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8月に寄せて──2021年、終戦の日

15日、終戦の日である。

毎年、何かしらを思う。本を読む。昼頃に甲子園を観る。雨が止んでいると思う。忙しそうに身支度を整える球児のようすを眺める。サイレンが鳴る。

終戦の日は、戦闘の終わった日とされる。しかし、本当に戦闘が止むのはまだ先のことだ。そこからすべてが平和を取り戻したわけではない。戦闘は終わっても、帰ってこない人がいる。まだ遠い地で帰ることが叶わず、残留を余儀なくされた人、自らの生死さえ伝えられないまま抑留されていた人もいる。戦いが終わらなかった人たちも。永遠に帰り得ない人もいた。──残された人の生活は続く。大人も、子供も。何かに区切りがつけられても、失われたものが回復されないまま前進することを求められ、周りの歩みの速度に置き去りにされていく存在や、打ち捨てられたり、見て見ぬ振りをされたり、疎まれたりした存在があった。傷ついて、不運で、かすかな上昇の契機をつかむ気配さえ見出せず、ただ立ち尽くすしかない人たちがいた。残酷な毎日が過去のものではなく、まだまだ目の前のこととして暮らした人たちがいた。脱落せざるを得ない人もいた。不満を訴える相手も、救いを求める相手もないまま。

終戦の日は、終わった日でもあり、始まった日でもある。いや、終わったのだろうか、始まったのだろうか、刻々と模様の変わる地続きの悲劇は、戦闘が終わったと宣言されたところで終わり得ない。戦争とはなんだろう。少なくとも、戦場で軍人が命を賭して戦うということに留まるものではない。果たしてもう終わったと言えるのか。まだ苦しんでいる人がいる。そして戦争の時代を生きた人たちがいずれいなくなったとしても、あらゆる意味で、日常に刻み込まれた影響が消えることはない。

毎年、8月が来る。6日が来て、9日が来る。そして15日が訪れる。その次の日が来る。その次の日も、次の次の日も。繰り返される営みの中で取り残されるようにしてこぼれていった命がある。そしてその地続きのまま、今日を迎え、今日を終える。また明日が来る。しかしそれも、戦争から地続きの明日である。

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