見出し画像

『祭司職の継承』

2024年1月21日

 今日は創世記のアブラハムの記事から考えていきたいと思います。
紀元前1900年頃(諸説あり)、イスラエルでは族長時代といわれていた時のことです。アブラム(後のアブラハム)はカルデアのウルという町(現在のイラク)に生まれましたが、アブラムの父、テラはウルを離れてカナン(現在のイスラエル、ヨルダン川西岸)を目指します。(創世記11:31)
ウルはペルシャ湾のユーフラテス川河口付近にあった街でカナンの地はウルから見ると西になりますが、ユーフラテス川が交通の手段として使用されていたため川を北西に上り、バビロンを経由してハラン(現在のトルコ南東部)に至りました。アブラムの父、テラがどうしてカナンを目指したのか聖書に書かれていませんし、途中のハランで旅を止めて滞在するようになった理由もわかりません。

■創世記12:1~3
主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にしあなたを祝福し、あなたの名を高める祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福しあなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る。」

アブラムが75歳の時に神があらわれて、神が示す地に行きなさいと言います。(創世記12:1)こうしてアブラムは甥のロトとハランを出発、カナンの地に入ることになりました。
ところが、カナンに飢饉が起こったためにエジプトに退避せざるを得なくなります。祝福されてカナンの地に来たのにエジプトに退避せざるを得なくなったのです。その後、エジプトから戻ったアブラムとロトは別々の選択をします。ロトはヨルダン川の肥沃な低地(ソドム、ゴモラの街があった)に住むことを選び、アブラムがカナンの地に住むことになります。この時点ではロトが選んだヨルダン川の低地の方が住むのに適していたと思われますが、肥沃な土地であったためにそこには争いがあって多くの街と多くの王たちがいました。
当時、ヨルダン川の低地はエラム人のケドルラオメル王に12年もの間、支配されていましたが、ソドム、ゴモラの王を含む5人の王が同盟を結んで反逆します。しかし、戦いに敗れてソドム、ゴモラの街は略奪にあいロトも捕虜として連れていかれてしまいます。
そのことを知らされたアブラムはすぐにアモリ人の訓練された僕、318人を連れてケドルラオメルの軍隊を急襲して破り、ロトの一族と財産すべてを取り返すのです。凄いなアブラム!!ちょっとびっくりですよね。

■創世記14:17~20
アブラムがケドルラオメルとその味方の王たちを撃ち破って帰って来たとき、ソドムの王はシャベの谷、すなわち王の谷まで彼を出迎えた。いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクも、パンとぶどう酒を持って来た。彼はアブラムを祝福して言った。「天地の造り主、いと高き神にアブラムは祝福されますように。敵をあなたの手に渡されたいと高き神がたたえられますように。」

ここでメルキゼデクという人物が出てきます。彼は祭司でありサレムの王であったとありますが、実は謎の人物で系図にも出てこないので、どこからあらわれたのか不明なのです。ヘブライ人への手紙の7章にはメルキゼデクが「神の子に似た者であって、永遠に祭司」と書かれています。私はこのメルキゼデクについて凄く頭を悩ませたのですが皆さんはいかがでしょうか。


【まとめ】


メルキゼデクはサレムの王とありますが、「平和」を意味するサレムは地理上、後のエルサレムの場所だとされています。勿論、アブラムの時代には恐らく街と呼べるようなものは無かったのではないかと思われます。しかし、街もない山を治めていた王がいたというのですからますます不思議な話です。
参考までに「エルサレム」というのは「יְר(イェル)」と「שָׁלֵם(シャーレム)」という2つの言葉が組み合わされていて「יְר(イェル)」には「神の計画」を意味していますので「エルサレム」は「神による平和の計画」という意味になるのです。
そこを支配していたメルキゼデクは永遠の大祭司であったとヘブライ書の著者は言っています。

■ヘブライ人への手紙7:1~4
このメルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司でしたが、王たちを滅ぼして戻って来たアブラハムを出迎え、そして祝福しました。アブラハムは、メルキゼデクにすべてのものの十分の一を分け与えました。メルキゼデクという名の意味は、まず「義の王」、次に「サレムの王」、つまり「平和の王」です。彼には父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠に祭司です。この人がどんなに偉大であったかを考えてみなさい。族長であるアブラハムさえ、最上の戦利品の中から十分の一を献げたのです。

そしてキリストについてこう記しています。

■ヘブライ人への手紙7:16~17
この祭司は、肉の掟の律法によらず、朽ちることのない命の力によって立てられたのです。なぜなら、「あなたこそ永遠に、メルキゼデクと同じような祭司である」と証しされているからです。

私は長らく、この「メルキゼデクに等しい大祭司」という箇所を理解できないでいました。
メルキゼデクは祭司として登場しますが、祭司職はレビ族のアロンの子孫でなければなりませんでしたが、この時、当然ながらレビ族は存在していませんので、メルキゼデクは律法に縛られない最初から大祭司であり人でもありませんでした。新共同訳聖書では「神の子に似た」という表現で口語訳では「神の子のよう」という表現になっています。個人的には人の子として生まれる前のキリストと考えてもいいのではないかと思います。
そのメルキゼデクがキリストの体と血であるパンとぶどう酒をもってアブラムを祝福、祭司職を引き継いだのです。律法の枠から外れているということは罪のない完全な者であることを意味しています。これがキリストが生まれる1900年も前に起こり、創世記に記されたということは驚くべきことではないでしょうか。しかもそこはエルサレムの地だったのです。

メルキゼデクから祭司職が引き継がれた1900年後に再び、律法に縛られず罪のないキリストが現れて大祭司の職は元の完全な形に戻ることになります。

■ヘブライ人への手紙7:28
律法は弱さを持った人間を大祭司に任命しますが、律法の後になされた誓いの御言葉は、永遠に完全な者とされておられる御子を大祭司としたのです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?