本の優先順位(15日目)

仲良くしてもらっている書店の方が、「本を文芸として捉えてる書店員と、カルチャーの一部として捉えてる書店員がいて、両者けっこうキャラが違うんですよね」と言っていた。
前者は理想やポリシーがしっかりある頑固な人が多くて、後者はわりとなんでもありな印象が強いらしい。

それは「自分の関心の中で、本をどのあたりの高さに置くか」という違いだろう。
本をいちばん上に置いている人と、雑貨や競馬や映画や酒やその他諸々といっしょに並べている人。

自分はそのふたりの中間あたりでゴロゴロしている。
本というものが自分の人生、精神、空間のうちかなりの割合を食っているのはどう考えても疑いようがない。
でも平気で1ヶ月くらい何も読まないときがあったりする。
むしろ一切本を読みたくないときもあったりする。
下手すると本を読むより買う方が好きなんじゃないかと半ば本気で思う。

そうやって何も読まないとき、読書の波がはるか遠くに流れ去っているときに何をしているかというと、たいてい別の波がきている。
ひたすら映画を観たい、ひたすら音楽を聴きたい、ひたすら漫画を読みたい、ひたすら野球を観たい、ひたすら自転車に乗りたい、ひたすら外食をしたい、ひたすらゲームをしたい、ひたすら服を買いたい。
自分の中に、打順のようにばらばらの興味の波が並んでいて、ひとつが去ったらまた次という具合にかわるがわる熱狂が沸いては冷める。
(その合間合間に、ひたすら寝たいという凪が挟まれてもいる。)

かといって、本が他のものと同じ高さに並んでいるかというと、どうにもそういう気がしない。
明らかにひとつだけ、精神の優先順位の、ちょっと高い場所に置かれている。

冒頭の分け方でいうと、自分はもともと完全に後者の側だろう。
そこから中間へたらたらと歩いている。
あいかわらず雑な付き合いをしてはいるものの、本を「ほんとうに必要とし」始めている感覚がある。

自分の精神に「ほんとうに必要なもの」として本を読むようになったのはいつだろう。
大学生のころだろうか。
ひょっとするとここ数年、ごく最近かもしれない。
とつらつら考えていたらふと、はっきり、答えがわかった。
ものを書き始めたときからだ。

それまでは、「たぶん必要だろうから読んでおかないと」という予感と義務感がそれなりにあったと思う。
まあその予感は大いに当たっていたわけだが、本は読まねばならぬもの、という意識は常にあった。
喉が渇いていなくても水分補給は必要だ。

でも、自分で書くようになってから、少しずつ、でも明らかに、本に、というか言葉に渇きはじめている。
書くことっていうのは、言葉という普遍的な道具を使って常に失敗し続ける永遠の挫折のようなもので、何かが足りないというもどかしさを呼び覚ますにはうってつけだ。
そのかすかな渇きが、本を少し特別なところに押し上げているらしい。

でもなんか、完全にそっち側行くのもつまんないなー、と怠惰な自分がぼやいている。
純粋になりたくないし余計なものをいっぱい持っていたいなあ、と思う。
本に対して、必要なものだからってあんましいい気になんなよ、みたいな気持ちが少しある。

自分が本能的に求めているのは、このくらいの適当な、無駄のあるバランスらしい。
正常化バイアスみたいにも思えるが、切実さだけでは生きていけない気もする。
ほら、俗に小太りの方が長生きするっていいますし。

ちなみに冒頭の書店の方も中間あたりの人だそうだ。
その書店の棚の間は、とても居心地がいい。

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