ひいきでないチームの試合を見ること(4日目)

ひいきチームの破滅的にしょっぱい試合をまんじりともせずに見つめながら、「なぜおれは好きでやってるはずの趣味でわざわざこんなみじめな思いをしているんだろう」という、悟っていない修行僧のような心境に陥ることは、スポーツファンなら誰しもが覚えがあると思う。

そのくせ、「そんなにイライラするくらいなら見なけりゃいいのに」という家族からのごもっともすぎるツッコミを背に受けながら、「この苦境を見届けてこそファンといえるのではないか」と余計に意地を張ったりする。

少なくとも以上のことは、4/10夜に野球中継を最後まで見ていた広島カープのファンには共感していただけると信じている。

その点、たまにひいきチームのではない試合を観に行くのはいい。
順位争いがあるとはいえ、まだすべてが流動的なシーズン中盤までに行くのが格別だ。

極端に言えば、純粋にそのスポーツそのものへの応援ができる。
親戚の子が出てる小学校の運動会を見ているかのように、「赤がんばれ、白がんばれ」と心置きなく喝采できるだなんて素晴らしいことじゃないか。
しかもいくらよそ見していても大丈夫だ。
スタジアムのコンコースでアイスぺろぺろなめながら、ワッと沸き上がる歓声を聞いて「あ、いま誰か打ったんだな」とその祝祭的な空間の上澄みだけを味わったりもできる。

今日は棚ぼたで転がってきたチケットで、東京ドームの巨人対ソフトバンクを見てきた。
3塁側の2階席、すべてが見渡しやすくすべてが遠い。
千賀のストレートのバグじみた速さだとか、阿部の勝負強いバッティングと足の遅さだとか、古巣相手に出てきて4球でじつに鮮やかに満塁弾を打たれた森福の物言わぬ背中だとかを、ちびちびビールをすすりつつ文字通り高みの見物する。

数時間ずっと上の空だ。
何もかもが明滅する小さな点になる。
数万人の取り囲むだだっ広いコロッセオみたいな窪地に、十数人がぱらぱらと立ちつくしている。
そのうちの1人がおにぎりみたいな大きさの物体をわけのわからん速さで投げつけて、別の1人がそれを叩こうと木の棒を振り回す。
芝生の上を転がるおにぎり。それを追いかける屈強な男たち。
隣の席では金のかかった身なりのおじさんと、どう見ても同伴出勤と思しき女性が、ほぼ無言で試合を見ている。その沈黙がもはやどこか所帯じみた時間の蓄積を感じさせる。

いま自分は純粋に野球そのものを見ているのだという感慨と、いま自分は野球から疎外されているのではないかという疑念が同時に湧いてくる。
ドーナツを食べてるときに、いま食べているのはドーナツなのか、それともドーナツの穴なのか考えてしまう感じに近い。

猛打賞の丸が三振に倒れ、8-3でソフトバンクが勝った。
座り続けてしびれた尻を上げて、速報アプリを見る。

カープが9回に小園のエラーから逆転2ランを打たれて敗北している。

その瞬間、野球というドーナツの穴がみるみるうちに埋まっていくのを感じる。
野球の中にずぶずぶと入りこみ、野球が見えなくなっていく。

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