カーペの世界(37日目)

昨晩、アルコールと満腹感でふらふらになりつつ家路を急いでいたら、後ろから「カァーーーッ、ペッ!」という盛大な痰吐きの音が聞こえ、振り返ったら声の主はおっさんではなく、おれより年下かなってくらいのワイシャツ姿のイケメンだった。

人はいつ「カァーーーッ、ペッ」を身につけるんだろうか。
おれは未だにこの「カァーーーッ、ペッ」ができない。
そもそもやろうと思ったこともないが、これはやろうと思ったらできるようになるものなんだろうか。
それともあのイケメンに、そのやり方を受け継いだ師匠が存在するのだろうか。

そういえば高校時代の友人でもやたらと道に痰を吐くやつがいた。
カーペカーペとよくそんなに吐くものがあるもんだと思った記憶がある。
おっさんになったら自動的にできるようになるというのでもないらしく、人によっては高校生からあれができるわけだ。
あれのやり方というか、それによって発される音声が、老いも若いもみーんなおんなじなのがまた不思議なところだ。
カァーーーッペッ養成所でもあるのんか。

まごうかたなきおっさんとなった今、自分にもあれができるだろうか。できてしまうんだろうか。
試しにやってみた。
水なしでうがいをやるような感覚でいけそうな気配がある。
カァーーーッの、「カ」は一番低い音で喉の奥からスタート、「ァ」から一気に喉を口まで駆け上がり、「ッ」で引っかかったものを口元へ解き放ち、ペッとペする。

ような感じっぽいんだが、どうにもうまくいかない。
というより踏ん切りがつかない。
本当はできるかもしれないのに、体が実行するのを本能的に拒否している。

あちらにいってしまっていいのかい。
カーペの世界へ入ってしまうのかい。

おれの中の、良識だか自意識だかを司る何かがそっと語りかけてくる。
そうねえ。
行きたいかというとあんまし行きたくはないね。
おれは答える。

まだおれはいろんなことがどうでもよくないんだと思う。
いつかだいたいのことがどうでもよくなったときに、もうあっち行っちゃっていいかなと思ったときに、きっとカァーーーッペッとなんのためらいもなく道に痰を吐き捨てるんだろう。
でもそれはもうちょっと、心が老けてからの話だ。
老けたくないなあ。

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