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「お前のは本物じゃない」理論

もうずいぶん前から、仕事や作業をしながら音楽を聴くという習慣は当たり前のものになっている。
その昔は、CDやらパソコンやらの音源から、色々な方法で好きな曲をウォークマンやiPodに移して、勉強の時や自転車に乗っている時(当時はOKだった)など、好きな時に有線イヤホンで聴いていた。今時は、スマホを経由してネット上にある音楽をBluetoothのイヤホンで聴くのが主流なスタイルだろう。

ネット上で視聴できる音楽は、正規のルートで購入して聴く高音質なものもあるが、往々にして、何年も前に誰かが勝手にアップロードした音質があまり良くない曲も動画サイトなどに転がっている。
僕自身、以前は音質の良し悪しなどそれほどわからなかったけれども、イヤホンがだんだん高品質なものに変わっていったためか、最近では低い音の響き具合であったり、それぞれの音の細部の伸びやざらつきの有無などもわかるようになってきた。
なので、10年以上も前の、あまりにも圧縮された音源の曲を聴くと、流石に「ジャリジャリしてるし、ペラペラな音だな」と感じてしまうことはある。

ところで、この世には、品質の良し悪しをもって「お前の見ている/聴いている○○は本物じゃない」などと宣ってくる人間が少なからず存在する。
音楽で言えば、動画サイトで聴く音質の悪い曲はアーティストが本来意図していた楽器の音や質感や迫力になっておらず「まがいもの」であるという理屈である。
なるほど。確かに、せっかく綺麗な音で作った曲を、ザラザラのジャギジャギした音質でリスナーに届けようと思うアーティストはなかなかいないだろう。そういう理屈に立てば、この話はもっともな話にも思えそうだ。

しかし、「本物ではない」と断定してしまう言葉、果たしてそれほどまでに正しいのだろうか。
こういうことは、言うなれば「言ったもん勝ち」である。何が本物で何がまがいものかを勝手に決めている、ということが大前提にある。

音楽の話に戻ると、音質の良いものが正義であるというのであれば、大昔に多くの人々がCDどころかテープやレコードで聴いていた曲は本物だろうか。「アナログの音は深みがある」という言説もよく聞く話ではあるけれど、それは音質の面で言えばノイズや歪みが大量に入り込むような仕組みとなっており、実際にアーティストが意図した音とはCD以上にかけ離れていたはずである。
CD登場以前の人々が聴いていた音楽は本物ではないのだろうか。

この理屈を援用して「ライブで聴く生の音こそが本物」だとか「ロックミュージックは観客が聴く音の調和が計算されていない、クラシック音楽こそが本物」だとか、その気になれば、ありとあらゆることにそれっぽいことは言えてしまう。
だが、結局それは自分が良いと思うものに後から理屈を付けているに過ぎない。
もし「本物」を決めることができるとすれば、それは「送り手が何を伝えたかったのか」をはっきりと認識している時であろう。

例えば、手紙だ。
ある人が友達に手書きで手紙を書いたが、途中で誰かがそれをEメールで送り直したとしよう。送り手が伝えたかった手紙はデジタル変換された味のない文字列に置き換えられてしまった。では、届いたそのメールは本物ではないのだろうか。
手紙の主が相手に「言葉」を伝えたかったのであれば、そのメールは本物である。手書きの手紙には、書き手の文字の特徴や暖かみがあり、メール以上に伝わる情報量は多い。だが、手紙の本質はそこではなく、相手に言葉を届けるということ、その一点なのだ。

なので、たとえ、音質の悪い曲でも、画質の悪い映画でも、出来の悪い翻訳の小説でも、誰かが「こういうことを伝えたい」と願い、その手段として表現をして、受け手がそれを受け取って心を動かされたのなら、それはその瞬間にまぎれもなく本物であったと言えるはずなのである。


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