どのように接するのか、その認識と異化

「アイスクリーム!」というと、「甘くて冷たいもの」として喜んで「接する」人がいるし、「歯にしみて食べたら太るもの」として負担に思って「接する人」がいます。事物であれ、人であれ、環境であれ、「認識」する通りにそれに接するようになります。「認識し、その認識の通りにそのまま接すること」を心理学的用語でいうと「表象(Representation)」するといいます。これは、英語のRE(再び)、PRESENTATON(表す)を合わせた単語で、自分の頭の中に既存に保存されていた「以前のものたち」をもう一度取り出す行為(再現)を指す言葉です。

つまり、「表象」というのは、私たちが過去の視覚や聴覚、触覚などを通して感覚的に経験してきたものや、学習を通して知るようになった情報が、自分の頭の中で一つの像として描き出されることを意味するのです。

アイスクリームを「甘くて冷たいもの」として接する人は、舌を通して以前感じたことのある甘くて冷たい感覚をもって、そして、「歯にしみるようにさせ食べると太るもの」として負担に思って接する人は、この「歯にしみた」という経験を通して、各々その通りに接するようになったので、結局個人が持っている経験や知識、情報の「如何」に従って、事物と環境は人によってそれぞれ違って表象されるのです。

繰り返しますが、人でも環境でも、「どう接するか」という問題は、結局自分が持っている知識と経験などを再び呼び起こす過程を通して決定されるということであり、この過程において重要なのは、まさに「以前のもの」がそのまま持ち出されるということ、そして、この「以前のもの」はすでに定められているもの(既存)であるため、自ら簡単に変えることはできないということです。しかし、聖書には「古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」という表現をもって、キリストの中においては既存のものが「新しい」被造物へと変化することについて話します。

「以前のもの」は変えることはできませんが、現在自分が「どのように接するか」というのは、自分の意図によって、直ちに「変化」させ決定することができるのです。この時に必ず必要なもののうちの一つが、「異化すること(Defamiliarization)」です。鏡を見たときに、「以前のもの」、自分の外見のせいでいじめられた経験、不細工だといってばかにされていた経験だけを取り出して表象するなら、依然として不細工な自分の姿がそのまま鏡に映し出されます。これを「今」変えなさいということなのです。

鏡を見るにしても、今とは違った視覚で「私は顔が不細工だ」ではなく、よく見てみると「とても個性があって個性的だ」といって自らを「異化して」考えてみなさいということです。この「異化すること」が重要な理由は、これがまさに「変化」が始まり得る前提条件だからです。

また、この「異化すること」を、個人の次元ではなく、歴史的次元においても綿密に見る必要があるのは、新しい時代の変化が始まる時においても、必ず異化された理論と異化された人物が登場し、これらが新しい時代を主導することになるのですが、この当然な「異化」の出現を誤解し、「間違ったもの」として受け入れやすいという事実のためです。

とにかく、この「異化すること」は、現在の時点で、自分が自ら選択して決定することができる領域なのです。自分自らが、自分に対する異化をする必要もあり、異化に向かって飛び込んで確認するオープンな心と勇気も必要だということです。自ら決定した通りにそのまま接し、そのように使用できるようになることで、自分の運命が変わってきます。だから、自分に与えられた環境をおいてあれこれ言うものではないということなのです。

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