見出し画像

「かわたれの灯り」

「うさぎのうしろ姿が、お祖母ちゃんと、お母さんに見えたの。
なんだか、ふたりとも、ほんわかたのしそうにしてるなぁ、って思ったら嬉しくて…」
結婚したばかりのきいちゃんが、ニコニコしながら朝子さんに贈ってくれたのは、つりがね型のガラスのランプでした。

起伏の穏やかな雪原に、大きなけやきが立っています。
長い吹雪がやっとやんだので、うさぎの家族が巣穴からでてきました。
2羽の白いうさぎが仲睦まじくよりそって、夜明けの空を眺めています。
三日月と星々のまにまに、銀色の雲がたなびいています。
深い藍色の夜を、バラ色と朱色の光が刻一刻と押し上げていきます。
新しい朝の始まりです。

静かで満ち足りた冬景色を描いた美しいランプ。
じっと見つめていると、灯りの奥から、幻のように、映像が浮かびあがってきました。
67歳のまま年を取らないきよさんと、今年で60歳になった朝子さん母娘の姿が…。

夜明け前のかわたれどき。
ふたりは、時空を超えて巡り会いました。
関東平野の土手にこしかけて、ゆるやかに蛇行する荒川の流れを眺めています。
遠くには秩父連峰が。
近くには苺のビニールハウスがぼんやりと見えています。

「おかあさん。もう、寒くない? 」

「ああ、あったかいよ。それに、ここには、トオチャンも、ヨシエもいるから、ちっともさびしかないよ。
アサちゃんは? たっしゃでいるかい? 」

久しぶりに聞く懐かしい母の声。
会いたかった! 
ずっと会いたかったよ!
すぐにも消えてしまいそうな予感がして、気が急いてしまった朝子さんは、

「ねぇ。聞いてもいいかな? おかあさんがひとりで死んでしまった本当のわけを…」
いちばん知りたかったことを、いきなり問いかけてしまいました。

母は、表情を曇らせ、肩をすぼめてうつむいていましたが、やがて、胸の内をのぞきこむように、ポツリポツリと語り始めました。

「それがな。カアチャンにもよくわからねんだ。いつものように苺の収穫をしようと野良着に着替えて、夜明け前に、自転車で家を出たところまでは覚えてるよ

前の晩は餅つきの準備で忙しかった。あんこを鍋いっぱいこしらえて。トオチャンと餅米を研いで、な。辛み大根も掘ってきた

明日はアサちゃんの誕生日だな、ってヨシエとも話したんだよ。
男の子を産んでたらなぁって。
トオチャンを喜ばせてやれたんだがなぁって。
まったく、ラチのねえことばっかりだんべよォ」

母の話しぶりは、いつものように主語なく、とりとめなく、飛躍していきます。ぐちをこぼしてみたり、それを笑ってみせたり。
つかみそこねた笑いを追うように左腕をあげると、母はそのまま、手のひらで右の肩をさすりました。

「右の肩がずっと痛くてなぁ。
食べられねえし、眠れねえから、いろんな薬を飲んだよ。

外にでたら、のっぺりした薄暗闇でなぁ。
月もない。星明りもない。鳥も鳴いてない。
ひとっこひとりいなかった。
いまはいつで、ここはどこなのか。じぶんはだれなのか。
タマシイが抜けたみていに、ふわふわ、おぼつかないようになってなョ
精(セイ)も根(コン)も尽きるって言うだんべ? 
あれだったんだなぁ、あのときのカアチャンは…。

うっかり、荒川に呼ばれちゃったんだ…」


「ああ、そうだったのか…」
朝子さんは深く頷きながら、母の心の奥へさらに一歩踏み込みました。

「そうなんだね。呼ばれて、いってしまったんだね。そういうことがあるって、わかる。
でも、その時、おかあさんを引き止めてくれるものはなかったの? 
だれも? なにも? 」

母は責められていると感じたのか、眉間に深いシワを寄せて黙りこんでしまいました。

ことばを重ねるのが辛くなって、朝子さんは、母の手をそっと両手で包みました。
「ああ、この手! こどもの頃からいつも思ってた…。おかあさんの手はすりこぎのようだなって。
使いこんで小さな傷がいっぱいついて。黒ずんでいるけど清潔で。ごつごつしているのに温かくて。
すりこぎのようなその手から、おいしいものをいっぱい作ってくれたね。
うんまいからくってみやっせ、って惜しみなくごちそうしてくれた。
おかあさんの手! 」

朝子さんは、母の指を閉じたり開いたりしながら回想しました。
一雄父さんが、母を発見した雪の午後のことを…。

いつもより雪の多い寒い冬だったことが幸いしてか、なきがらに傷はありませんでした。ロウ人形のような、凍えきった母の姿を思い出すたびに、朝子さんは、深くて暗い落とし穴に落ちていくような気もちになります。心に開いた大きな空洞は、なかなか埋めることができません。

「あの日、この手は、水底の砂か、テトラポットの苔か、黒くて臭いヘドロを固く握りしめていたね…。
そんなもの、ふさわしくなかったよ、おかあさん。
あなたの手には、赤く光る美しい苺こそが似合うのに…! 」

 せつない記憶を追い払うように、朝子さんはブルッと頭を振りました。
母の温かい手首を持ちあげて、朝子さんの頬をはさむようにしました。
そして母の手の甲に自分の手のひらを重ねました。

「アサちゃんの手はあったかいねぇ…」

そう言って母が遠い目をした、その瞬間。
暁の闇に、一筋の、あけぼのの光が差し込んできました。朝焼けが、ふたりを朱色に染めていきます。天高くひばりがさえずりはじめました。
かわたれどきが、終わりを告げようとしているのでしょう。

朝子さんは少し口調を早めて聞きました。
「おとうさんと生きて、しあわせだった?
理不尽なことも多かったでしょ? 」

「そうさなぁ」
母は、眩しそうに目を細めて、昔語りを始めます。

「トオチャンは昭和4年の生まれでな。
『便所のウジ虫から縁の下のクモの巣までカズがもンだ(一雄のものだ)』と言われて育ったんだと。

長男だからな、家を継ぐ責任があった。少しでも豊かになって、家族に教育を受けさせ、自立させるために、若い時からそりゃあ苦労したんだよ。死に物狂いで働いた。

『百姓はいくつになっても、ちょっとでも、農地を広げたいと思うもンだ』って、いうのが、トオチャンの口癖でなぁ。まわりが困るほどの働き者だよ」
じぶんのことのように誇らしそうに、母は胸を張ります。

朝子さんは、父から聞いたふたりの結婚のなれそめを、思い出しました。

「俺が二十歳のとき、仲人さんから、
『きよちゃんはたいして器量良しじゃあねぇが、丈夫で気立てがいい娘だよ。一日に何十枚もむしろを織る、働き者なんだってよ』 
そう強くすすめられて、いっぺんも会わずに結婚したんだ。

長女のヨシエが生まれて、自慢のむしろ織りもたいしてはかどらなくなった。
『うわさほどのことはねえな』ってカアチャンをからかってやったんだ。
すると『乳飲み子がいて、おおじゅうと、こじゅうとの世話をして、百姓仕事もして。どうやって娘っ子の時とおんなじにやれるっつぅんだいっ! 』って、カアチャン、泣いて怒ったっけなぁ」

そんな、若夫婦のほほえましいエピソードに、母も思い出し笑いをして、「そうだよ。今じゃみんなに笑われるけど、昔の百姓はそんなもんさ。
働き手を増やすための結婚だよ。働けなくなったらオシマイだ。

だけどな、アサちゃん。
おらちのトオチャンは、口は悪いけど、根は優しいひとだ。
かならずカアチャンの味方になってくれた。
だから、トオチャンを頼りに踏ん張れたんだよ。
『がんばっていればいい日がくるから』ってじぶんに言い聞かせて、な。
よいじゃあなかった。
らくはできなかったが…
じつにいい日もあったんだよ」

澄んだ目をして、母はそう言いました。

「うん。私もそう思う。だって…」
朝子さんには、どうしても、ひとつだけ、母に伝えたいことがありました。今まで誰にも言わなかったことです。
「…おとうさんが、私にこう言ったの。おかあさんの匂いが残る空っぽの布団を見ながら。

『俺が抱いてやればよかったんだ』って。

『体が冷えて痛むようだから、カアチャンに電気毛布を買ってきてやろうと町へでかけたんだ。いなくなる前の日にな。
あいにく、ほかの用事ができて、買えなかった。
カアチャンはひとことも文句を言わなかった。だけど…。
明け方は冷え込んだから、寒かったろうな。
電気毛布の代わりに、俺が抱いてやればよかったんだ』

無口で生真面目で、少しおっかないおとうさんしか、いつも見てこなかったから。おかあさんへの思いのこもったことばを聞いて、私は本当に、本当に驚いてしまったの。
ね! 最高の告白だと思わない? 」

刻々と光量を増していく太陽に照らされて、大地からモヤが立ちのぼっています。
やわらかなほほえみを浮かべる母の顔は、いつのまにかまっ白いモヤに包まれて…。
やがて淡くほどけながら消えていきました。

母の座っていた場所からは、完熟苺の甘酸っぱい香りが、ほのかに漂っているのでした。

ランプの灯りがかすかに揺らめきました。
ガラスの中の白いうさぎたちは、静かによりそって東の空を眺めています。明けの明星が、きらめき揺れつつ、ちいさなうさぎたちを見守っています。

「童話の雑誌 くろひめ 第29号」に掲載
(2019年9月 黒姫童話会発行) 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?