納骨 2023-3-5

先々月、母方の祖母が亡くなった。
そんな記録を残しておく。

正直言って、そんなにショックなことではなかった。2年前の4月、急に倒れて救急車に運ばれたとの電話を受け、夜の病院へと向かったときに一旦の覚悟を決めていたから。

祖母は家業を継いだ伯父の家族と共に暮らしていた。その家は母の実家にあたり、我が家から車で1時間も運転すれば着く。そのため、子供のころからよく母に連れられて訪ねた。母と祖母と3人で近所の大きな公園を散歩する事が何度かあった。夏には向こうの家に1泊することもあった。年上の従兄が2人いて、一人っ子の自分にとっては兄のような存在だった。

高校、大学と自分が忙しくなるうちに、母の実家に向かう機会は正月とお盆に限られるようになった。徐々に、祖母の老いを感じていた。従兄は挨拶の席にいないことが増えた。仕事に行っているとか、彼女とどっかに行っているだとか。そんななかでも、何もないかのように「例年通りの親戚の集い」を行っていた。

祖母が急に倒れた、とはいっても何度か入院はしていた。ボケも来ているという話は聞いていた。それでも救急車で運ばれたという連絡はショックだった。バイト先の社員さんとモンハンで遊ぶという予定を断り、病院に向かう中では最悪の場合の事も考えていた。というか、その可能性が7割くらいあると思っていた。

そこから、奇跡的に回復した。

意思疎通ができる状態に持ち直した。しかし、長くはないことは明白だった。コロナ禍で、病院やリハビリ施設も気軽に足を運ぶことはできなかった。事前に予約をして、ようやく画面越しに会話をすることができる。後半は、ガラス越しの対面。そんなことをしても、施設内でクラスターが発生し、祖母はコロナにかかった。そこからも何とか回復し、今年に入った。

祖母が亡くなったという電話を、自分は大学の最寄り駅に併設されたカフェで受け取った。指導教員に見せる前に、自分の修士論文の確認を行っていた。提出前の追い込み時期だった。覚悟はしていたけど、タイミングが悪いなぁ…というのが正直な感想だった。さらに悪いことに、葬式の日が修士論文の発表を行う日にかぶってしまった。結局、自分は祖母の葬式に出席できていない。納棺と葬式前日のお通夜には出たものの、頭の中では発表練習を繰り返し行っていた。

そうそう、自分が小学校に入学してすぐの頃、母方の祖父ががんで入院し、亡くなった。あまり記憶が定かではないが、なかなか壮大な葬儀だったのだと今ではわかる。地域に根差した商売をしていた人だし、繋がりが色々とあったらしい。夕暮れ時に、家に焼香に来る黒服の大人の行列を覚えている。その記憶と比較すると、祖母のお通夜はとても質素だった。それは祖父の葬儀を受け、祖母が希望したことらしい。自分もこういうのが良いな、なんて思った。

母方の祖父の葬儀以降、ありがたいことに身近な親戚がなくなることはなかった。そのため、死体が身近にある時間は小学1年生ぶりだった。納棺のときに触れた、あの固さと冷たさ。まるで寝ているかのように横になっていて、しかし全く動かない。顔にかけられた布は微動だにしない。これが、死んでしまうということだよなと、当たり前なことを、こんな年で、再確認した。

幸か不幸か、この葬儀前後で久々に従兄とじっくり話す機会ができた。その中で、2人に最近どういうことがあって、家族の関係がどうなっているのかを何となく理解できた。「例年通りの親戚の集い」の表層の裏で色々あったことを知ってしまった。近くにあっても、こんなに知らないものか、という思い。一方で、そりゃそうだよな、と思う自分もいる。従兄という関係性を、葬儀の期間にまた近づいたこの距離感で続けられたらな、と。

そこから四十九日が経ち、本日、納骨。

今日のお経は般若心経から始まり、みんなが知っている定番ソングから始まるライブみたいだな、と思った。墓の封が開き、奥に骨壺が並ぶ空間が見える。こうなっているんだ。そこに新たに祖母の骨壺が入る。ぼんやり、自分はいつか自分の両親のこれをやるんだよな、ということを考える。そのときはこんな冷静じゃいられないだろうなと思い、母の顔を伺う。


死が生活の延長にあること、いつか自分もこの式を執り行う側に立つことを考える期間だった。伯父の家族の見え方も変化した。それとは別に、葬儀自体の儀式としての面白さも感じた。

あ、そうそう。今日は従兄とほとんど会話がなかった。



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