「身体性」ってなんだろう①(23日目)

文章を評する時に、「身体性」って言葉が出てくることがしばしばある。
自分も使ったことがある。
でも最近よく、そもそも「身体性ってなんだろう」と思う。

どういう文章から身体性を感じるんだろうか。
逆に、身体性を感じない文章はすぐにいくつか思い浮かぶ。
例えば家電の説明書。
例えば新聞記事。
これらの、情報伝達を第一の目的として徹底的に合理化された文章から身体性を感じることはまれだ。
少なくとも説明的な文章である時点で、身体性は損なわれてしまうようだ。

書かれた文章ではなく、語られた言葉を文字にしたものには、なんとなく身体性を感じそうな気がするのだが、よくよく考えると案外そうでもない。
インタビュー記事に身体性を感じるだろうか?
インタビュイーのしゃべり方の特徴、キャラや価値観やらは伝わってくるし、上手いインタビュアーの原稿だと実際にその人がしゃべっている姿、身振り手振りが浮かんでくるようなものある。
でも、それが身体性と結びついているかというと、どうにも違う。
その文章は「活き活きとしている」が、わざわざ「身体性」なんて言葉においでいただく必要はない。
しゃべる、というのは身体を発話のための装置として使い実際に空気を震わせる行為なのだから、身体的なのは当たり前ではあるが、それはインタビュイーは肉体を持っていますと言ってるのと同じといえば同じなわけで、文章自体に身体性が感じられるかとはまた別の話だ。
誰かの口から実際に発話された言葉を文字起こしした文章は、言ってみれば発話された言葉のコピー、二次的な言葉であるが、なんでコピーされると身体性が失われてしまいがちなんだろうか。

じゃあ、落語など話芸の文字化はどうだろう?
いま手元に、三遊亭円朝『怪談牡丹灯籠』(岩波文庫)がある(未読だけど)。
これは三遊亭円朝の口演を速記した本が元になっているが、さっと目を通すだけでも、ある意味身体性の塊のような言葉だと感じてしまう。
発話されたものを書き起こした二次的な言葉だとしてもそう感じるのはなんでだろう。
元の言葉が物語として強固に自立していると、発話された時点で備わる身体性が失われずに済むんだろうか。

自分の記憶に新しいものだと、滝口悠生の文章からは身体性を感じる。
とくに『愛と人生』、『死んでいない者』の時空間や視点人物の垣根を軽やかに超えるスポンテニアスな語りに。
『愛と人生』は寅さんがテーマなだけあって、よりテキ屋の口上めいたリズムを感じる箇所がいくつもあるけども、彼の文章は、整った話芸のリズムに、とめどなく流れる思考の脈絡のなさがぶつかって、その結果時空間の広がりと強い身体性という、なんだか一見矛盾していそうな印象を醸し出す。
これはいったいどういう化学反応なんだろう。

これは身体性っていう時の「身体」ってそもそも誰の身体なのか、ということに関係しそうだ。
キモはたぶん、身体性を感じる文章の身体の持ち主は、語り手とか筆者じゃない可能性がある、ってことだ。
作品の備える時空間や記憶に関係があるような予感もする。

のだけど、これ寝る前にババっと書いて結論出せるようなテーマじゃないですね。
また後日改めて続きを考えてみたい。

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