ぼくは覚えていない(3日目)

ジョー・ブレイナードという美術家が書いた、『ぼくは覚えている』という本がある。白水社のエクス・リブリスから翻訳が出ている。
ちょっと変わった本だ。
何しろすべての文章が、「ぼくは覚えている。」という言葉で始まる。200ページ以上、一冊分まるまるすべて、一切の例外なく。
ブレイナードはその一言を鍵にして、記憶の詰まった小箱を開き、自分の通り過ぎていった瞬間の断片を語る。
昔好きだった人の体を思い浮かべたことだとか、母につけてもらった髪留めのことだとか。
それらの記憶どうしの間には、はっきりと強い因果の糸はわたされていない。
ただ小さな光を照り返す断片として、淡々と並べられる。
その、ぽつぽつ置かれた記憶が、点描のようにブレイナードの姿を描き出していく。
ように思える。
そのように思いたいのかもしれない。

ぼくは覚えていない。
びっくりするくらいいろんなことを覚えていない。
もちろんところどころ、断片的な記憶はある。でも、それ以外の、絵画の下塗りのような、当時の日々の暮らしのことがまったく思い出せない。
母の得意料理がなんだったか、放課後通っていた塾にどうやって行っていたか、飼っていた犬の触り心地はどんなだったか、初めて付き合った女の子となんの話をしていたのか。
自分史の年表に現れるような出来事のすきまを満たしている物事はほとんど、夜の海に沈んでいるように見通せない。
あのとき自分はどうやって暮らしていたんだろう。
なんだか自信がなくなってくる。かつての自分と今の自分は、ほんとうにきちんと、連なっているんだろうか。

そんな不安が首をもたげたときによく、ブレイナードの本のことを思い出す。

彼はほんとうに、「覚えていた」んだろうか。
覚えていると自分に思い込ませて、新しく自分を語り直したんじゃないだろうか。

むしろ、そうであってほしいと思う。
記憶はたぶん物語なのだ。
物語のほかに、誰がそういう歪みを受け入れてくれるのだろう。

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