ロックンロール・コンプレックス(50日目)

ルシア・ベルリン『掃除婦のための手引き書』を読み終え、チャールズ・ブコウスキー『勝手に生きろ!』を読み始める。表面的な共通点は、アメリカ大陸を移動していること、酒浸りなことだろうか。
ルシア・ベルリンは比類ない膂力(それはすなわち観察眼と切実な描写と一抹のユーモアである)で読者を作品の視界に引きずりこむ、強烈な短編集だった。
ブコウスキーはだいぶユルく、ダメ人間(と読者に思わせて笑われるように書いている)で、でもチラチラとその裏にある種の真面目さが垣間見える。
2冊とも面白い。
しかし読んでいて、どこか悔しくなるのはなぜだろう。

昔、みうらじゅんが漫画で、「生まれた家がまともな中流家庭だから自分はロックンローラーになれない」と悩む場面を描いていて、それにいたく共感した覚えがある。
以来それをロックンロール・コンプレックスと勝手に呼んでいる。

アル中の家族に囲まれ自身もアル中で苦しみつつ、3度の結婚と多数の職業を経て4人の子供を育てたルシア・ベルリン。酒とセックスとギャンブルと放浪の日々を過ごしたブコウスキー。
生身で世界と対峙せざるを得なかった、そうとしか生きられなかった人たち。
その波乱万丈の人生は、小説にするにはあまりにうってつけの、嘘がないものに見えてしまう。

それと比べると、自分はいかに守られて平穏に生きてきたかと思う。
虐待されることなどもない、経済的に不安もなくある程度の文化資本のある家で育ち、きちんとした教育を受けて就職にこぎつけた。
おかげでとりあえず現時点では食うにも困らず暮らせているが、この歳になり家庭を持つと、月並みだが子供をそこまで育てて将来に繋げることがいかに大変で、ありがたいことだったかよくわかる。
ただ、そうやってしっかりと守られてきた自分の人生を、生に近い形で小説の題材とする気にはまだどうしてもなれない。

自分が触れてきた芸術には、弱者の抵抗のために生まれたものもあれば、権力者の庇護によって生まれたものもある。
作者の来歴がその価値を決定するのではなくて、創作物の美しさや問いの強度がそれを左右するとわかってはいる。
それにもちろん、作者の人生と作品は、どんなに似通っていても異なるものである、ということは自覚しているつもりではある。
ただ、恵まれてきたことへのコンプレックスめいたものがずっと心のどこかに根ざしていて、どこか後ろめたさを反射的に感じてしまう。

別に自分のそんな人生が嘘にまみれたものだとはまったく思わない。
ただ、何かから目を逸らしている感覚はある。

じゃあなんで小説なんて書こうと思ったんですか。

それは、書かないと死ぬなあ、と思ったことがあったからなんだけども。
もちろん人並みにいろんな絶望が自分を襲ったことはあるわけだが、自分なりの切実な思いの在り処が、どうにも実人生とは少し別のところにありはするらしい。

つまるところ、まだ自分は自分の作るべきものを確と見定めきれていないらしい。
嘘のない作品を作るためには、まだ色々と洞察が足りないのだと思う。
随分と恥ずかしい話をしたが、まあ、このくらいの恥ずかしさに耐えられなかったらそもそも先に進むのは無理な話ではある。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?