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暁の闇 (後編)

暁の闇 (後編)


1998年1月8日

 朝焼けの雪原に1人車を走らせる。雲の色の清々しさ。大地から白くもやが立ち上る。苺畑のハウス。父と姉と並んで黙々と苺をとり続けていく。刻々と光を増していく朝の太陽が、全身を染めていく。


こんなにいい苺がなっているよ、お母さん。

 なぜ、ここに、あなたが、いないのか!


自縛

 

 よく似た出来事が互いに直接には関係ないのに、別々の場所で起こって不思議な気持ちにとらわれること、そういう現象を、共時性(シンクロニシティ)というそうだ。そういうことが親友との間にあった。


「ふうせんがだんだんふくらんでってるのは気づいてたんだけど、ある瞬間、バチンと弾けた様な・・・」

彼女のお母さんの感情の破綻の様子を友はこう表現した。

私の母の失踪のわずか2日前のことと、後から聞いた。

「それが、たまたま皆のいる所で、昼だったから病院に連れていくこともできたけど、もし1人の時だったら・・・」

と、偶然に救われたように友は言った。けれども、それだけではなかったと思う。家族が、お母さんの発するSOSに気づいて、全力で、その言葉にならないうめきを聴きだそうとしたからこそ、ギリギリの生死の分かれ目から戻ることができたのだろう。

それは、一人一人が、何のために、何を大事に生きているかが試される瞬間。


 老いの時を迎えた父がまず病気になり、看病する母が心を疲れさせ、子どもたちは今の自分の暮らしに精一杯で親たちの苦しみを支えきれないで苦しんでいる。そういうことが、私たちのまわりでたくさん起こっている。


 母のことは、だから母一人のことではなく、この時代、この社会に人は何のために、どう生きるか、と問われている、私自身の根深い悩みでもある。

夫婦のありよう、時間に追われる生活のありかたを、どうしても考えないわけにはいかず、考えれば考える程、危うい深淵をのぞきこんだような恐怖に近い不安にとらわれていく。


 夫が私に言い続けてきたこと。

「しがらみを切りすてて、こうありたいと望むことに全力を尽くす、自分のための人生でありたい」

「人のため、家のため、子のため、親のための人生は不幸だ」

夫はいつも私に、私以外のありようを望む。固く鋭い個性を。どんな器にでも寄り添っていく水のようなはっきりしない、つかみどころの無い、内実のない生き方ではなく。望んで、そして理想と違うことに落胆する。

私もまた“ありのままの私を認めて!”“私から時間を奪わないで!”と望んで、そして落胆している。


 愚直なまでの素直さで父に連れ添ってきた母に、内実がなかったと私は思わない。思いたくない。不幸だったとも思いたくない。お互いが光と影のように切り離しては生きられない一体感、強い信頼感の上に立った、安心、自信が、母にはあったと思いたい。


母の声が聞きたい


この、がんじがらめの自縛から解き放たれたい。母に似ていることを否定的に言われるのが、何よりも辛い・・・。


 上田の、20才から2年間すごした古アパートの庭に大きなくるみの木があった。その木の下で笑っている母の写真が残っている。

「留守番のお父さんに手紙書いてみたら?」

と強引に書かせた一枚の葉書。生まれて初めて、手紙というものを書いたと照れていたっけ。最初で最後の父への“ラブレター”は今もあるだろうか。

文字を多くは書かず、本も読まず、ひたすら働き通した人だけれども、母には豊かな、ことばがあった。あたたかく和やかにする不思議な力を秘めたことばにあふれていた。

母の声が聞きたい。


「朝子ナヨ 頑張ってればいい日が来るから」

そういっていつものように安心させてほしい。


書くということ

 

 『暁の闇』と題した文を読んでくれてありがとう。無言の(無視でない)気づかい、励ましの気配がヒタヒタと私に伝わってきました。

書いて良かった、書く場所があって良かったと思いつつ。だけど、なんて苦しいことだろうと。胃から血の吹き出す幻想。


「人と会ったり、話すことに気遅れを感じ、少し自閉的な日を送っていますが、でも、人と話さないことは悪いことばかりでもないと思います。ゆっくり、ゆっくり言葉が沈んでいって、熟成したり分解したりしていって、やがて、真珠のような小さな結晶になるのを待っている」こんな手紙をポストに落としたすぐ後で、「誰か。ここに来て!今すぐ来て。ひるむ私をこじあけて!ひっぱりだして!澱んだこの空気を吹き飛ばして!」と見えないインクで書きなぐる。

 矛盾。いっそ目をそむけて忘れていたい。


父からの手紙 1月24日

 「・・・今度のことで仏壇にお祈りして居ると涙が止めどもなく流れます。それは別れたつらさではなく、長い年月共に歩んだ道のりが思い出されるからなんです。

私は一見「だまっておれに付いてこい」と言うような言い草しぐさをして来たが、本当は、かあちゃんが支えてくれたからそうして居られたのです。(略)

朝子と名付けたのは私だが、朝生まれたからと言う そんな単純なものではないんです。朝はすべて始めを意味し、すがすがし気分でその日、いや一年、一生のはじまりです。

又、かあちゃんの母、つまり朝子の祖母が「あさ」と言う名前だったんです。親の名前をつけたのだし、末子でもあり朝子と話をするのが楽しみのようだったのに、もう終わってしまいました」


 母の失踪から一ヶ月、手がかりもなく、様々な憶測、占い、霊感やらの話が飛び交い、刑事の心ない暴言や、公けの機関の協力拒否などの中、疲労も極限に来て、家族に剣呑な空気が濃くなっていった。

父はそんな眠れない夜に、長い手紙を書き、わざわざ届けてくれた。寡黙の人の言葉は重い。本当にうれしかった。


 私の、『暁の闇』を読んで、おそらく、自分の誕生日に母親を失った娘の心の動揺を気づかってくれてのこと。

 父が名付けてくれたことを初めて知る。今まで言えなかったことを、手紙に書きながら伝えている。父からも返ってくる。そのことがなんだかとても有難いと思う。


2月10日 発見


 朝から冷たい雪が舞っている。天気さえも父を苦しめている。父に何通目かの手紙を書いた。休みがとれず会いに行けない私の、唯一の手段は手紙。昼すぎ、父から電話。携帯電話から響いてくる父の声は、12月23日の早朝

「かあちゃんがいなくなっちゃったんだ」

と告げた時と同じ張り詰めたものだった。


あれから50日、母を発見。


 母の弟さんが、つりで使うボートを出してくれて、休みの度に父と一緒に川面からの捜索をしてくれていた。岸辺に浮き沈むむらさきの(母はむらさき色の服を好んだ)背中を見つけたのだった。


警察での検死、父への事情聴取を待って、暗くなってからようやく母に会えた。警察署の敷地の隅にある倉庫のような建物、コンクリートの地べたに母は裸のまま横たわっていた。全身が膨れ上がっていたが母であることは間違いなかった。

涙が出なかった。ただ裸の母の身体を隠しておおう温かい毛布が欲しかった。父と葬儀社の人と私とで棺に運ぶ。

冷たい。

重い。

腐臭。


ろう人形のような母の手が、水底の砂だろうか、テトラポットの苔だろうか、何か黒いものを握りしめている。


そんなもの ふさわしくないです、お母さん。

あなたには、丹精こめて耕した二人の土地の、その土から生まれた美しい苺こそふさわしいのに。


 母は苺とりの支度だった。気温の変化に服をぬいで調節するための重ね着、腰痛をおさえる腰バンド、いつもの朝と同じように自転車に乗って、いつもの朝と同じようにハウスに着いて、苺の花の良い香りの中で朝日を迎えるはずの母に何があったのか。発見されても、その答えはわからない。

 父が見つけてくれたこと、遺体がきれいで、二晩、家に帰れて、家から出棺できたこと。たぶん長く苦しまずに果てただろう。そういうことが救いなのだと、それだけを思った。思おうとして何度も口に出し、確かめあっていた。「良かった」「良かったね」と。


3月2日 三七日忌(みなぬか)

 

母が流れ着いた場所に供養にでかけた。父と中の姉と私の三人で、戒名のお礼を貼り、卒塔婆を立て、石の膳に上の姉がつくったぼたもちを供える。


ねこやなぎが銀色の芽を一杯つけて、高々と腕を伸ばしている。家のもっこく、水仙を植え、椿、梅、菊の花で一杯になった野の墓。小さな岸辺の墓になった。

「何日か、何時間かわからないけど、母チャンが泊めてもらった場所だかんな」

と父が微笑みを浮かべておだやかに言う。

「ここも、何度も何度も見たんだ。道がなくて、テトラポットの上を渡り歩いて・・・」父がひとりごとのように言う。

「コンナトコロデシヌコタアネンダッ」父が突然絶句する。


4月14日 子どもたちからのメッセージ


『わたしわ おじいちゃんに いきてほしいよ。ながいきしてね おねがいね。こんどきてね。きづなね おじいちゃんのえがおおいっぱいくるといいなと おもています。 おねがいだよ おばうちゃんみたいに まだいきられるけど しなないでね。 おねがいだよ

きづなより おじいちゃんへ』


私にはどうしても納得できない死の核心に、幼な子のやさしさがそっと触れて いやしてくれる、ずっとそうだった。


『(おばあちゃんは)おおきないわにつぶされちゃったのかもしんない あかるくなってから、だれかといっしょにいけばよかったのにね、そしたら へーきだったのにね、おばあちゃんのいたころに もどりたいよ。』きづな


『(母の育てたランの花をもらって帰った日に)

お母さん、形見がまたふえちゃったね。見るとまた悲しくなっちゃうでしょう。お母さん苦しそうに寝てた』薫


5月 若葉冷え


 おしだまり、まるで自分を罰するかのように無理やり働いている父。

江国滋の句に父の姿がだぶって見える。


春の夜時間が停止しています

若葉冷え心の底の底もまた(句集『癌め』より)


「最悪」に見えたものはほんの入り口で、もっと悪いことになるような底なしの不安。私自身も、何かにせかされるようにして毎日動いてはいるものの、どこか、ずっと奥のどこかが止まったり、狂ったりしている、そんな気がする。

 深夜になるとボタボタ涙を落として仕事している私を見かねたのか、夫がお仏壇を買おうと言ってくれた。夫の父と、私の母の、写真とお骨を納めるために。嬉しくて、溶けちゃった。


森佳代様への手紙 5月下旬

 

 「森直弘先生の追悼文集『追想』を読み返しました。七回忌とは、本当に時が経つのは早いものですが、私にとりましては、とても濃くて、長い、苦しく、充実した日々の連続でした。文集という形で、書くことも再開しました。

何をするにつけても、先生が生きておられたらどんなに心強いだろうと思われてなりませんが、一人で頑張らねば。

『追想』は素晴らしい内容ですね。佳代様のご尽力と、先生のお人柄に改めて感動しました。

 私も、母と父のために追悼文集を編みたいと、考えています。二人のためだけではありません。自分が立ち直るためにも・・・」

『私の履歴書』


実家へ泊まりに行った時、父が

「こんなものを書いてみた」

と私に見せてくれたのは、『私の履歴書』と題する自分史。10才までのことで10ページ近くなっていた。父の原点がここにある!


父への手紙(6月、父の日の贈り物にそえたもの)

 

『・・・アルバムをお借りしちゃってすみません。お父さんの書いた文章の所を写させてもらいたかったのです。一人でゆっくりと見たかったのです。そして見ていると、このアルバムが、「追悼文集」そのものだと思えてきました。これを越えるものは、私にはとてもできそうにないと思いました。


 写真からも、お父さんの追悼の文からも、その文字からも、お父さんとお母さんが生きた証しがほとばしり、魂が揺さぶられるよう気がします。

お父さんが書き始めて、10才のところまででとまっている『私の履歴書』もどうか、ぜひ、書きすすめて下さい。私たちにとって貴重な心の財産なのですから。

父の日に父の在ることの幸せ    朝子』



曙の光

 

 かつて見たことのなかった父に、何度も何度も出会った。

絶望、悲愁、悔い、怒り、自責・・・慟哭の中にあっても、黙ってたちつくす中にあっても、父の忍耐、品性は失われず、より輝きを増している。

このごろ、父の目の中に、不思議な静かな光が宿っている気がするのは私だけだろうか。


こんなにも 近くに 父を感じたことはなかった。

こんなにも 遠くに 大きさを感じたことはなかった。


おかあさんはおとうさんと生きられて幸せだったね。


お仏壇の母の写真にそう話しかけたら、

「そんなことはきまってることだがな」

と笑う母の声が聞こえた気がした。


         1998年7月24日

         「もらとりあむ3号 1998 夏草」掲載

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