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二度と消せない光(57日目)

東京ステーションギャラリーでやってるメスキータ展最終日に滑り込んできた。
正直に言うと作品自体にはそこまでピンとこなかったのだけど、展示作品の大半を占める木版画を見ていると色々と思うところがあった。

木版画は作業が進む段階ごとに試し刷りをして、木版をさらに削って直し、また試し刷りをする、という工程を経るそうだ。
今回の展示では、その最初の試し刷りからどのように図像が変化していったのか、段階を追って展示されている作品がいくつかあった。
例えば、最初は背景が真っ暗で、人物の肌も荒く彫られて筋繊維が剥き出しのような線で凹凸が表現されているが、刷りが進むごとに新たな人物が加わったり、肌が完全に削り切られて真っ白になっていたり、背景の線数が少しずつ細かくなって画面が明るくなっていったりする。

木版の元となったスケッチと、実際に刷られたものが並んでいる作品もあったが、何気ない素朴な素描が、ひとたび彫られ、刷られると、暗い水面から不意に顔面が浮き上がってきたような、無骨で奇妙な迫力を備えるようになる。
木版画をまとめて見る機会はこれまであまりなかったのだけど、この表現形式にはやっぱり独特の意匠がある。

たいていの絵は白い画面をいかに線や色で区切り、塗るかで表現されるものが多い。
でも木版画は真っ暗闇から始まる。
そこに、光が少しずつ生々しい線として刻まれ、暗闇から徐々に彫られるべき何かが姿を現してくる。
しかも、その光は一度彫り込んだら二度と消せない。基本的には。
木版画を作る作業は、永遠に後戻りのできない明るい場所に向けて、じりじりと歩き続ける作業なのだろうか。
埋もれていた神聖な遺物を発掘して、こびりついた土を取り除いていくような、世界のあるべき姿に対する敬虔な情熱めいたものを感じる。(光あれ、という言葉と、この印象は無関係ではない気がするがどうだろう)

アウシュヴィッツに消えた知られざる芸術家であり、弟子であったエッシャーらがその作品を救い出して再評価への道筋を残した、というドラマの方が前面に出てくることがこの展示にとって良かったことなのかどうかはなんとも判断がつかない。
自分が版画から受け取った迫力は作品の力ゆえのものなのか、それとも表現形式の特異性によるものなのかも、はっきりと頭の中で割り切れてはいない。
でも観に行って得るものは大いにあったと思う。

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