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五輪・ア・ラ・モード(東京2020)──「中止だ 中止」を添えて(3)

つい先頃、家族の知り合いのお孫さんが新型コロナ感染症で亡くなったそうだ。1人暮らしをされていた、まだとてもお若い方である。

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オリンピックを、大規模な契約という一定の範囲の輪の中に収まるイベントだとイメージしたとき、そのすぐ外の周縁部には、人の暮らしに欠かせない重要分野が存在している。保健医療分野である。そしてそこに無言の圧迫をかけ続けながら、祭典の華やかさの中で勇気と感動を与えると唱えていたのが今回のオリンピックであった。

実際に観戦したかどうかに拘らず、東京2020という存在を見届けた我々が何をしたのかといえば、その契約の輪の中にいるわけでもない、純粋な善意や職業的責任感に徹する存在に無言のうちに頼り切る形で、換言すれば、暗にそれらを利用する形で成立した大会を容認したということである。

スポーツは全ての免罪符になるだろうか。(本来、これはスポーツに限ったことではなく、人の暮らしや命の問題を前にしたときに何事についても問えるが、今は東京2020について言っている。)間接的な犠牲のようなものは、敢えて見ようとしなければ、考えようとしなければ、素知らぬ顔で無視できることにして、あるいは知らなかったことにして済むのだろうか。誰かが膨大な予算(税金である)を組んでお膳立てしてくれた大会を、純粋に楽しんだと言って準備されたものに浴しただけとの姿勢を貫くことはあまりにナイーブだとは言えないだろうか。あまりに。

利用されている側でもあるアスリートは、真剣に尊厳を持って主体的に考えるべきではないか。自分たちの大会を誇り高いもの、将来世代に真っ直ぐに目を見て引き継げるだけの意味あるものとして、しっかりと支えなければならないのではないか。高い価値を維持してつないでいくことは簡単ではない。単に伝統の大きな看板を掲げれば良いのではない。単に財源を割り当てたり、人員を振り分けたりしさえすれば良いものではない。勇気と感動を叫べば良いわけでもない。価値を高く掲げるということは、そこにどんな意味があるのかという未来からの問いにいつでも答えられるよう誠実に考える姿勢と責任が伴う。刹那的な華やかさの中にごまかしてはいけないし、そんな使い捨てのようなことをしていては、自らの成果の価値さえ簡単に損なうことになる。バトンを渡せば、それでつながると考えているのだろうか。自分たちの大切な場が、あからさまに政治に利用されることにも目を向けずに済むのだろうか。しかも利己的な目的のために大きな犠牲を払う決断をした政治に。この実績を作ってしまえば、それごと未来に受け渡すことになる責任を、どれだけ真摯に感じていた人がいるだろう。大切なものを、大切なものとして受け渡す責任があるということ。

今回の大会を主導する側にいた人間が開催の魅力を訴える際、しきりに唱えたのが勇気と感動(あるいは夢と希望といった琴線に働きかけたい漠然とした言葉であるが、以下、表現は「勇気」と「感動」に集約する)であったが、そもそも観る側に向けられた勇気や感動などというものは、スポーツに本来的に備わっている要素ではない。人はあらゆるものに物語を見出し、共感を覚えることで感情の揺れを体験するが、それがいわゆる勇気や感動というようなものであって、アスリートの頑張りだけがこれを特権的に他者に与えられるといった種類のものではない(政府や組織委員会の面々はまるでそうであるかのように誘導したいらしいけれど、ちがう)。そしてこれを売りにすることは、安っぽい宣伝文句を唱えることに過ぎない。それは例えば、映画の宣伝に仰々しくも「全米が泣いた」と叫ぶことで、まだ作品を観てもいない相手に得体の知れない感動という価値観を押し付ける様子に似ている。その文句だけで、まず作品そのものの意味を外から狭め、受け手に対しては、本来、個々の裁量に任されたはずの素朴な感想の余地を無視することになる。

勇気と感動は観る側が勝手に受け止めるから、そんな胡散臭い文句で純粋な努力の成果を彩らなくていい。

スポーツの本来的な価値とは何だろうか。1つは純粋に自分自身が身体を動かすことで得られる体験であり、自らの身体を動かして理想とする動作や技能を習得、実現していく中に素朴な喜びや楽しみを見出すことであって、さまざまな条件下に身を置き、定められたルールの中で、個人的な目標の達成を目指したり、競技者同士で競い合ったり、協力したりしながら、結果的に心身両面での成長が得られるものである。また、1つは、言語や宗教、文化的背景など、あらゆる違いを軽々と超えて他者と時間を共にし、相互に理解、尊重し合うということを実現する強力な基盤となり得るものである。プロ・スポーツやトップ・アスリートが意味を持つのは、その競技や広くスポーツそのものの裾野を広げることに貢献するときであり、翻って、広い裾野の存在が軽視されたとき、その競技あるいはスポーツ一般の最高峰も意味を持ち得ない(このことはスポーツに限らず、文化的活動なども同様である。その意味で、ピアノの発表会を軽視した組織委員会参与による発言は、侮辱的か否かなどという話ではなく、ひたすらに愚かしい発言ということに終始する)。

そして観る側における感動や勇気といった感情の動きは、ひとえに受け止め側の問題であり、スポーツ側から見た場合には単なる副産物に過ぎない。

受け手側に視線を向けると、メディアの無節操さは現在進行形であるが、開幕前のトーンと、開催中の熱狂、そして閉幕後の余韻の中に取り戻しつつある冷静さとの落差の落としどころをどこに見出すのか。体面を保っていたしらふから、突如泥酔に陥り、時間が経ってふいに酔いが覚めて我に返ったときのようなこっぱずかしい気分なんかでいられては堪らない。照れ笑いをされても、苦笑いも返せない。

無節操さはメディアの専売特許ではない。巨大な娯楽を前にしたとき、勇気や感動という宣伝文句に煽られたとき、人は、実際に体に痛みを感じるわけでもなく、具体的に目に見えるわけでもない犠牲や代償に対して簡単に無頓着になれる。そのことを痛感させられるイベントであった。

そして、そのイベントがどれほど素晴らしいものに映っていたとしても、ましてやレジを通過したわけじゃなし、それが自分の財布から1円も減らさずに体験できたことのように感じられていたとしても、実際に莫大な税金が投入されているということは、まさに全員から徴収された資金で支えた大会だということである(当然ながら)。しかも異例の事態の連続と運営側の感覚の杜撰さから当初計画されていた予算はとっくに大股で超過していること。他に振り分けられたはずの資源が失われたこと。今後、不足分がどのように確保されるのかさえ不透明なのではないか。いずれにしてもあらゆる負担は国民のものである。レガシー? オリンピックのために盛大に捻り出された都合のいい理由づけに過ぎない。

いくばくかの財源の一端を提供するのだとして、勇気や感動を与えられるよりも、人の健康や命を守る方に紐付けしたい。

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