あの時、 デザインが敗北したモノ

これを読んでいるデザインに関わる道を選んだ諸氏は既にお分かりだろうが、デザインの敗北で有名なコンビニのコーヒーサーバーのデザイン、あれはUI単独で語られるべきものではない。UIデザインは常にUXという一連の行動の一部として存在するからだ。確実に言えるのはあれをデザインの敗北と呼んでいるのは利用客ではなく、一度もあそこでコーヒーを買った事のない人間か物事の認知力が後期高齢者のレベルである事は間違いない。なぜならユーザーが購入時に目にする商品名はホットコーヒーR(REGULAR)、ホットコーヒーL(LARGE)、アイスコーヒーR、アイスコーヒーLだからだ。『RとLの意味が分からない問題』はレジの前で購入する時に既に発生済みで、コーヒーサーバー前に立った時点ではRとLの意味が分からない事は元より、左右(LeftとRight)を意味するRとLで混乱するはずなど無いからだ。ユーザーはレジでの購入時にRとLのどちらを買ったのかさえ理解できていれば、コーヒーサーバーのR、Lが何を示しているかは明白になっている。さらに店員が「上の段のRのボタンを押してください」などと一言付け加えればあのUIに迷う余地を見つける方が難しい事は誰も否定できないであろう。本来あのUIは読む必要がほぼ皆無なのだ。ところが労働力不足や人件費削減などによる接客サービスの最小化により「いちいち説明するのがめんどくさい。」という接客サービスの劣化をデザインに責任転嫁する為にテプラを鬼貼りする事で読まなければいけないUIにしてしまった。しかもあのUIデザインはあのコンビニでコーヒーを買うというUXが人生で一度きりのユーザーだけの物ではない、むしろ日々繰り返し利用するユーザーを前提としてデザインされている点が重要だったのだ。自分の部屋にある家電のようなインテリアの一部になる事が考慮されている。そう考えるとわざわざ『ホットコーヒー』や『ラージ』とカタカナで書かれているUIを毎日目にするユーザーの気分はどうなるだろう?人間は見慣れた文字が目に入ると脳が勝手に読み込み情報を送ってくる。無意識に『読む』という処理が発生し脳に負荷がかかるのだ。それが英語のアルファベット表記になる事で多くの日本人は絵柄として脳が認識し、文字としての情報を『読む』という処理を回避できる。日本語の文字だらけの壁紙の部屋と、植物などの絵柄の壁紙の部屋を想像して貰えばそこで生活するストレスの違いを理解して貰えると思う。

それらを考慮して改めて見直して欲しい。

https://ameblo.jp/711ikehiga/entry-11532528008.html

敗北の名に値するどころか無駄の無い完璧なUIではないだろうか?これ以上デザインに何を求められるのだろう?更に理解不能なのがこれが分からない国民が多数いるかのような世間の論調だ。

英語表記のみのUIなんて日本人には馴染みがない?
日本人には使い難いデザイン?
デザインが機能してない?

本当ですか?

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Nintendo-Famicom-Controller-I-FL.jpg

コンビニでコーヒーを買う日本人の中で一体このコントローラーを見たことがない、あるいはSELECT、START、A、Bが読めない日本人は何人いるだろうか?このファミコンのコントローラーとあのコーヒーサーバーの何が違うのだろうか?カタカナでセレクト、スタートと書かれていないと使えない?デザインが悪い?ファミコンが発売されたのは私が小学2年の頃、初めて見た時はSTARTがスタートボタンと分からなかったのかもしれないが今となっては思い出せないくらいどうでもいい事で実際に当時のファミコンブームの最中でさえそれが問題として取り上げられた記憶はないし、友達のファミコンにカタカナで振り仮名のように書き足している物を目撃した経験も無い。それは一度使えば分かる、あるいは英語の表記だけでも思い出せるくらい単純なUXの為のUIだからだ。これはコーヒーサーバーにも当てはまる。あのコンビニでコーヒーを買うというUX自体は一度使えば間違いなく覚えられる単純さだ。あのUIを使える客より使えない客数の方が圧倒的に少ないはず。それなのに店側はなぜテプラを貼りまくるのだろう?

そこであの時デザインが敗北した相手について考察したい。しっかりと観察すれば、あのテプラが物語るのは店側は客が間違えてボタンを押す事により発生するコストの負担をしたくないという経営的な都合だとわかるはずだ。本質は先に述べた接客サービスの劣化による「いちいち説明したくない。」という現場オペレーションによる理由だけではなく「客が間違えても返金対応したくない。」という思惑の方が大きいように思う。コンビニのような薄利多売のビジネスモデルでは少額でも損失の積み重ねによって簡単に死活問題となり、クレーム対応するだけでもその時間の人件費は奪われ、他の客への対応が薄くなるなどの運営上の損失は大きい。おそらく押し間違えた客からのクレームの格好材料としてUIデザインが分かりづらいという意見が圧倒的だったのであろう。うっかり間違えた客側も接客を手抜きした店側もデザインが悪いという事にしてしまえばお互い非を認めずに済むと判断した。そこで店側はデザインの補足説明をする為に貼るのではなく、客が間違えた際のクレーム対応を避ける為の保険として事細かく注意書きを貼ったのだ。これはUIではなく、もはやトリセツである。あのデザインの敗北とはUIをトリセツ化しようとしたり、トリセツが無いとUIを認識できない人により起こった喜劇を側から見た第三者がジャッジした評価である。果たしてこの状況で敗北しないデザインなど存在するのだろうか?おそらく表記をカタカナに変えたところで、うっかり間違えてクレームを入れる客は減らないだろうし、間違えてボタンを押しても店の責任にされないようにあれこれ貼りまくる店もなくならないであろう。そしてそれを馬鹿の一つ覚えのようにデザインの敗北としてSNSに載せる人間もこの先日本から消える事はない。これはもうデザインの敗北というミーム(meme)のような物だ。正確にはテンプレ(テンプレート、お手本、マニュアル、指示)依存によって認知力を壊死させる日本人特有の病。クレームを避けるテンプレとしてのテプラ鬼貼り。コンビニで見た事のないテンプレ外のデザインに遭遇した時の困惑や拒絶反応。バズったテンプレを真似して注目を浴びたいという知性の無い承認欲求。みんなが敗北と言うなら敗北なんだろうというテンプレの鵜呑み。あの時デザインが敗北したのはこれらテンプレ無しには生きられない人々、認知力の低下した社会なのである。

高学歴ほど馬鹿化しやすい日本

このテンプレ依存は物事を認知する力を著しく低下させる。物事に対して自分で思考して認知する習慣がなくなり、問題が起きても原因を認識できなかったり、的外れな解決策を実行し続けたり、指示を出してくれる人を盲信し指示に従わない人を攻撃するようになる。そして出来上がったテンプレ依存社会は、これまでのテンプレを破壊するイノベーションやフルモデルチェンジを拒絶し、古いテンプレのメンテナンスやマイナーチェンジでなんとかその場を凌ごうとする土壌を築き上げる。一度この土壌が出来上がってしまった集団で問題を解決する事は、不可能なくらい困難になる。なぜならテンプレ依存に陥った人間は今までのテンプレに問題が生じた場合、問題を解決するよりテンプレを維持する事に固執する。問題に向き合わず、保身を優先するあまり問題を見て見ぬ振り、酷ければ嘘をついてでも問題を隠そうとさえする様になる。日本企業が衰退した原因とされる過去の成功体験への固執は典型的なテンプレ依存と言える。テンプレ依存の根底にあるのは間違えや失敗に対する恐れだ。依存する人間は自分が間違える事を強迫的なまでに恐れるあまり、テンプレの間違いを指摘されるとあたかも自分が間違えているかのように感じられ、全力でそれを否定しようとする。ここ数年で最も分かりやすい例はアベノマスクだろう。あれはテンプレ人間によるテンプレ人間の為の愚策だ。あの時に問題となっていたのは感染予防の為に必要なマスクの不足だ。正常な認知力のある政府なら問題の本質は感染予防であってマスク不足ではない事はわかるはずだ。しかしテンプレ人間は感染予防という問題解決よりマスク不足を解決する事に没頭する、ここでいうテンプレとは感染予防する為にマスクを着ける行為のことだ。彼らの頭の中ではマスクを着けなければテンプレ自体が壊れ、感染予防など二の次になるのだ。そこで問題の本質が感染予防ではなくマスク不足にすり替わる。感染という問題を解決するよりテンプレを維持する為にマスク不足を解決しようとする。国民はマスクを着けたいのではなく、ウイルスに感染したくない、予防したいだけなのにマスク不足と聞いて国民はマスクを着けたがっていると政府は認知する。そのため例え最初から予防効果が無いと分かっている布マスクでもとんでもない国家予算を注ぎ込んで何の迷いも無くドヤ顔で配るような愚行が起こるのだ。それに対して「マスクがなかったので助かります」や「無いよりマシ」などと反応するテンプレ人間の声を見かけたが、「ウイルスもろ吸い込んで助ってねぇし、無くても同じだし」と思えたあなたは正常な認知力が備わっていると言えるだろう。GoToキャンペーンやマスク会食、自粛警察などコロナ禍で我々が目にしてきたあらゆる喜劇にテンプレ依存によって著しく認知力の低下した社会の弊害が見て取れる。目に見えて日本人が馬鹿になっているのだ。国を動かしている官僚にはこの国の最高学位を持った人間しかいないはずなのになぜこのような意味の分からない政策を考えつくのかと言うと、日本の学力とは記憶力とテンプレのコピー能力で測られ、自分で考える必要のある認知力、想像力が全く必要ないからだ。これが高学歴でも馬鹿が多い理由で、むしろ高学歴ほどテンプレ依存が激しく馬鹿になりやすい理由でもある。

しかしこれは今に始まった事ではない。年金制度や原子力エネルギー政策など、すでに崩壊を目の当たりにしたテンプレでさえ未だに問題の根本を解決せず空いた穴を塞ぐだけの修繕作業を10年以上続けている。それも当然といえば当然だ、国を動かしている中心的政治家のほとんどが前述した高学歴馬鹿の疑いがあり、しかも高齢者なのだから、まともな認知力を期待する方が酷な話であろう。そんな老人達へ投票し続けているのもまた高齢者やテンプレ依存の低認知力層なので同じ喜劇が繰り返されるのは避けられるはずがない。しかしこの国の本当の悲劇はこの後数年で、認知力がテンプレ依存によって衰弱しきった上で高齢化によってガチの認知機能の低下に見舞われる人間で溢れかえる事だ。つまり今以上にこれまでのテンプレにしがみつく人間が増えると思った方が良い。この先若者がどれだけ画期的なアイデアを思いつこうとも国内ではそれを邪魔するテンプレ人間、特にテンプレ老人の層が厚すぎて努力が水の泡になるであろう事は火を見るよりも明らかだ。話が大幅に逸れたが、これは政治だけの事を言っているのではない、世に出る全ての新しい物、画期的な物には同じ障壁が待っている。デザインでさえも今まで以上に酷くなっていくであろう。本来なら問題を解決する事を本質とするデザイナーでさえテンプレ人間が増え始める。長々とあたかもデザインの敗北などこの世に存在しないかの如く論じてきた様に思われるかもしれないが、実際に敗北しているデザインも多々存在しているのは事実である。そんなデザインの背景には問題の本質を見ず、何かのテンプレ、受け売りのそれっぽさを持ってくるだけのデザイナーの姿が透けて見えるのである。

日本人に本当に必要とされているのは、何が問題なのか?なぜそれが必要なのか?を本質的に自問自答できる能力、テンプレや影響力のある誰かの受け売りではなく、自分で考え、自らの言葉で語り、自分が見つけたルートで人生を生きる能力なのだ。


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