文体を鍛える(34日目)

自分の文体をどうやったら獲得できるのか、としばしば考えていたのだが、この問いはそもそも設定からして間違っているようだとわかってきた。
どうやら文体とは「獲得」するものではないらしい。

言葉は、自分の身体や精神の中を、血液のように音も立てずに流れている。
その人それぞれ固有の管を通って、口や指や、時には他の器官、はたまた全身から放出されていく。

かといって、言葉はそのままでは文体にならない。
言葉はどうしたら文体となりうるのだろう?

そもそも文体とはなんなんだと考えると、そこには文字の連なりとなった時にしか生まれえない何か、が含まれていると気づく。
言葉が文字に落としこまれる時、言葉は初めて揺るがしえない形を得て、その代わりに形にならなかった部分を失う。
形而上で混沌としていたものが、存在と不在にはっきり分けられる。
文体はその分離が起こってからでないと醸し出されないようだ。
じゃあ存在と不在のどちらに属するものだろう?

わずかな存在の中に、膨大な不在を凝縮したり、巨大な不在の影を察知させるのが、文学的に優れた文章なのだと思うけども、自分にはどうにも、文体がそういった不在の中にあるものだとは思えない。
文体は、圧倒的に、文字の連なりそのもの、存在の側にあるものじゃないかと感じる。
テーマだとか思考ではなく、スタイルや快楽に属するもの。

快楽の原則は、それまで生きてきた自分の中に埋もれているものじゃないだろうか。
すでに身体に刻まれている固有の術式(『呪術廻戦』超面白いですよね)。
それは獲得するというより、発見して、鍛え上げるものだ。
文体というのは、自分自身の快感原則を見つけ出し、それを最高の感度で刺激するよう言葉を配置していく技術のことなのではないか、とひとまず自分の中で定義してみる。

でもそれの見つけかた、鍛えかたはきっと、単純だけに難しい。
見つけるにはひたすら感度を尖らせながら読み、鍛えるにはひたすら感度を尖らせながら書いて直すしか、おそらく道はない。

ところでせっかくここで毎日書いているのだから、これを通して鍛えられていると言いたいところなんだが、正直全く文体のトレーニングにはなっていないと感じる。
無造作に垂れ流せる文章と、己の快感原則に忠実な文章はまた異なる、ということを実感できただけでも、毎日駄文をまき散らした価値は大いにあるのだけど。

それにここではたいてい「何を書くか」考えて文章を書いており、「見た世界をどう書くか」に属する文章はまだほとんど書いていないわけだが、文体を鍛えるなら後者の文章を書くのが得策だろう。
いずれ突然やりだすかもしれません。

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