どれほど切実な「現在」を生きているか?

井戸端の女と架上の強盗の話

新約聖書から「イエス」と人々が出会った最も劇的な2つの場面を挙げるなら、「わたしがそれである」と自らはっきりと自分の使命を明かされたことと、「あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」と当事者に直接救いを確定してくださった出来事を挙げるでしょう。

この偉大な2つの場面、「メシヤ宣布」と「救いの確定」の場面で、イエスの相手はずっとイエスと共にした弟子たちではありませんでした。本人がメシヤであることを宣布したその対象は、夫が5人もいる娼婦同然に思われていたサマリヤの女だったし、直接「パラダイスで共にする」と救いをお与えになった相手は、俗な表現で「打ち殺しても足りない」極悪非道な強盗だったのです。この驚くべき話の主人公たちが、網まで投げ捨てて3年間ついてきた頭弟子ペテロでも、かわいがっていた弟子ヨハネでもなく、井戸端でイエスに初めて接する「娼婦」と十字架の上の今にも死んでいく「犯罪者」であったことが容易に理解できるでしょうか?

 井戸端のその女は誰よりも真の愛に飢え渇き、真の愛に対する切実さが全身に染みわたっていた人だったでしょうし、死の目前で言葉で表現できない肉体の苦痛の中にいたその強盗は「生と救い」に対してあまりにも切迫した思いを持っていて、それゆえメシヤが与えてくれる救いの手を切実に求めていた人だったことを推測することができます。

愛と救いに対してあまりにも切迫していて、心から愛する対象、救いを与えてくれる救い主を切実に求めていた彼らこそが「イエス」の価値性を正しく悟って分かった人々だったのでしょう。「現在」における強力な切迫さが、自分に与えられた時間を正確に奪って手に掴めるようしてくれたのであり、その切実な「現在」が「結局」を「決定」したのです。

切実なでなければ逃すチャンス

一方、イエスを迫害した書記官やパリサイ人たちはどうだったでしょう。時代の救い主を見分けられなかった無知の裏面には、あえてメシヤが必要ないという考えが潜んでいたのかもしれません。メシヤが必要ないほど満足のいく「現在」に贅沢三昧していた彼らの目には、イエスも自分の職を奪おうとする人の一人に見えたのかもしれません。切実ではないから、正しく判断することが難しかったのでしょう。

現在、何かを切実に求めていますか?

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