リア充なのにルサンチマン(10日目)

先日観に行った湯浅政明監督『きみと、波にのれたら』が、正直とても合わなくってがっかりしていたのだが、その後タイムラインでいろんな方の感想を見ると、自分の目がルサンチマンで曇っていたのだろうかと思えてきてなかなか辛い。
リア充爆発しろの精神が爆発して、この映画の美点をまるっと見逃していたのだろうか、と思ってしまう。

あ、今回、この映画のネタバレをしますので、その点ご留意の上でお読みください。

いや、この映画が単なるリア充恋愛映画じゃないことはわかるんですよ。

前半の過剰なくらいのラブラブぶりは、港が死んだ後のひな子が一生亡霊と暮らすのでいいやと牡丹灯籠状態となるどん底へのフジヤマばりの助走なわけで、だからこそそこから港の思いを知り自分のやりたいことを見定める回復、クライマックスの港との別れ(ここで洋子も初めて泣くわけで、これはひな子だけでなく全員との別れでもある)、という流れがより強いドラマになるってのはわかる。

その上で、そこを乗り越えて新たな人生を踏み出そう、というところに港からの過去のメッセージが届いて、喪失は喪失としてずっと背負ったまま生きていかないといけないのだと、否応なく実感させられるビターなラストを見れば、この作品が単なる企画もの恋愛ドラマとして着地しようだなんてつもりがサラサラないこともよくわかる。

作画も、今思えばオムライスのとろけ方とか、水のゆらぎとか、すごかった気もする(でもこれはベクトルとしては、現実から逸脱しててすごい、ではなくて、現実ばりの精度で偽物たる絵が動いててすごい、に近い気がして、映像音痴の自分にはあまりピンとこなかった。味覚が鈍い自分には素材の味より化学調味料の方が美味く感じてしまう)。

でも。
でもさーーー。
いくらなんでもさーーー。
前半のさーーー、港とひな子がクスクス笑いあいながら主題歌歌うとこのシークエンスはさーーーーー、やっぱないよなあああーーーーー。
あれはおれのルサンチマンを爆発させるにはあまりに過剰火力だったんだよーーーーーーー。
はああああーーーーーーーー。

ふう。
で、そもそも、なんでおれは未だにこんなにルサンチマンを抱えているんだろう?
結婚して子供もいる。大変なことも多いがなんだかんだ楽しく家庭に暮らしている。
多少友達もいる。昔からの人も、最近仲良くしてくれる人も。
仕事は色々ろくでもないことだらけだが、根本的には向いてる仕事をしている実感はあるし、生活にも現状事足りている。
時間は足りなくなる一方だが、好きな本や音楽や映画にある程度囲まれながら生きている。

あのさ、伊藤くん。
外から見たら、それ、リア充じゃん。
ルサンチマンの源泉となる弱さを失っているはずなのに、なんで未だにそれを武器として後生大事に抱えているわけ?

と、自分からのツッコミを受けて考えてみたけど、こういうルサンチマンって「現在」は関係ないのかもしれない。
抱えこんだ「当時」のルサンチマンは、久しぶりに引っ張り出しても未だにやたらと新鮮だ。
恋愛で溜めこんだそれは、結婚によって解消されるのかと思っていたが、「今は今、昔は昔」と言いたげにしゃしゃり出てくる。

これが創作の材料とか燃料になるんならまだ生かしといてやるのだが、目を曇らせるならいい加減成仏させてしまいたい。

今三島由紀夫スポーツ論集読んでる(めっちゃ面白い)んだけど、いっそのことおれも三島ばりにボディービルやるべきなんじゃないかとか思い始めている。

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