。シートの左上から順番に服用していくので、上三列に行儀良く並んでいた白い錠剤は私の体内に消えてもうなかった。一番下の列の左から三番目、薄い緑色の錠剤を押し出して手のひらに受け止める。
この時まで、私はいつもの夜のルーティンとして確かにこの錠剤を飲むつもりでいた。洗面台に置いてあるコップに、水まで汲んでいたのだ。
不意に、「あいつ、今どうしてる?」と亜衣のことを尋ねた彼の顔が思い出され、また私の奥の何かがじり、と音を立てた。燃え広がるのを抑えるように、コップの中の水を飲む。焦っていたからなのか、胃に流れていくはずだった水の一部が気管に入ってしまって激しく咳き込んだ。咳き込みながら、手のひらの錠剤も、緑色の錠剤が四つ残ったシートも、まだ手をつけていないシートも、キッチンの隅に置いてあるゴミ箱に捨てた。
バッグからスマホを取り出すと、前田伊織からのメッセージがあると通知が来ていた。トーク画面を開くと、プロの漫画家となった亜衣の作品の一コマが電子コミックの広告として表示され、その広告の中では昔の前田伊織によく似た左耳を持つ男が、スーツ姿の男を押し倒している。


特定の誰かと付き合うつもりはないという伊織に、私は嘘をついた。私もだよ。そんなたった四文字の、でもとてつもなく重い嘘。
ピルを捨てたあの日から、かなわないなぁと思ったかつての親友に対して、そんな嘘を介してしか昇華することのできない、持ち重りのする苦さを抱えている。
お互い遊びだよね、こんなのなんでもないことだよね、という体で伊織に抱かれながら、私は相変わらずマッチングアプリを使って男たちと会っていた。彼らに「ピル飲んでるから大丈夫」と告げるたび、何もない私が嘘で満たされていく。一度きりの男も何人かいたけれど、そんなこと全く気にならなかった。私のからを埋めてくれるのなら、誰だって構わない。
夏をそうやって浪費し尽くした頃、自分が抱えていたからのうち、最も手っ取り早く埋められるであろう部分が満たされたことを知った。伊織以外の男たちを全員ブロックし、友だち一覧から削除した。


十月になったというのに相変わらず蒸し暑くて、いつまでも夏の名残が消えない。惰性で続けている関係なのに、体の熱ばかり持て余している恋の末期みたいだった。
私は久しぶりにエルメスのスカーフを引っ張り出した。ハンガーにかけてその花柄をうっとりと眺める。
正直、まだそんなにスカーフの必要性を感じてはいない。でも今の私には体を冷やしてはいけないという義務感のようなものがあった。これが一枚あれば、朝や夜に外を歩いていて、思い出したように吹く冷たい風を感じたときに重宝する。
昨夜、mahoroのライブに取材に行った。ライブハウスの二階席の一角、関係者席に座ってステージを見下ろしていたけれど、気分が悪くメモをとることができなかった。バッグの中でレコーダーが作動していることを確認し、椅子の背もたれに身体を預け、ほとんどの時間を目を閉じて過ごした。mahoroの奏でる音は暗闇の中で波のように遠く、近く、耳元で囁く。重くままならない私の身体を穏やかに揺すり、ひたひたと染み込んでゆく。彼女が母親の胎内で聞いていたというのも、こんな音なのかもしれない。
その後、彼女を宿泊先に送り届けた伊織と合流した。時折街頭に照らされてぼうっと浮かび上がるハンドルを握る手を視界の隅にとらえながら、「生理が来なくて病院に行ったらね、三ヶ月だって」と告げた。
伊織は「わかった」とだけ短く答えた。いつもならなんとなく飲みに行き、そのままどちらかの家になだれ込むのだけど、昨日はそれっきり会話のないまま彼は私をまっすぐ自宅に送り届けてくれた。
別れ際にまた連絡すると言われたけれど、一夜明けた今、スマホはまだ震えない。でも、私は信じている。伊織は「結婚しよう」と言ってくれるはずだ。
何かを押し戻そうと主張してくる胃袋をなだめながらベッドに横になっていると、枕元に置いたスマホがヴヴ、と小さく鳴いた。二時間ほど前に亜衣に送った「結婚する」という旨のメッセージに、返信が届いたという知らせだった。「宮村亜衣が写真を送信しました」というバナーがロック画面に表示されている。
亜衣とのトーク画面を開くと、母校の制服を着たカップルを後ろから描いたイラストが送られてきていた。右側に立つ男の子の左耳にはいくつものピアスが並んでいて、亜衣は未だに伊織の面影を追っているんだ、と思ったらどろどろと湿った、経血にも似た優越感が湧いてきたけど、私はその感情をすぐに打ち消す羽目になる。左側に立って彼を見上げ、手を繋いでいるのは私だった。本当は、亜衣自身が立っていたかったであろう場所に描かれているのは、私だった。

私は、前田の抱える暗がりから逃げていました。都合のいいところだけ見て、肝心なことを伝える勇気がなかった。
おめでとう、幸せにね。

宮村亜衣

そんな手書きの言葉がイラストの余白に添えられていた。
この年齢になって、高校生みたいな恋をするわけがない。なのに、漫画で夢を売る亜衣は自分自身もまだきっと夢の中に囚われている。その夢を描かずにはいられないのだろう。あのノートの続きを、亜衣は未だに描き続けているのだと思った。
でも。
伊織の抱える暗がりって、何なのだろう。私は何も知らない。今の彼にそんな陰があるとも思えない。高校生の頃の私に見えていたのは思春期特有の、斜に構えたときに投げかけられる陰影みたいなもので、いい大人になってからはすっかり消えたのではないか。
澄んだ水に墨汁を一滴落とした時のように、「暗がり」という言葉がもわもわと広がってゆくのを感じた。
私はベッドからゆっくりと立ち上がり、仕事部屋のデスクからカッターナイフを持ち出す。寝室のドアの横にかけているスカーフに刃を滑らせると、花柄が切り裂かれていった。カッターだけでは飽き足らず、手で乱暴に左右に引っ張る。小さな切れ目はギターの弦を爪の先でこすったときのような甲高い音とともに勢いよくその範囲を広げ、足元にいくつものつややかな花の断片と細かい繊維が散らばった。



コニシさんの下書きに残っていたという不思議な言葉の羅列たちから妄想をふくらませ、再生工場産の正規品とは別に、闇ルート経由で海賊版を密造・流通させるという推し事に取り組む試み。
第四弾は『初めてのギターが響かせたのは、淡い友情の算段』。これまでずっと脳内に現れた人たちがつぶやいたことに対し、「なんのはなしですか」と聞いてお話を紡いできたのですが、今回は「連作短編の最終話。そんなつもりはなく書き始めた第一弾もこの世界に取り込む」と決めて書き出しました。書いているうちにもっと掘り下げたい気がしてきたのですが、一つの記事でこの字数ってどうなの、とブレーキがかかってしまったことが悔やまれます。書いているうちに第一弾から字数が増え続け、4500字から始まった海賊版も、今作は8000字を超えていました。推敲したらそこからさらに500字増えた。
一番好きなお話で、一番好きな主人公です。自己中心的で、目先のことしか見えていなくて、愛おしいと思いました。もっと時間軸を広げて描写増やして、リライトしたいです。長編にもできる気がする。
推し事、としてコニシさんの下書きの言葉を借りて紡いできた世界。でも、わたしの物語にしたいって欲が出てきた。

あとがき


⬆️連作短編として世界が全部繋がっているよ。


『初めてのギターが響かせたのは淡い友情の算段』技適マークのついた正規品、コニシさんが落とした物語はこちら。


正規品はこちらの工場で丁寧に再生されました。現在は閉鎖されています。


上記工場にて再生されたコニシさんの取り戻した正規品一覧はこちらから。


再生工場跡地にて製造されたサードパーティ製品はこちら。


変態再生工場産の物語はこちら。



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