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修正版・秦氏と漢氏/卑弥呼ー三国志外伝、修正、再考

♪秦氏と漢氏

日本人の誰にも相手にされないで、
淡々と書いておるぞwww。

図書館にあった、朝鮮人の作者(研究者)が書いた本のメモ
であるが、ウィキの説明とは、内容が、若干違っている。

正確性は知らんが、当方の、とりあえずの
推理と修正は、メモ後に書いちょる。

帰化人と渡来人のメモから導入しておる。

内容がややこしいので、最後に纏めておる。

================

帰化人と渡来人。

渡来人とは、鉄器などの技術を持って、
自ら移住した人達
、という意味です。

帰化人とは、戦乱などを避けて渡来したり、他国
から王朝に雇用されて来たような人達
、という意味です。

ニュアンス的には、渡来人⇒自発的、帰化人⇒他動的
という感じで、一応、違いがあるようです。

*正確には、どちらも同化、混血した集団である。

帰化人は、半島大陸から、奴隷や捕虜として連れてこられ
たり、農耕、養蚕、灌漑などの先進的技術を齎しました。

新羅や百済の漢(アヤ)氏族や、
秦氏族などが、代表的な帰化人です。

古墳時代以降の、この二大勢力は、倭朝廷に
技術者として仕え、貴族や豪族として畿内を
拠点に全国に繁栄しました。

漢氏族は、政治の実権を握っていた
蘇我氏族に仕え、こやつの贔屓で、繁栄しました。

漢氏族(あやし)の漢は、漢文の漢になっていますが、
南朝鮮の安耶(アヤ⇔ハングル語)氏族のことで、倭に
帰化したのち、漢字で当て字をしました。

この頃の漢字は、半島大陸系統の、
帰化人貴族階級と、その末裔が独占しました。

古代朝鮮語は、超古代文字として、社系祭祀
グループの中に、ひっそりと受け継がれました。

平仮名は、仏教伝来以後に、梵語が変化したものです。

倭朝廷のあった、飛鳥や今来郡(新しく渡来した人達
の地という意味、現高市)
で、漢氏族が繁栄しました。

漢氏の一族に、刈田麻呂なる人物がおりますが、その
末裔から、坂上田村麻呂(坂上氏族)が分岐しました。

その他、漢氏族からは、木津氏族、当宗氏族、丹波氏族、
檜原氏族、内臓氏族、山口氏族、平田氏族、佐太氏族、
谷氏族、志賀氏族、池辺氏族、栗栖氏族
・・・など、
多数の氏族(豪族)が分岐しました。

末裔で最も出世した坂上氏族からも、浦辺氏族、田村氏族、
辻氏族、玉造氏族、山本氏族、柏葉氏族、金同氏族、泉氏族、
東氏族
・・・などの氏族(豪族)が、多数分岐しました。

これら氏族の末裔が、更に、数百氏族に分岐しました。

漢氏族は、人夫(労働者)として、百済17県
から、奴隷を大量に連れて来ました。

この、百済17県の人夫も、氏族(豪族)
として、更に分岐しました。

もう一方の、秦氏族は、他の氏族や帰化人より、
遥かに強大な勢力を誇っていたので、漢氏より多い、
百済120県の人夫を率いて、半島から来ました。

中華系朝鮮の帰化人は、高麗(コマ)氏族(高句麗)や、
王仁氏族など、色々な人達が全国に展開しました。

漢氏族の拠点の一つ、奈良の檜隈に、栗原という
地名があり、元は呉原と呼ばれていました。

この地に住む氏族(豪族)を、呉人というそうです。

高句麗を、朝鮮語ではコクレと読み、高(コ)
装飾語で、句麗(クレ)族という意味です。

なので、高句麗から渡来した氏族の総称が、
呉(クレ)になりました。

呉=句麗という意味なので、広島の呉、などは、
呉越の呉ではなく、半島の、句麗という意味です。

百済は、高句麗の支配下にありましたので、
支配者層の潮流は、高句麗です。

高句麗の基盤は、東北地方の遊牧民族「扶余族」です。

当初の倭朝廷は、部族の寄せ集めで、技術も旧型だった
ので、大陸技術の発達した朝鮮半島の技術者を招聘して、
政権らしきものを確立させる必要がありました。

朝廷当初は、卑弥呼以来の道教系祭祀でしたが、仏教伝来
以後、大化の改新で、仏教系の支配者層に取って代わられました。

蘇我氏族は、山城国(京都)諸豪族の帰化人であった、
大姓氏族(諸説あり不明)から分岐しており、百済帰化人
グループの棟梁でした。

百済系の帰化人では、その他、藤井氏族、船氏族、
津氏族
などの氏族が渡来しました。

そして、大化の改新(クーデター)で、
百済系帰化人の勢力が強くなりました。

高句麗は、高麗(コマ、金ともいうらしい)
のことで、高麗氏族です。

高句麗の高句麗族は、新羅に移動し、帰化した勢力です。

高麗(コマ)の地名は、全国に広がり、埼玉の
高麗川
や、全国の駒ケ岳(高麗岳)など、そこ
かしこに繁栄していた形跡があります。

駒ヶ岳は、高麗族が住んでた、或いは、
山岳信仰をしていた場所
です。

高麗川がある埼玉の武蔵は、朝鮮語のモシ(麻)、
シ(種子)
がファビョって武蔵になったようです。
(ほんまかいな?)

モシシは、絹の栽培技術のことで、高麗氏族は、
機織や栽培の技術集団であったようです。

神話の時代、倭の神権(祭祀)を支配していた集団は、
辰韓(新羅)系の祭祀集団で、出雲の大国主やスサノオは、
新羅系の氏神であるようです。

剃れと、熊野の熊は、朝鮮語のコム(熊)のことです。

コム(熊)は、古代朝鮮語で「聖なる者(神)」
という意味で、カム(神)という意味に使われます。

朝廷以後の漢語(漢字)の当て字だと思いますが、
隈(隅っこという意味)という意味もあり、僻地の
地名
としても使われます。

神ろぎは、朝鮮語の、聖なる社という意味です。

この聖なる社が、神権祭祀として、
神社や神官の原型になりました。

王仁氏族から分岐した、高志(こし・越)氏族から、
行基なる僧侶が出世しました。

高志はかもしれませんが、一般では、越国はベトナム
地域の、辺境民族のことです。(赤米(タイ米)渡来説)

このように、地名は、古代朝鮮語の
エッセンスが残っている場所が多いです。

文中の、高麗の地名などの他、飛鳥⇒アスカ(安伽)氏族、
河内⇒河内氏族
など、他にも色々とございます。

白山氏族、白木氏族、白子氏族、白髭氏族などの氏族(⇔地名)
は、新羅のシラから漢文で当て字されたもので、白山などの元は、
シラ(白)氏族の山や村(土地)という意味です。

若しくはハク族の狛(ハク)が語源かもしれません。

埼玉の新座は、元はシラギ(新羅)郡と呼ばれていまし
たが、後に新座(ニイクラ)という地名になり、ファビョ
って、ニイザと呼ばれるようになりました。

このように、その土地に拠点を構えた、中国人系朝鮮人である
帰化人諸族(豪族)の名前が、そのまま大部分の地名になりました。

駒ケ岳の場合、箱根山鉄器の生産をしていた、
高句麗から異動した新羅系(元は高句麗族)帰化人が、
高麗の氏神として祭ったことが始まりです。

それで、全国に駒ケ岳(高麗岳)が広がりました。

伊勢神宮の伊(イ)は、ハングル語の接頭語のことです。

伊(イ)や安(ア)の接頭語の地名は、イセ(伊勢)、イナ
(伊那)、アソ(阿蘇)
などの氏族が拠点にしたようです。

物部や元伊勢(籠神社)海部など、部(べ)系は、
朝鮮語のべがファビョってるのかもしれません。
(詳しく分かりません)

元伊勢(京都)から、伊勢氏族の地に豊受大神を
異動したのは、ずっと後の時代です。

その他、石上、ウサ(宇佐)など、祭祀で
重要な場所は、殆どが新羅系です。

新羅系の幾つかは、母系の祭祀で、
巫女(霊媒師)が祭司でした。

比メ(姫)神を祭った地名が、母系(巫女)ですが、
女神を祭神としてる場合や、そうでない祭神もあります。

卑弥呼の弥呼も巫女(ヒメ、女系霊媒師)という意味です。

神道の、宗教祭祀としての神社や神官は、
新羅に源流があるようです。

新羅の祖神廟から、百済系の渡来人(帰化人)が持ち
込んで、氏族や部族の氏神や儀礼の統治に利用しました。

そのころの神社や神宮は、「ヒモロギ」と呼ばれていました。

祭祀を担当していた神官らしき物部氏族は、権力争いで対立した
蘇我氏族に負けて、東国(畿内より東)に追っ払われました。

それ以前の信仰は、農耕儀礼や諸部族
(原住民)の、土人信仰になります。

メモここまで。

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確か、朝鮮同祖論の本には、もっと沢山書いていたが、
これも図書館の本なので、書き出しは限界がある。

で、修正といっても、中国朝鮮の部分を、
例によって、同化ユダヤに変更する程度しか出来ない。

秦氏は、チューブの動画や、ネットにも
沢山出ているのだが、漢氏の部分が、謎である。

ウィキには、蘇我氏との関係が、あんまり書いてない。

秦氏は、シルクロードの、キルギスーウィグル
あたりの、弓月君(月氏)である。

漢氏の場合は、三国志の冒頭に出てくる、
霊帝の末裔と書いている。

ドラマの三国志のネタだが、霊帝の息子の、献帝は、
董卓や曹操に拉致されたり、横暴の限りをお見舞い
されたあげく、どっか、監禁されて死んだと思う。

ややこしく書いてる話を纏めると、三国志で、曹操一族
に滅ぼされた、後漢の皇帝の末裔が、どっかでこっそり
生きていて、その末裔が、朝鮮におり、漢氏として帰化した。

その子孫が、何割かの日本人である。

ということは、日本人の何割かは、
三国志時代の、元皇帝の子孫
であるww。

ということは、劉邦の子孫でがるwwww。

という話だが、どーも怪しい?

当方では分からないが、田中教授は、N派キリスト
教徒の蘇我氏の配下で、仏教徒の中国人が、漢氏
である
と話している。

図書館メモの、大部分は、漢氏から分岐した、
朝鮮人である
というスタンスの本であったが、
恐らく違い、同化ユダヤが大部分ではないか?

姓を名乗れるのは、限定されており、
少なくとも朝鮮人ではない。

大部分が、同化ユダヤか、中国仏教関係の人物では
ないかと推理しているが、今のところは不明である。

半島は、古代から、同化ユダヤと、縄文人が住んでる
土地であり、オリジナルの朝鮮人は存在しない。

中華と、こいつらが、百済と新羅を、
ある程度、整備したのである。

それ以外は、太古から土着してる、先住土人
であるが、そういう連中が、半島に存在していた
かどうかは、当方は知らんww。

北朝鮮側は、燕国や魏から来た、漢人か、
満州の、高句麗族である。

剃れと、扶余であるが、ネット上では、
その説明が怪しいと思う。

そもそも、高句麗族が怪しく、こいつらは、
北方でウロウロしてた民族であり、始祖は
ハッキリしていない。

ウィキでは、ツングース族は、ロシア・シベリア
まで、広範囲で広がる、十以上に渡る、複数の部族
である
、と書いている。

ロシア語では、テュルクと呼び、末裔は、モンゴル
高原の、トルコ系遊牧民、突厥族に変化している。

突厥には、ユダヤ系遺伝子が存在するという話である、

高句麗族が、満族の集団という確証はない。

結論として、扶余もユダヤ系であり、恐らく、
秦氏の一部か、他の同化ユダヤ部族であろうと思われる。

中国系(漢人)は、中国仏教の一味であり、
上位者は、蘇我が暗殺している。

機織り関係は、秦氏の方であるから、
漢氏が独占したというのは、間違いである。

秦氏の、派閥の一部が漢氏であると
考えてよいのではないか?

剃れと、古代朝鮮語の部分は、縄文の
神代文字の方が、元祖である。

つまり、倭語の方が先であるwwww。

神代文字と、ヘブライ語の文字が混ざった
のが、古代朝鮮語とやらかもしれんが、この辺
は、当方では不明でがる。

トルコ系ユダヤの言語かもしれん?

何しろ、ユダヤの部族は沢山ある、ので、
半島地域の、独特の訛りだったかもしれん?

神社の起源も、縄文と同化ユダヤの文化が、
植民地の、百済で起こってただけである。

輸入品ではないwwww。

秦氏の細分化は、本に書いてなかったか、
または、当方が端折ったんだか、忘れてしまった。

剃れと、鉄器を扱うのは、同化ユダヤが主である。

アヤ、アソ、アベ、コマ、クレ、コレ、ハク、
シラ
、などの苗字は、秦氏の部族か、漢氏か、同化ユダヤ
の部族だと思うが、そこまで詳しくは分からない。

~~~~~~~~~~~~~~~

自分で書いててややこしくなったので、
最後に纏めてみる。

秦氏系は、神道の同化ユダヤ部族で、漢氏系
は、建前上、仏教の、蘇我氏率いる仏教系の
同化ユダヤ部族
である。

神道の秦氏VS仏教の漢氏、なのだが、徐福の時代
から存在している、秦氏に比べて、漢氏は、新興の、
同化ユダヤ部族
である。

ボスの蘇我は、周知のとおり、キリスト教徒である。

勢力では、秦氏に劣る、漢氏のグループは、
蘇我と聖徳太子の仏教で、重要ポストに抜擢
され、文中のように、末裔が、弥栄えたのである。

漢氏は、中国人の漢ではなく、扶余(ティルク人)
系統の、同化ユダヤ人
で、安耶氏という部族である。

三国志の、献帝の末裔という部分は、不明
であるが、中国人の仏教徒も雇われており、
こやつらは、後に、蘇我に暗殺された。

図の、出雲族は、モーゼ(オカルト枠)の
時代から土着している、古参の同化ユダヤである。

朝鮮人の作者の説が正しいのかは、不明だが、
図の、高麗氏族や、白氏族らは、秦氏か、安耶氏
から分岐した、同化ユダヤの部族
である。

この段階では推理なので、正確性、繊細は不明である。

一応終わり。



♪卑弥呼ー三国志外伝、修正、再考

田中教授の動画を見て、当方の空想を修正した。

原因は、崇神とメモに書いていたが、
天皇が違っていたせいである。

卑弥呼と邪馬台国に関しては、田中教授は、魏書の
不正確さで存在しない
とし、他の学者は、筑紫平野に
存在している
とする。

魏書は不正確だと、10年くらい前の本でも
読んだことあるが、仮定として、それらしき
場所として、筑紫説で固定してみた。

まずは、タイムラインである。

このメモは、以前書いた、左翼作者が書いた、日中朝
同祖論(倭=冊封国論)の書籍と、教科書的な歴史の
本を参考にしている。

誤字脱字、当方の勘違い等は、そのまんまである。

天皇のタイムラインは、諸説あって、真相が
分からないが、とりあえず、この年表にした。

https://genryu.org/tanaka/rohen/rohen523.pdf

仮説として、関数を挿入しただけであり、真相は知らない。

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AD66~73年

第一次ユダヤ戦争。

ユダヤ教原理主義が、ローマに武装蜂起
して、最後は全滅した。

ユダヤ人のキリスト教派閥は、原理主義者
以外は、戦争を回避していた。

AD71年

景行天皇即位。

年代不明、ヤマトタケルの熊襲征伐。

AD73年

後漢の、班超なる人物がシルクロード経由で北匈奴を
制圧しながら、西アジア、クシャーナ朝まで進出しました。

漢書を書いた奴の弟らしい、ローマ帝国を武力で征服
しようとしたが、シリアで諦めたようだwwww。

D社の予告編を見て、多少追加した。

恐らくだが、第一次ユダヤ戦争で逃げてきた
ユダヤ人の群れが、月氏国から、ウィグル、万里の
長城を超えて、後漢の関所を突破しようとした。

班超という人物が派遣され、落ち武者の
ユダヤ人を、追い払ったが、匈奴など、他の
部族も参戦し、大混乱になった
、っぽい感じ
だが、詳しくは不明である。

AD107年

高句麗国(北朝鮮、遼寧省)を、なる王が統一して
辺境(漢との国境)に侵入し、略奪をしました。

同年、筑紫(博多)の倭王「師升」が、後漢帝国に
奴隷の献上物と使者を送り、何らかの交易をしました。

2世紀には、鞍安(今の遼寧省内)の高句麗族、
農安(今の吉林省)の扶余族と漢帝国の遼東郡出張所
との交戦がしきりに勃発しました。

AD131年

成務天皇即位、奈良王権の行政を整える。

同化ユダヤ人の、武内宿禰将軍がブレーンになる。

AD135年

ローマ帝国の迫害、第二次ユダヤ戦争(パルコクバ)で、
ユダヤ民族が離散の民になりました。(ディアスポラ)

離散したユダヤ人は方々に逃げて定住しました。

ユダヤ人は、西域(或いはカナン華南)に逃げました。

年代不明

AD173年くらいから?霊帝の時代?

九州や近辺で乱立していた100以上の諸部族で
大規模な部族間抗争が発生しました。(倭の大乱)

AD173年~183年のどっか(漢の霊帝、光和中時期)

倭国の騒乱後、邪馬台国の卑弥呼(卑巫女)
なる女王が登場しました。
  
卑巫女は、鬼道で、幾つかの国を統治しました。

AD184年

太平道教の乱や五斗米道教の拡大で、
漢帝国が弱体化しました。

邪馬台国の巫女「卑弥呼」の鬼道(道教)は、
太平道教や五斗米教の拡大で、宗教で統治をする
集団に組織化されていきました。

他の部族を牽制したり、宗教的に併合しました。

以後、東北地方+内蒙古の遊牧民族高句麗族、
扶余族やチベットの鮮卑族、カイ・ハク族などの
朝鮮諸民族、漢人との間で満州地方、朝鮮北部を
戦場にして、領土争いが続きました。

AD192年

仲哀天皇即位。

年代不明、神功皇后の三韓征伐。

熊襲征伐で仲哀天皇死去、以後は神功皇后が代理。

AD197年

高句麗族で王権争いが勃発しましたが、この頃
から楽浪郡の中国人達が戦乱を避けて、南朝鮮
への移住が続々と増えました。

幽州(北京と河北省の一部~遼寧省)は、最強らしき
白馬の騎馬部隊を編成する「公孫瓚」が、高句麗や
北方遊牧民を抑えつけ辺境を支配していました。

公孫氏は、呉の孫権とも同盟を結びましたが、
袁紹に侵入され、自害しました。

公孫瓚が死した後は、一族の「公孫度」なる人物が、
遼東郡を支配し、楽浪郡を再度整えました。

AD204年

公孫度が死んで、息子の公孫庚が体制建て直しの
ために、南朝鮮の倭族やカン族、逃げた漢人を強制
復帰させて支配しました。

この時期に、卑弥呼が幽州(遼東郡)の
中国人と接触しました。

遼東郡が戦乱で機能しなくなっていたので、朝鮮
南海岸地域治安のため、倭の邪馬台国が重要視され、
以来魏帝国の政策に断続されました。

高句麗族は、孫権と同盟を結びましたが、
すぐに魏の曹操に鞍替えしました。

AD208年

赤壁の戦いで呉王朝が曹操に勝ちました。

AD220年

曹操が病死しました。

同年、曹丕が文帝に就任して魏帝国が成立しました。

この時代以降、高句麗、朝鮮半島、倭(弥生)の
一部が、魏によって、明確化されました。

AD221年

劉備が昭烈帝となり蜀帝国を立ち上げました。

AD222年

燕国の?「張飛」や、劉備が戦死しました。

同年、孫権が呉帝国を立ち上げました。

AD234年

諸葛孔明が司馬仲達との戦闘中に五丈原で病死しました。

AD238年

魏帝国は、手下の高句麗族を使って公孫氏を滅ぼしました。

魏は楽浪、帯方2郡を支配地として再度復興させました。

これにてほぼ、高句麗、遼東、朝鮮半島を領地にした魏は、
南朝鮮のカン(韓)族や東海の島国であった邪馬台国(倭)
とも交易(支配)を始めました。

AD239年

明帝(曹丕の息子、曹叡)が卑弥呼を親魏倭王に任じ、
銅鏡100枚(三角縁神獣鏡)を、奴隷のご褒美にくれました。

魏が占領した楽浪郡の役人が、魏志の東夷伝なる記録文書の
中に倭人伝なるエピソード(記録)を残しました。

三国志原書の作者「陳寿」が東夷伝(倭人伝)を
編纂しましたが、政治的に、かなり脚色されました。

そのせいで、近年の邪馬台国論争が大混乱に陥りました。

同年、曹芳が魏皇帝に即位しました。

AD244年

高句麗族は、魏帝国に歯向かい、幽州から
派兵された部隊に、首都が占領されました。

南朝鮮諸部族と邪馬台国は、積極的に
魏帝国の支配下に入りました。

魏志東夷伝によれば、南朝鮮のカン(韓)族は、
馬韓、弁韓、辰韓の三韓に大きく分かれていていました。

しかし、境界などは不明瞭で、前記のように
政策上の脚色がありました。

記録上では、辰韓の辰国王が支配する月支国の他、
24国以上の小国家が存在して、恐らく北朝鮮のカイ族
より生産が豊かで人口が多かったようです。

*馬韓は50余国、人口10万余。

これらの小国家に、魏帝国が官位を与え、
貢物(徴税)を義務化しました。

三韓は、農村共同体で権力らしきものが無く、ネィテブ
インディアンの儀式と似たような風習がありました。

カン(韓)族は、鬼神や天神(道教)を民間信仰しました。

「ソト」なる祭祀の村が儀式として大木に鈴や太鼓をかけて
鬼神(道教の幽霊だが、この場合祖先霊)を祭りました。
(日本の風習では「鬼は外」の節分になった)

これらのことから、階級に関係なく漢帝国以前からの儀礼や
風俗が、チマチマ南朝鮮に伝播されていたことが分かりました。

AD249年

司馬仲達がクーデターを起こし、丞相に
なって政治の実権を掌握しました。
 
AD263年

魏の遠征軍が、アホの劉禅と蜀帝国を滅亡させました。

AD263年

魏の鍾会、トウガイに攻撃され、アホの
劉禅と蜀帝国が滅亡しました。

AD265年

司馬炎が晋王になり(西)晋帝国を建国、魏が滅びました。
 
AD266年前

卑弥呼一族の壱予が、次の女王になって
西晋に貢物を献じました。

以上を持って 三国志魏志東夷伝の倭人伝から
倭の記録が暫く途絶えました。

AD270年

応神天皇が即位、新羅の同化ユダヤ人を
大量に受け入れる。

AD280年

呉が滅亡して(西)晋帝国が中華を統一しました。

AD270年~290年頃

応神天皇が、西日本諸国(のユダヤ人?)を統一しました?
  
この頃に、疫病(種類不明)が流行して、
倭民族の半分以上が死にました。
 
AD280年

呉の国が西晋に滅ぼされ、三国時代が終了しました。

AD300年頃

奈良に前方後円墳(石室)なる、部族で権力を持った
首長(上位帰化人)の墓が、いくつか作られました。

AD304年

中華帝国が辺境民族主体の五胡十六国に分断
され、これ以後、中華帝国の人材や国力が衰えて、
辺境民族や朝鮮、倭国が独立国として台等し始めました。

AD313年

仁徳天皇が即位、奈良から大阪に遷都する。

================

再度書くが、天皇のタイムラインは不明。

この部分は確定的で、卑弥呼は、固有名詞
ではなく、日の巫女という意味である。

つまり、仮名である。

部族のクビ長クラスであるが、日の部分を、
卑しむとしており、邪馬台国にしても、魏書で、
明らかに、見下したような名前をつけられておる。

卑弥呼は、魏が勝手に命名した呼称であり、
日本神話には登場してないようである?

倭王権にとっては、重要人物でないか、
削除していた人物である。

卑弥呼=神功皇后説も一般論だが、卑弥呼は、中国側に
しか登場しない、アンバランスな人物で、神功皇后は、
日本書紀に登場する(気長足姫尊)実在の人物
である。

漢書、魏書ともに、大和王権そのものを
削除しており、九州の部族だけを正当化している。

倭の五王とやらは、卑弥呼と一緒で、中国側の
主観的記録だと思うので、ややこしいから無視する。

ここからは、当方の妄想である。

ユダヤ戦争の、ユダヤ&キリスト教原理主義者と、
ローマ寄りのキリスト教徒
が、二派に分かれ、
ユダヤ原理主義者が全滅、ディアスポラしており、
重要なキーになる。

ディアスポラで、月氏国に来たのは、
ユダヤ原理主義者の、武装集団である。

黄巾の乱の、太平道教の張角は、実は、
ユダヤ教徒か、キリスト教徒である。

太平という名称が、既にキリスト教的である。

太平天国の乱は、キリスト教だったが、張角
のは、ユダヤ教なのか、どっちだかは不明である。

デイァスポラがユダヤ教だから、迷ったのだが、
キリスト教原理主義者が、道教と融合したのでは
ないかと思っている。

道教の天帝は、ユダヤ教のヤハウェ的で、
恐らく、モーゼの頃から、道教と、ミクシッド
していたに違いない。

月氏から来たユダヤ教徒は、縄文だけでなく、
中国にも大勢おり、始皇帝が、その大物である。

ユダヤ教と融合している道教の道士と、
ユダヤ戦争で逃げてきたキリスト教原理主義
のユダヤ人が融合して、勃発したのが、
太平道教の乱(黄巾の乱)というわけである。

ディアスポラのユダヤ教徒の大部分は、月氏国に
集結した後、段階的に、南朝鮮と出雲に逃げてきて、
最終的には、18000人を、大和王権が受け入れた。

張角は、元から土着していた、同化ユダヤ人の
末裔か、ディアスポラのユダヤ人が、同化して、
道士として土着し、その子供である。

剃れとは別に、第一次ユダヤ戦争の前後に、
班超なる、胡散臭そうな登場人物が、ローマ
帝国の手前まで、アレキサンダー大王並みの
遠征
をしている。

月氏ユダヤに勝利したのち、返す刀で、
中東まで征服しに行ってる。

適当に書いたわけでもないだろう。

匈奴に攻撃されており、異民族戦争
だったとは思うが、ネット記事
くらいしか資料が無いので、不明である。

中央アジアには、トルコ系(高句麗)や
インド系など、ヘブライ人以外にも、多様に
住んでたようだが、調べてないww。

ユダヤ人とユダヤ戦争絡みなのは確か
だが、ここは一旦、置いておく。

次に、倭である。

縄文時代の九州は、長年、縄文人の小部族しか
住んでなかったような場所らしい。

春夏戦国時代あたりから、移民窓口として、
ボチボチと栄だした地域かもしれない。

大陸のユダヤ人は、北九州から、出雲に
移動したと思われるので、当然、ユダヤ人の
集落も、幾つかあった筈である。

窓口ならば、中国人も何人かいた筈である。

つまり、北九州は、漢人、同化ユダヤ人、縄文人
らの、混然とした地域
ではなかったかと想定している。

で、メモの上では、北九州の部族は、漢の頃から、
朝鮮経由で、中華に朝貢している。

どういう部族がしていたのかは不明である。

後漢末期~三国志、西晋末期まで、帝国の末端
として、南朝鮮の一部と、九州の部族が、下っ端
で働いている。

漢と魏が、朝貢国として交流していたのは、
南朝鮮の一部と、九州だけであり、東国の、
出雲、大和、関東の、一大勢力は、最初から
無視している。

無視というより、関東王権~大和王権の方が、
政治的にシカトしていたのだと思う。

そもそも世界の中心、中国様にとっては、
自国以外は、国家としては認めていないwww。

それにより、九州の地方部族=日本全体チック
な、壮大な錯覚が起きていたのである。

倭=日本ではなくて、倭=九州の一部
(地方政権)的な洗脳を受けていたのである。

剃れと、九州、筑紫の部族は、後漢の頃から、単独で朝貢
しており、卑弥呼の頃から交流していた分けではない。

倭王とかいう奴も、漢が、九州の部族を、勝手に
指名していただけで、列島の代表者ではない。

都合よく利用していただけである、
今でいう、民族紛争の火種みたいなww。

東夷伝のおり、実際に来たとすれば、諸葛孔明が
死んで、紛争が一段落したんで、役人が、周辺国を
記録するため、正規の調査、筆記をしただけかもしれない。

剃れと、九州の部族、朝鮮諸部族と交易
していたのは、後漢ではなく、幽州の、公孫氏である。

公孫氏が滅んで、朝鮮と九州の、既得権益を、
魏がぼったくったのである。

辰国王というのは、朝鮮の、
ユダヤ人部族のクビ長である。

恐らく、こいつらも、公孫氏との
交易があった筈である。

とりあえず、魏が強大になって、朝鮮の
情勢が、落ち着いたようである。

謎なのが、卑弥呼がどっから来たのかである。

一般説では、こやつ、良い身分で、大勢の
奴隷を、使役していたようである。

奴隷は、スミ入れをした、土人だった
という話だが、詳しくは不明である。

九州は、縄文文化の末端だから、古代からの
現地人だったかもしれないが、或いは、沖縄か
台湾から来た連中なのかもしれない。

台湾の高山族臭くもあるが、不明である。

田中教授は、タトゥーの縄文人は、九州に
存在していない、
と話している。

で、当方の結論から言うと、実在していたとすると、
卑弥呼(中国名)は、太平道教の信者で、異教徒である。

ユダヤ教か、どっちだか迷ったが、ユダヤ教は
出雲にあり、やはり、キリスト教原理主義の方にした。

こやつは、元から九州に土着していた女ではない。

恐らくだが、九州の勢力は、中国と繋がりのある、
筑紫平野と、関東王朝の蝦夷部族である、熊襲、隼人
で、二大勢力に分かれていた、
と思う。

ウィキには、神功皇后の、熊襲平定の
エピソードで、こう書いている。

~~~~~~~~~~~

3月25日には筑後川下流域の山門県に移動して田油津媛
という女酋を討ちとり、兄の夏羽は戦わずして逃げ出した。

この女、酋田油津姫は邪馬台国女王の末裔とする説もある。

いずれにせよ最後まで抵抗していた九州北部もヤマト王権
の支配下になり、ここにヤマト王権の全国制覇が完了したとされる。

~~~~~~~~~~~~~~

つまり、邪馬台国は、卑弥呼らしいのが
立ち上げた部族ではなく、九州の蝦夷として、
長年、ウロウロしていた集団であるようだ。

魏が、その部族を、勝手に、
邪馬台国と命名したのである。

三韓征伐の前に、平定したと書いてるので、
倭の大乱を平定したのは、卑弥呼ではなく、
神功皇后ということになる。

つまり、こういうタイムラインが出来る。

北九州の最大の勢力は、酋田油津姫(卑弥呼)である。

当方の空想では、こいつはユダヤ人で、
太平道教の信者である。

恐らく、預言や、幻視を見せたり、気象操作で、
諸部族を屈服させたのであろうと思われる。

預言は、太平教の、ユートピア論である。

黄巾の乱鎮圧後は、積極的に、魏の
支配下に入ったのである。

で、魏の配下として、東国と敵対、監視していた
卑弥呼一派は、親魏倭王や鏡100枚などもらい、
一時は羽振りが良かったが、魏が滅んで、司馬炎
が西晋を立ち上げた以降は、魏書から消える。

親魏倭王の件で?、大和王権に睨まれて、
熊襲と一緒に、北九州の部族が平定されるが、
一部は、こっそり、司馬炎の頃まで、続けて
いた奴がいて、それが記録に残ったのである。

または、こうも考えられる。

実際に、魏の使者が来なかったとすれば、
北九州部族の誰かが、朝鮮で、魏の使者と
密会して、情報を提供したのである。

魏の方が、九州か朝鮮部族の主観的な報告で、
騙されてた
、というわけである。

それならば、年代や、情勢や年代的な
矛盾は、正当化される。

三韓征伐は、北九州と熊襲の後に起きる。

ちなみに、田中教授の話では、ヤマトタケルは、
熊襲征伐には行ってないらしい。

四道平定の一環で、関西のどっかで死んでるようだ?

三韓の実情は不明だが、何しろ、三国志
の戦争時代で、高句麗族や、ディアスポラのユダヤ人
らが、入り混じってる、混然とした頃である?

予告編の流れだと、月氏国から来たユダヤ人と、
新羅の同化ユダヤ人、或いは、高句麗族の間で、
大きな争乱が起きて、神功皇后が、新羅に出兵した
ような感じである
、が、詳しくは不明である。

第二次ユダヤ戦争のユダヤ人は、大和王権
が、国内に保護したようである?

以下、ウィキにはこんな感じで書いてるが、半島の
紛争は、黄巾の乱以前から、大和王権が平定した時期
まで、延々と続いているような感じである。

三国志と連動しており、同化ユダヤの事情もある筈だ。

『朝鮮三国史記』新羅本紀

173年 - 倭の女王卑彌乎が新羅に使者を派遣した。

193年 - 倭人が飢えて食を求めて千人も新羅へ渡った。

208年 - 倭軍が新羅を攻め、新羅は伊伐飡の昔利音を派遣して防いだ。

232年 - 倭軍が新羅に侵入し、その王都金城を包囲した。

    新羅王自ら出陣し、倭軍は逃走した。新羅は軽騎兵
    を派遣して追撃、倭兵の死体と捕虜は合わせて千人にも及んだ。

287年 - 倭軍が新羅に攻め入り、一礼部(地名、場所は不明)
    を襲撃して火攻めにした。倭軍は新羅兵千人を捕虜にした。

『朝鮮三国史記』于老列伝

233年 - 倭軍が新羅の東方から攻め入った。新羅の伊飡の
    昔于老が沙道(地名)で倭軍と戦った。

    昔于老は火計をもって倭軍の船を焼いたので
    倭兵は溺れて全滅した。

249年 - 倭国使臣が新羅の舒弗邯の昔于老を殺した。

===============

戦闘しているのは、同化ユダヤの軍隊だと思う。

なお、ウィキには、「いずれの史書も倭国の歴史をふりかえるという
文脈での記述であり、史料としての価値はないwww」
と書いている。

最後に思い切り、漢書、魏書、朝鮮書の、倭国の内容は、
現場のルポルタージュではなくて、回顧録である!

と、断言しており、正確性を否定している。

ということは、やはり、田中教授の話通り、
卑弥呼の話には信憑性が無い、と、一旦は結論つける。

史実は知らん、この程度しか分からん。

で、魏が滅んで、一旦、半島情勢が落ち着くが、
半島の混乱は、その後も続く。

朝鮮戦争後、応神天皇は、新羅の
ユダヤ人を大量に受け入れた。

月氏国と朝鮮に逃げてきた集団は、
ユダヤ教の原理主義者である。

修道院とか、米国のアーミッシュとか、
そういう禁欲的な集団で、乞食みたいな
風体だったかもしれない。

宗教的禁欲を、原始的な土人と勘違いされた
のであるが、実際は、剣士や職人などである。

その通り、こいつらの子孫は、密教僧や
源平の侍に変化したのである。

10支族以降、朝鮮で禁欲生活していた集団、高句麗
の部族として暴れてた集団、出雲まで足を延ばした集団の、
何派かに分かれていたのではないと考えている。

という、今のところの推理だが、これ以上
やると疲れるので、卑弥呼の話題は、ミステリー
のまま、一旦終了する。

♪関羽はユダヤ人である

これも当方の妄想だが、疑問に思って
たので、ついでに書いた。

三国志の登場人物は、どーも、西洋かユダヤの
同化っぽい連中が、何人かいる
、という空想。

自分の中で、当確なのが、医者の華佗である。

ウィキには、イラン系胡人説と書いており、
月支系の、同化ユダヤ人ではないかと推測している。

曹操は、華佗の西洋医学に、脅威を感じて
殺したが、背後にいる、西域の勢力に恐怖を
感じたのではあるまいか?

その他、怪しいのが、関羽である。

出身地は、山西省とかその辺と書いてある
が、劉備以前のプロフは、不明だと思う。

史実的確証は全くないが、関羽の体格や、
性質
など、当方には、ユダヤ人としか思えない。

関羽は、武芸の人物でありながら、どういう分けか、
中国では、商売の神様になっている。

約束を守る人(儒教的に)だから、が理由らしい。

商売や契約といえば、やはりユダヤ人である。

中国人は、関羽がユダヤ人であることを、
知っていたのではないか
、とか、嫌疑して
おるのだが、これも空想にしかすぎない。

儒教の孔子も、田中教授によると、ユダヤ人臭くある。

その他、怪しいのが、馬超、龐徳らの、西涼
グループ、魏延、孫権らの孫氏、超雲
などだが、
全く確証がないww。

何か見つけたら、再度考えてみる。


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