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五輪・ア・ラ・モード(東京2020)──「中止だ 中止」を添えて(2)

これを書いているのは、かなりのスポーツ好きの部類に入る(はずの)人間である。最近、「反対派だって東京2020を楽しめばいいじゃないか」という声を耳にするが、このイベントの残りの期間があるだけ、リスクを増やしていることについては無視できるのかという疑問が湧く。新型コロナによる深刻な状況を認識することと、世界的なスポーツの祭典を楽しむこととは両立し得ないものであるはずだ。東京2020開催は、世界的な新型コロナの状況に真っ向から逆らって行われているからである。稀に見る大規模な世界的イベントとパンデミックとを切り離して考えるというのは、現状を無視した都合のよい考え方ではないか、あるいは単なる諦めなのだろうか。

現に逼迫する医療体制や確実に拡大の続く感染状況を前に、ホスト国として対策不備のまま、感染対応の状況も不均一な世界各国から大量に人を呼び込み、大きなリスクを背負う東京2020を「楽しめばいい」と言って楽天的に受け止める向こうには、一見、直接的な関係が見えにくいとしても(あるいは政府や組織委員会の御託を並べたに過ぎない理屈を真に受けているのだとしても)、間違いなくその煽りを受けている存在があることを絶対に忘れてはならないはずである。しかも、影響を受けているのは人の暮らしや生命のまさに根幹に関わる部分なのだということ。水を差す言い方をするなら、東京2020を手放しに楽しむことは、考えることをやめて、少なくとも感染拡大に消極的な黙認を与えているようなものであって、状況を誠実に受け止めようとする態度からは程遠いように思える。

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東京2020への反対を揶揄する人たちの声は、多面的で未解明な部分を多く含む状況を、自分たちの見たい文脈で、自分たちの見たいごく限られた側面だけを抜き出して論じているものが多いように思える。しかも乱暴な言葉遣いで断定的な物言いをしているものも少なくない。まるで正論かのように説得的に聞こえても、実際は根拠となる情報を欠いたまま放言しているようなものもある。例えば、根拠となる情報とは言っても、どれほど権威ある情報源から得られたものでも、現在進行形の事象に直面しているからこそ、時間の経過とともに修正や訂正が入る場合も当然ありうるが、最新の知見を得ることは(それがどれほど徒労に近い手間であったとしても)常に重要な意味を持つはずである。むしろ根拠なく断定することの危険性を認識すべきはずであるが、断定は理解しやすいし、派手な楽しみの前に考えるのをやめることも簡単である。

スポーツが好きだからこそ、今回の東京2020には悲しいという気持ちが強い。世界平和を目的とするスポーツの祭典と銘打たれた最高峰のスポーツ競技大会だからこそ、独善的なトップのもとで、大切なものを平気で蔑ろにしている様を見るのは辛い。こんなふうに不当な思惑に利用されることを、黙然と納得する気にはなれない。矛盾から目を逸らすように促されながら、楽しみに没入することはできない。世界規模のリスクを抱えながら、これほど政治に塗れ、特定の意図のもとで行われる不公平な大会を支持することはできない。

その一方で、競技者の一途な気持ちが成就されてほしいと思う気持ちも失われてはいない。だから単純ではない。こんな未来が予想できるはずもなかった5年前、あるいはそれよりも遥か前から心身を極限にまですり減らして積み重ねられてきた努力は、目指す最高の舞台で正当に報われるべきだと思う。オリンピックやパラリンピックという文脈の中にある大切な機会をやすやすと逃していいはずがない。選手の4年、5年、あるいはそれに留まらない人生の中の年月の意味はとても重い。

しかし、そうであっても、今の状況はそれに比べて軽視されていいものだろうか。夢や希望をもたらすことができるのはスポーツだけだろうか。命をかけているのはトップ・アスリートだけだろうか。世界的なイベントの盛り上がりの中で、忘れてしまっていいのだろうか。自分たちがこんなふうにいいように搾取されていることに無頓着でいていいのだろうか。本当に? そういう気持ちを拭えないまま、今日までずっと来ている。

派手さのない日常の中で、テレビに映らないありふれた景色の中で、美辞麗句や歯の浮くような演出に彩られることのないささやかな営みの積み重ねの中で、たくさんの人たちがそれぞれの時間をかけて地道に、現に今も途切れることなく懸命に紡ぎ上げているものこそが人の暮らしであって、最も大切なものではないか。それが基盤としてしっかりと(完全にではなくとも十分に)回っていて初めて、スポーツがその本来のあるべき姿で意味を持つのではないか。庶民の暮らしのど真ん中を穿つように、そこのけそこのけとばかり強引に通り抜けようとする大名行列然としたオリンピックはいびつに見える。今は、まやかしの向こうに霞むその存在を眺めている。

大言壮語で感動を前面に押し出す単なる大規模なエンターテインメントに堕したこの大会に、本来の意味はまだ残っているのだろうか。あるいはそれが風前の灯だったり、もはや残骸すらないのだとしても、何か少しでも回復できる可能性があるのだとしたら、今こそ感動の押し売りに飲み込まれずにしっかりとその存在意義を見据えなければ、オリンピックやパラリンピックに未来はないのではないか。苦労の末のメダルの価値でさえ、過去に生み出された意義の惰性的な投影に過ぎないものになりかねない。

観戦者も競技者も、大金をかけて作り上げられた豪華な舞台に心地よく酔いしれるだけ酔いしれて、考えることや自覚的になることを放棄していては、簡単に巨大な商業主義のエンターテインメントに食い尽くされ、燃え滓をつかまされるだけに終わる。スポーツの裾野を担う子供たちにスターのようなアスリートの輝かしい姿を見せつけるのではなく、この得難い舞台が健全に次代に引き継がれていく努力をしなければならないのではないか、もしも本当にそれだけの意味や価値があるのだとして。

政治的に利用されてはならない。政治に浸かりきった人たちに主導させてはならない。たとえそれが元競技者であれ、元オリンピアンであれ、金メダリストであれ、決してこの例外にはなり得ない(特に今回、その失敗を嫌というほど目の当たりにしたわけである)。まずはここから始める必要があるのではないか。参加選手には政治的宣伝行動を禁じていながら、運営が政治的な色を帯びていては完全に矛盾しているどころか、より深刻な問題になるはずではないか。楽しみと引き換えに、目を瞑っていていいわけがない。熱に浮かされて、知らずに大切なものを差し出すことをよしとしてはならない。

東京2020開催に至るこれまでのバカらしい経緯をここで改めてさらうつもりはない(不可能でもあるし)が、適当なことばかり言い続けてきた組織委員会、担当大臣、権限を持つあらゆる関係者の1人ひとり、さらに個々のメディアは、自分たちが今まさに何をしているのかを自覚すべきなのではないか。もしもまだ少しでも何かを理解する能力があるのなら。(菅総理の場合、もはやこの限りでない。)

新型コロナウイルス感染症はまだ克服されていない。日本国内に限らず、世界的にもデルタ株の猛威の前に感染者数を下げられていない。今回の五輪開催の数か月も前から、世界で脅威となっていたデルタ株などの変異株に関する未知の危険性が確かに言われていたにも拘らず、大会擁護者らの壊れたレコード発言の向こうに顧みられなかった。もう十分に分かっていたことではあるが、総理や都知事、IOCのトップらは、その利己的な目的の前に、誰かの生活や命などは一切眼中にないのだから。他の政治家や五輪関係者、メディアも、派手なイベントにかまけて、そうした姿勢を追認すること、むしろその歯車になることを本当に是とするのだろうか。

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