お金によって左右される皮肉な人生

文学作品の中の皮肉な人生

人々は人生を生きる時、実に多くの皮肉の中に生きている。つまり、Aという目標を達成するためにたくさん努力したにもかかわらず、Aとは正反対の結果が表れることもある。たとえば、相手に愛を捧げようと全力を尽くしたのに、かえって失恋を味わうようになるのが一つの例である。

このような皮肉を人々は反語法的表現によって表現したりもする。例えば、父親が死んだ後、ハムレットが、まだ喪服も脱がない先に叔父に嫁ぐ母親に「これから修道院にお行きなさい」と言った言葉は、このような反語法的意味を含んでいる。夫を失い、黒い喪服を着ている女性に『修道院』に行けと言う言葉は、当時のイギリス社会で『修道女』という言葉が娼婦を遠回しに表現しているという事実を知っていれば、ハムレットの言葉は「お母さん、あなたは体を見境なく与える娼婦と変わりないじゃないですか」という意味になってしまう。

1924年、『開闢(かいびゃく)』誌に発表された玄鎮健の短編小説『運の良い日』も見ようによっては、『運の悪い日』を反語的に表現した皮肉なタイトルである。この小説で車引きの主人公は、ずっと昔から病床に伏せている妻から久しぶりにソルロンタンが食べたいと言われたが、お金がなくて医者にも連れて行けず、薬も買って呑めない分際で、食べ物の話とは何のたわごとかと皮肉を言って街に出る。ところが、その日に限って、なぜかお客さんが信じられないほど押し寄せてきて、主人公は久々に大金を稼ぐようになる。帰り道、この運の良い日を自ら祝いがてら、ほろ酔い気分でお酒を引っかけて、一杯のソルロンタンを買って家に入ったが、横たわった妻は気配がなく、既に亡くなっていた。すると、主人公はソルロンタンの器をほうり投げながらつぶやく。「今日に限ってすごく運が良かったのに!」

1925年『朝鮮文壇』に発表された田栄沢の短編小説『河水盆』を読むと、三人の息子を持つ主人公の父親は、長男には百万長者になるようにと『長者』という名前を、次男には『巨富』という名前を、三男には財物が続けて出てくる宝の壺を意味する『河水盆』という名前をつけてやる。しかし、父の意図とは逆に、長男『長者』は貧乏になり、次男『巨富』は左遷され、末っ子『河水盆』は空き缶になって、わびしい死を迎えて終わる。

お金を中心にしない人生

玄鎮健の『運の良い日』も田栄沢の『河水盆』も、人間の運命を握って翻弄するのが『お金』に関する欲だということを間接的に示している。人間が自分の運命を逃れようと必死になるが、そのすべての努力が自分の意図とは正反対の結果を生むこともあるのだ。

このような皮肉な人生を生きることが尊くもありながら汚く、外側は蜜だけれど中身は毒である皮肉な『お金』というものも、アイロニーだと言わざるを得ない。文学作品の中の主人公たちのようにお金によって左右される悲しい皮肉な運命をたどらないためには、変わることのない愛で導いて下さる天を中心に生きなければならないだろう。

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