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きづな [あなたが生まれたころのおはなし]

きづな [あなたが生まれたころのおはなし]


1991年(平成3年)12月21日(土)

 夜中痛みで目が覚める。ググーと固く張って、ビビッと腰に響くこの感じは、陣痛?

3時、3時半、4時、朝には入院かと、よく眠れないまま6時を待って、入院の準備と子どもたちを実家に預けるための準備をすます。でも間隔が長いし痛みも軽い。

 薫を幼稚園に送り出す。今日は2学期の卒業式で半日。圭と、近くのケーキやさんへ、時々立ちどまりながらの買物をして、昼食にはみんなそろって圭の誕生日のお祝いをする。

3才おめでとう圭。どんな一年になるのかな。おととい幼稚園入園のための健康診断を受けに行って、新しい通園バックをいただいたばかり。もっとも圭は、バックよりおみやげのお菓子の方をよろこんでいたけどね。一週間前は、薫の生活発表会があった。新潟からおばあちゃんも見に来てくれて、早々とクリスマスプレゼントと、3才と6才の誕生日プレゼントもいただいて・・・。このところ二人のいい笑顔がいっぱい見られたなぁ。思い残すこともなく出産にのぞめそう。折しも今夜は満月。これは絶好のチャンス!


 午後3時ごろから30分~15分おきになり、10分おきになるのを待ちながら、夕食、後片付け。実家にこどもたちを預けに行くのがあまり遅くなっても困るので、6時、夫の運転で私は産院へ。入り口で、こどもたちを見送った。

圭「おかあさん、ジャーってあかちゃんうむの?」
「けい おかあさんいなくても だいじょうぶだよ」


 6時半、内診。子宮口3cm開。夜勤の看護婦さんは、圭を産んだ時お世話になった七里産婦人科の婦長さんを思い出させる感じの人。和室の一人部屋。薫と圭の気配のない病室の静かなこと。

 7時半、平野先生が来て、「入院したからには、早く進んだ方がいいでしょう」と陣痛促進剤の指示。

 8時と9時、小さな薬を飲むと、だんだんと陣痛がしっかり、きっちりやってくるようになる。

 9時半、痛みと同時に“プチ”という音がして破水。6cm。5分おきに波。6cmじゃあまだですよね、分娩台にあがって長く待つよりは病室の方が楽ですよね・・・などと看護婦さんと話して、また一人になったとたん、2~3分おきの強い痛み。思わずいきんでしまう。次はヒ・ヒ・フーでいきみをのがす。でもその次、これえきれず2度目のいきみ、ググッと動いた感覚。あわててブザーを押し、分娩室へむかったのが、10時15分頃。

 パジャマのまま分娩台にあがり横むきになってタオルケットをかけてもらって、看護婦さんは詰所の方へ。そのとたんに、陣痛3度目のいきみ。グワァと出てきたみたい。

「カンゴフサン、デソウデス!!」
大声で呼んでから、姿が見えるまでの数秒がすごくこわかった。でちゃったらどうしたらいいの?!

 ハッハッハッと短息呼吸をしながらもどかしくズボンを脱ぐ。看護婦さんの補助で頭、肩と出て、シュルシュルジャーというかんじで全身が。そして大きな産声。息詰まる誕生の瞬間。全身の力が抜けて、私
「ハァーびっくりしましたァ」
そこへニコニコと先生が登場。

「ずいぶん元気な泣き声が聞こえるなあと思ったらもう産まれましたか。理想的なお産ですね。良かったですね」
・・・だって。


 午後10時25分、3500g、50cmの女の子誕生!


 車イスで病室に戻り、脱力感と安堵の中でとりとめのないことを思いながら夏みかんほどに小さくなった子宮を、おなかの上から、ギュッギュっともみ固めること2時間。これは、子宮がゆるんで大出血をおこさないように、ということだそうだ。それが終わっても、なかなか眠れない。

 かすかに聞こえる泣き声はあの子かな。あたたかな新生児室で、初めての夜を守られている・・・。良かった、無事終って。薫たちはどうしているだろう・・・。キーンと凍る冬空には、満月が輝いているんだろうな・・・。

「今日ならいいな」、と思った日にちゃんと生まれてくれて、しかも飛び出るようないきおいで。母の気持を一番わかっていたみたい・・・ありがとう赤ちゃん。


12月22日(日)入院2日目


 緊張が体に残るのか眠れない。目をつむりリラックスを待つ。

午前9時、夫が薫と圭をつれて面会に来てくれた。

 圭「おかあさん むかえにきたよ」

ガラス越しに赤ちゃんを見て、かわいいと連発。そんな子供たちがとてもいとおしい。今日は実家ではもちつきなので、こどもたちは吹上に帰っているとのこと。夫の号令に2人ともよく従っている様子で一安心。

 何も心配のない安全地帯にいて、お医者さんから
「今のあなたのお仕事は眠ること、食べること、オシッコにいくことだけですよ」と決めてもらって、天気も良くて、本当に申し分なし。


 鴻巣の次姉がお見舞い、つきたての大福もちおいしかった。

 夕方、実家に子供たちを送った帰りだと言って、夫が面会。意外な名前が候補に出て驚く。

夜、実家の両親が苺を持ってお見舞い。ハウスの中のストーブの灯りで、父が摘んでくれたもの。ほのかな苺の香りが嬉しい夜。


12月23日(月)入院3日目。私の33歳の誕生日


 早朝窓を開け、冷たい牛乳を飲み、歯みがき、洗顔、洗濯(大きなものは病院のオバサンが洗ってくれる)ついでに畳をふく。朝日がカーテンをバラ色に染めてさわやか。体も軽い。今日もいい天気。


 10時半、初めての授乳。赤ちゃんがおなかすいた時に、病室につれて来てくれる。個人病院ならではのきめこまやかさだと思う。上手に吸ってくれて、奥の方に響いてくる。私もオッパイがピュ―と出るイメージトレーニング。デテコイ・デテコイ。

 午後2時、2度目の授乳。張ってくる感じ。ホルモンの大移動中。


 午後4時半、実家の芳江姉さんが子供たち4人をつれお見舞い。愛子ちゃん(2才半)と圭がケンカすると、姉、弟をそれぞれかばう形で考太郎くん(5才10ヶ月)と薫がケンカするのだそうで、毎日大さわぎの様子。今日は幸夫くん(7才)のクリスマス会があって、薫たちも参加させてもらってプレゼントもいただいてごきげん。「障害児をもつ親の会」主催のクリスマス会で、町長さんも来られたそうだ。


圭「もうすこし?」

私「うん、もうすこし。まてる?」

圭「うん、まてる。<ヤッター!!>っていって」


薫「みて、おにんぎょうもらっちゃった。これで5人かぞくだよ」

(りかちゃん、おさむくん、ミキちゃん、ティモテちゃん、みゆきちゃん)


12月24日(火)入院4日目


 午後7時、4回目の授乳。一晩のうちにパーンと張ったお乳は新生児の力ではほぐれない。後陣痛もいよいよきつく、息を止めてこらえる。


午後10時、今から母子同室になる。

 時間がたつに従って、キーンと張ったオッパイとわきの下の副乳と、あと腹の三つの痛みがドカンとやって来て、めげる。
赤ちゃんも、母乳だけでは満足しないで、泣きっ放しだし・・・。横になって眠りたいなぁ。 ヤレヤレ


12月25日(水)入院5日目

 

 “見舞いには行けないよ”と言っていた夫が、会社の帰りに突然寄ってくれた。

 ゆりかごで眠る子を「かわいい」、としばらく眺めて、

「名前を決めた。“絆”にする」と一言。

「うん」と私。


良かったと思う。いい名前を考えてくれてありがとう。


夫のこだわりは「おとこでもおんなでも通用する漢字一文字」。その条件の中から選ばれた名前。字画や姓名判断などは一切考えない。だれかに名付け親を頼まない。あくまで父親が決めるのが我が家流だ。


私は私で、大学時代のゼミに、きづなさんという後輩がいて (妹さんはゆかりさんというそうだ) 昭和30年代生まれとしては、珍しく、新しい印象。いい感じのお名前だなぁ、と当時から思っていた私は、いつか、自分に赤ちゃんが授かったら「きづな」と名付けたいものだと、心の中で考えていた。

漢字とひらがなの違いはあっても、夫との偶然の一致がとても嬉しかった。

(ただ、なぜだろう、名前の由来を改めて夫に聞こうとは思わなかった。なので、そこはいまだに謎。)


「絆」という漢字は、平成3年当時、名まえには使えないことがわかり、ひらがなで「きづな」にする。絆の読み仮名はきずなだがあえて「きづな」。漢字一文字という夫の基準に合わなかったけれど、これで良かったと思う。

1月4日、きづな 出生届。晴れやかなる人権宣言。



12月26日(木)入院6日目

 

 薫を叱る夢を見る。あの子は叱られると、スローモーションで走るようなおかしなステップで、すみっこにかくれて、ジワーメソメソーと泣くくせがあるが、そんな所まで夢に出てきた。圭もイタズラしてしかられているのにヘラヘラ笑っていた。

雨が雪に変わった。薫たちは大よろこびで目覚めているだろう。


12月27日(金)入院7日目

 

 きのう午後、姉と子どもたちがお見舞い。ベッドに乗ってきづなと写真を撮ったり、苺を食べたりしてはしゃいでしまったせいか、圭は「まだここにいる」と初めてぐずを言う。そろそろ限界なのかな、と心配したが、その時だけだったとのこと。

 今日は、姉が吹上の家の掃除に行ってくれる。圭を産んだ時は6日目には退院して、そうじも洗たくも山のようになっているのを片づけた。山根さんが毎日のように来てくれて買物とかいろいろ気づかってくれて助かったけど、つらくて泣けたこともあった。

  明日は、きれいになっている家に帰れる、と思うと本当にうれしく、ありがたい。姉は、子どもたちだけでももう少し預かろうか、とまで言ってくれた。でも、薫も圭も指折り数えて待っているだろうし、姉も風邪をひいて疲れた様子だし・・・やっぱり。


 夜遅く夫が来てくれた。

 明日は退院。考えるといろいろ不安になる。

「人の手を素直に借りること。あれをしなくちゃこれもしなくちゃとあせらずに休むこと。感情を押さえすぎないこと」――この前呼んだ『マタニティ・ブルー』という本にはそう書いてあったっけ。

 寒いと思ったら外はまた雪・・・。


12月28日(土)退院

 

 午前2時、今夜もお産がはじまっているようだ。時折胎児の心音が分娩室のスピーカーから高く低く聞こえるだけで、いつ産まれたかもわからなくて、人のお産はなんともあっけなく思われる。
 本人にとったら一分一秒が長くしんどい痛みと緊張との闘い、そして感動。私も1週間前の今頃は、脱力感と安堵感につつまれていたのに、不思議なほど遠くに思えるのはなぜだろう。痛みは忘れてしまうのかな。そして、気持ちが明日にむかっている時、過去は、やわらいだ表情を見せてくれるのかも知れない、と思う。

 眠ろう。そして、今日から始まる新しい暮らしを夢見よう。


きづな・・・名前も知らずに眠り、泣き、飲み、うんちをしてまた眠る。


花の名前を知らない
そのことが今朝はばかに嬉しい
花だって
たぶん自分に付けられている名前を知らないで咲いている

〈星野富弘詩画集絵はがき・きんれんか より〉
          


 指がプクッとふくらんだ。小さな5本の指で私のひとさし指をギュッとにぎる。目が、日に日にはっきりしてきて、声のする方や動きを追うようになった。すぼめたり、あくびしたり、への字にまげたりと見ていてあきない口元。やわらかな肌、透きとおるようなその色。あっ笑った!

 抱っこしていつまでも見ていたいけど、ホラ、もう薫おねえちゃんが帰って来る時間。

圭おにいちゃんはトイレで、「デタヨ-」と叫んでる。急がなくちゃ!!


1月21日 一ヶ月検診

順調な発育とのこと。

体重4400g、身長54cm、血液型O型 

圭「あかちゃん びょういんにかえしてくれば」

「ごみばこにすてちゃったら どお?」

きづなが泣けばかけ寄って、

「きじゅなー、だいじょうぶだよー、おばけなんかじゃないよ、かいじゅうなんかいないよ、けーくんですよー」
と声をかけ抱っこしてくれる。やさしいお兄ちゃん。


2~4ヶ月の頃 “おっとりきづなちゃん”

 

 きづなが2ヶ月の時に、とうとう夫が会社を辞めて独立した。大きな変化も表面的にはあまり見られず、私は日々を子どもたちと共にすごし、夜の2,3時間を仕事にあてていた。

 薫は小学校に入学、圭は幼稚園に入園、と家族そろって新しいことに挑戦するんだね!!と気合が入っていた。

 きづなはよく眠りよく飲み、機嫌の良い赤ちゃん。三人の中では一番泣かない育てやすい子のように思う。


5~9ヶ月 “きづなが一番おとうさん子になるね”

 

 仕事がいよいよ忙しくなってきた。夫も在宅の日が増えて、私も、昼間はきづなが眠る時間と夜中(遅い時は2時3時までという日も続いた)に仕事。気もちは子供たちに向いていて、働く体制もなく、心身共に大変。夏休みは本当にシンドカッタ!

 逆に、サラリーマン時代には、昼間の元気な子供の姿を見ることのできなかった夫が、きづなを常に身近に感じて、時折あやしてくれたのが、私には大きな喜びに感じられた。

 “おっとりきづなちゃん”もゆっくりながら確実に成長をし、日増しに仕事のジャマをする困った存在となる。おすわり、ハイハイ、そしてつかまり立ち、書類を高い所に置くだけでは間に合わない。きづなにとっても、活動を抑えられて、不機嫌になるのはあたりまえのことだったろうと思う。


10ヶ月~1才の頃 “なんともたのしげなきづな”

 

 圭の幼稚園のバス通園の仲間、なおちゃんのお母さんにお願いして、月~金の9時~1時半まできづなを預かってもらうことにした。
 10月12日がその第一日目。見慣れた人だったし、人みしりも強くなかったし、何よりきづなのペースに合わせて、ゆったり接してくれるのがいごこち良かったらしく、体調の悪い日を別として、実に楽しそうに、遊び、眠り、食べてくる。朝もバイバイをしてサッサとなおちゃんちにあがりこむ。隣りの同い年のターチャンが遊びに来ると、“私の”とばかりにオモチャもおばちゃんも独占する。11ヶ月の頃何歩か足が出るようになり、ほめられて得意。表情が豊かになる。

 きづなが安定している感じがあって、私も幼い子を人に預けて・・・というすまなさをあまり感じずにこられた。本当にありがたかった。
 だが、あいかわらず仕事に追われる日々。余裕がない。夫は、
「一日預けなくてはムリ。仕事中心の生活を」
と強く希望。育児・家事・仕事の両立を巡って、ソウゼツなバトルの日々が始まった。

1才~1才2ヶ月 “泣いて自己主張してるきづな”

 

 12月21日に満1才を迎えた。離乳も順調にすすみ、昼間はオッパイを飲まなくなっていた。が、年末年始、旅行などで母とベッタリ、オッパイの機会も増えやや復活。

 年が明けてから体調をこわし、発熱をくりかえす。夜泣きも多くなる。預かってくれている人からも“寝ぐずりがひどくなった、泣かれる”と大変さを訴えられることが多くなった。朝も笑ってバイバイといかなくなった。智恵がでてきたんだねと言われる。きづななりに何かに抵抗していたのだろうか。

 思うようにならない毎日。母も父も疲れを引きずって、なお仕事仕事の毎日・・・2月に入って私が一度二度と体調をくずして、その度にきづなのことが問題になり、頭をかかえていた。きづなには何の責任もないはずなのに・・・十分に見てやれないことはやはりつらいこと。そんな時、姉から手がさしのべられ、続いて長沢家庭保育室とめぐり会えた。

“闇の中に光が射しこんだ”そんな気がする。そう言うと大げさに思われるかも知れないが。子どもがいるからこそ、頑張れる。子どもたちと共に苦しんで育ちたい。


「苦しみを共有する、これは尊いことである。
ありがたいことである。
そのことが人と人との“結合”を可能にし、つながりを確たるものにする」

私の恩師・森直弘先生がくださった言葉をくりかえし思いながら…。

祝婚歌

 その後きづなは、家庭保育室を経て、1歳4ヶ月から町立保育所に入所しました。いつもたくさんの保育者の皆さんに見守られながら、愛されてのびのびと成長し、人を思いやれる優しさ、細やかさ、強さを身に着けつつ、今に至ります。

母親としては至らない、足りないことばかりでしたが、
いま、花さんとの結婚式に臨むきづなに伝えたいことは、
「私達の元に産まれてくれてこころからありがとう」
「花さんと末永く幸多かれ」
という気持ちでいっぱいです。

 花さんのお父様から「きづなさんの名前の由来は?」と聞かれて、昔々の日記をもとに加筆修正しましたが、だいぶスピンオフしてしまいました。
 こんなふうに、きづなのことに関心を持っていただきまして、本当に嬉しく想います。
 おかげさまで、きづな誕生と独立開業当初の家族の張り詰めた雰囲気を懐かしく思い出すことができました。

 名前の由来ですが、あとになって改めて夫に聞いたときには
「直感。なんとなくいいと思った」
という返事が返ってきました。
 直感もさることながら、夫なりに真剣に熟考したに違いありません。

 これは私の推測ですが、3人目ができたとわかってから、夫は独立開業を決意しました。33歳で迎えた仕事の転機と新たな挑戦。自信と不安。一家の主としての責任が重くのしかかる中、こどもという「守るべきもの」があったからこそ、夫は頑張り抜けたのではないかと。


 きづなは、人と人のえにしを結びつける絆の役割を持って生まれてきたのではないか、と私はなんども実感しました。
 とりわけ、父親と母親をより強く結びつけてくれる存在でした。両親が過ごした激しく働く時代の思想や価値観は、良くも悪くも、こどもたちに影響を与えたと思います。

 子どもたちがいたからここまで家族として強く結ばれてきましたし、より強く反発しあってきました。
 でも、みんなもうそろそろ「家族の役割」から自由になっていいんだよって思います。
 子どもたちの結婚式は、親の卒業宣言日でもあるのです。



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