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『長子の権利』

2024年2月11日

 前回はアブラム(アブラハム)からイサク、そしてアラブ人の先祖となったイシュマエルが生まれた話をさせていただきました。今日はイサクから生まれたヤコブについての話になります。
私にとってこのヤコブの話は聖書をよく学ぶことが好きになったきっかけとなりました。イスラエルの歴史の中でも非常に重要な部分となっていて、ヤコブは後に名を「イスラエル」とあらため、この子供たちがイスラエルの12部族と言われるようになります。さらにはイスラエルがエジプトで奴隷になる話に繋がっていきます。神がアブラハムに語ったことが成就していくのです。
アブラハムの子、イサクは妻、リベカを得てふたごを宿します。そのふたごがお腹のなかで争ったため非常に心配しました。その時、神は応えて言われます。

■創世記25:23
「二つの国民があなたの胎内に宿っており二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。一つの民が他の民より強くなり兄が弟に仕えるようになる。」

そして、月が満ちて先に生まれたエサウは全身赤く毛深かかったとあり、後に生まれたヤコブはエサウの踵を掴んで生まれたとあります。エサウという名には「赤い」という意味がありヤコブと言う名には「押しのけるもの、邪なもの」という意味がありました。
エサウはエドム人の先祖です。エドム人はダビデ王の時代になってイスラエルに屈服しますが、イスラエルが2つの国に分裂し、バビロンが南ユダ王国のエルサレムを攻めた時にバビロンに加担してイスラエルの地を奪おうとしました。また、キリストが生まれる直前、イスラエルのハスモン王朝(レビ族)はエドム人を征服してユダヤ人として生かしましたが、ハスモン王朝が内紛で乱れるとローマ帝国の介入を受けてヘロデ王がイスラエルの王になりキリストが生まれます。そのヘロデ王はエドム人であったとされており多くの赤い血を流しました。

ふたごは成長していってエサウは狩人となり父、イサクに愛される者となりヤコブは作物を育てる人となって、母リベカに愛されました。ある時、エサウが狩りから疲れきって戻ってきます。獲物が何も取れず非常に空腹でした。そこへヤコブは豆の煮物を持ってあらわれます。エサウはその煮物を食べさせて欲しいと言いますが、ヤコブは条件として長子の特権と交換なら良いと話を持ちかけます。この時、空腹のあまりエサウは長子の特権を軽んじて「どうでもよい」と簡単に譲ってしまいます。(創世記25:27~34)その長子の特権では父の力を受け継ぐ初穂として親の財産を他の兄弟より2倍受け継ぐと定められていました。(申命記21:17)
そしてイサクが年をとり目が見えなくなった頃、母リベカはヤコブのために策を巡らします。毛深いエサウに似せてのヤコブの腕に動物の皮を巻きかせ、エサウが出掛けた時にイサクの前に進み出てヤコブは長子として祝福してくれるようにと願い出ます。見えないイサクはヤコブをエサウだと思い込み祝福の祈りをしてしまうのです。兄エサウは狩りから戻ってことの事実を知り怒りのあまり、ヤコブを殺してしまおうとします。そこでリベカはヤコブを家から逃がすのです。(創世記27:1~45)

私が子供の頃にヤコブの話を教会で聞いた時にヤコブは信仰深い人として教えられましたが、ヤコブを信仰深い人だとは思いません。むしろ、貪欲さを持った人間らしい人物だと思います。
私はこの話を見るときにヤコブは長子の権利を無理やり奪う必要があったのかと疑問に思っていました。皆さんはいかがでしょうか。


【まとめ】


ヤコブは生まれる前から神に祝福されていたのだから、エサウから長子の権利を奪う必要はなかったと考えていました。なぜなら、結局、ヤコブはエサウの復讐を恐れて父、イサクの家を出たために何も財産を得ることができなかったからです。イサクの財産はすべてエサウが引き継いだ筈です。そのため得られるものを得て満足したのかエサウはヤコブを後に赦して和解しています。逆にヤコブは父であるイサク欺いたあげく家を追われ、苦労に苦労を重ねました。

ここでは神の祝福とは何かということを考えさせられます。それはヤコブとエサウの長子の権利の捉え方にあらわれていて2人は同じものをまったく違うように見ていました。エサウは若い時に長子の権利を煮物と交換してしまいますが、さすがに本気ではなかったのでしょう。自分が兄である事実はどうなろうが変わることはないと軽く考えていたのではないかと思います。エサウは当時、カナンに住んでいたヘテ人(ヒッタイト人)から妻を得ていますがエサウの独断だったと思われます。なぜなら、母リベカは神の御心に沿ってアブラハムの血縁から選ばれてイサクの妻になっており、ヤコブもまたカナン人から妻を得てはいけないと言明されています。つまり、エサウは長子として父の血を引き継いでいくということも軽んじていて、何より神の御心を気に掛けることがなかったのです。そのため母リベカはヤコブが父の血を引き継いでいくべきだと考えたのだと思います。そのようななかでヤコブは貪欲なまでにエサウの軽んじた長子の権利に拘ったのです。恐らく母であるリベカから「兄が弟に仕えるようになる」という神の言葉を聞かされて育ったのだと思います。
長子の権利とは表面上、家長の地位を得て財産を多く引き継ぐということですが、アブラハムは祭司の役割を引き継いでおり、何よりも祭司の務めを果たしていくということが大切だったのです。

ですから神の祝福というのはどれだけ恵まれているかではなく、どのように歩んだとしても神によって実を結ぶことが確約されているということなのではないかと私は思います。
ヤコブは信仰深い人ではなく、その名の通り「押しのけるもの、邪なもの」で非常に人間的です。けれども神を求め続けていくなかで矯正されて正しい道を歩んでいくようになるのです。ヤコブの物語の一番の見せ場はヤボクの渡しで神の人と格闘する場面です。

■創世記32:25~29
ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答えると、その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」

ヤコブは名を「イスラエル」とあらためるように言われますが、「イスラエル」とは「(神と争い)神が支配される」という意味になります。
あれ?ヤコブが勝ったんじゃなかった?と思われるかもしれませんが、これがヤコブの物語の面白いところで神の祝福の本質だと私は思います。
私たちは神の子として長子の権利を持ち、祭司の務めを担っていますが人間ですから不完全で失敗します。それでも神は私たちを見捨てることなく戒めて教え、実を結ぶ正しい道へと導かれます。

■エレミヤ32:39~40
わたしは彼らに一つの心、一つの道を与えて常にわたしに従わせる。それが、彼ら自身とその子孫にとって幸いとなる。わたしは、彼らと永遠の契約を結び、彼らの子孫に恵みを与えてやまない。


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