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五輪・ア・ラ・モード(東京2020)──「中止だ 中止」を添えて(1)

2021年7月23日、2回めの東京オリンピックが開幕した。以下の文章は1か月ほど前に書き始め、ある程度まで書き終えて、しばらく放置していたもの。事実誤認や単純ミスなど、誤りについては、お知らせ願いたい。

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2021年3月に亡くなった半藤一利さんが「4文字7音」の連呼される状況を警戒すべきだとの主張をされていたことを思う。この「4文字7音」の7音という部分は調べのよさを言う便宜的な表現であり、言われる「4文字7音」とは要するに、特定の目的のために唱えられる扇動的な四字熟語のことと理解できる。今、東京五輪はこの例の最たるものとなってはいないだろうか。


このスガらしき世界──まるで退屈でしかも危険

菅義偉という人の話すことには耳を傾けようという気も起きないが、本人も傾けられようなどとはさらさら思っていないだろう。どの角度から見ても中身のない話をすることに腐心している人としか思われない。ひとたび中身のあることを口にしてしまえば、否応なく論理的な話し合いが開始される端緒を与えかねないと恐れているのか、単に面倒を避けたいだけなのか、敢えて始めから意味のある話をしようとせず、噛み合わない議論を展開することに力を注いでいる。言質を取られたくないという姑息な一念のために繰り返される虚ろな言葉を、こちらは延々と聞かされているわけである。

菅総理誕生からしばらく、国会や問題対応で繰り返されるその空疎な言葉と姿勢の数々に、「この人は総理の器ではない」と評する声が聞かれたが、「総理の器ではない」とは随分な褒め言葉ではないかと思う。総理の手前ほどまでの地位には値する人との評価とも取れるのだから。しかし、官房長官時代の発言を振り返ってみても、まるで買いかぶり過ぎではないか。

学術会議の任命拒否問題の際、川勝平太静岡県知事が菅総理について教養のレベルが知れたと言い、後にこれを事実誤認に基づく発言として陳謝した。知事の発言の意図は、自ら陳謝した際の説明の通りかもしれないが、菅総理には少なからず一定の教養がないんだろうという純粋な1点においてのみ言えば、真っ当な批評と言えるように思う(知事の当初の発言には学歴差別との批判が圧倒的に多く寄せられ、問題となったようであるが、「教養」という言葉の意味の理解が不十分で、思い込みから曲解しているか、さらには学術会議問題の本質的な意味の重大さに無頓着過ぎるのではないか)。教養とは、学歴を言うものでもなければ、学歴があれば教養があるという意味のものでもないし、人格そのものの否定でもない。

学術会議問題では、任命拒否を行うことが可能であるとの論理的な根拠が示されていない。1983年の中曽根康弘首相(当時)らによる国会答弁の内容に現に反する意思決定を行ったわけだから、その説明は必須であるはずにも拘らず。加えて、任命拒否の具体的な理由も示されてはいない。雲をつかむような曖昧模糊とした「総合的、俯瞰的な観点から」という、結局のところ何ら説明になっていないはぐらかしの言葉が出ただけであり、こうしてまた無為に時間が消費されたわけである。

菅総理の判断の中身の良し悪しを論じる以前に、そもそものところで説明責任が果たされていない。問題があると考えるならば、議論を促せばいいし、それが民主主義の基本的な姿勢であろうが、議論はまさに菅総理の最も嫌うところである。こうした過程全体を見渡してみても、教養が感じられないという程度のささやかな批評は少なくとも妥当なものであろう。本来は、その立場に鑑みても遥かに厳しい批判があって然るべきではないだろうか。ともかく川勝知事は発言を撤回されたので、これを評価することはもはやできないが、ここでは、菅総理に教養はないのだろうという素朴な個人の感想を(付け合わせに「見識のなさ」という印象も足しつつ)書き留めておきたい。

菅総理の言葉の多くは時間潰しのために弄される。説得的な根拠や理屈をまるで欠いた砂上の楼閣のような意思決定が積み重ねられ、意思決定者側の思惑だけが次々に既成事実化されていく。その立脚するところを問う声や疑問には一切まともに答えず、そこにまた中身のない言葉だけを連ね、全てを置き去りにして時間をやり過ごす。山積するあらゆる問題を積み残していくから、拾う側はやがて手一杯となり、もはやどれに手を着けたらよいかさえ分からない状態に陥ってしまう。これを戦略だと思っているのかどうかは知らない。

対話する気も議論する気もない。他者の意見など知ったことではないのだろうし、その姿勢を隠そうともしない。そしてあらゆる少数派を、自らの属する多数派とは意見を異にするという1点のみで十把一絡げにし、そうすることで、多様な相手にもたった1つの方策で応じられることにしてこれを実践する。だれが相手であろうと、いかに自らの論点がずれていようと構わず、判で押したような答えを返すことに終始する。そう決めている。この方法を使えば楽であり、都合もよいのだから、やめる理由がない。仮に咎められても話を逸らしさえすればよい。意味を求める側は、無意味さのループに巻き込まれて最終的に必ず時間切れを通告される。この人が軽快に口にする「安全安心」とは、そのような姿勢のもとに繰り出されるものである。

安全安心という4文字の浮遊感──踊れない音楽

菅総理の話の中身といえば、過剰に散りばめられた、既存のもっともらしい定型句や、独創性皆無ながら時間潰しには必ず成功する決まり文句がうるさいが、東京五輪の話となると、ここに燦然たる「安全安心」が加わる。東京五輪を照らすほぼ唯一のトーチとしての役目を担わせるべく掲げられた言葉である。しかし、暇さえあれば口にするその安全安心とはいったい何を指しているのか。それを問う声にまともな答えを返すこともないまま、何かといえば、問答無用とばかり時代劇の印籠よろしくこの言葉を振りかざす。

安全安心という曖昧な言葉は、人を説得するために用いられる性質のものではない。その言葉自体が説明しているのは、危険や不安が潜在的に存在しているという状況認識と、それを反転させたい意図だけである。「安全安心」を唱える人がこの言葉に託している具体的な意味、すなわち、この言葉でどのような状態を言おうとしているのかが明確にされない限り、「安全安心」の実現を検証する術もない。つまり、定義づけのない「安全安心」などというものは測りようがなく、事後、一方的に「安全安心」だったと宣言する余地を残す言葉である。

もっと言えば、安全と安心は同じものではない。安全は一定の指標で客観的に評価することが可能であっても、安心は主観的なものであり、安全でありながら安心ではない状況も、安心でありながら安全ではない状況もありうる。菅首相は安全と安心を同時に実現すると言っていることになるが、この2つを、そのいずれもが遥かに遠い存在となっているパンデミックという深刻な現況下において、論理的な説明もないまま安易に一括りにして語ること自体が無責任と言えるはずだ。しかし、細かな問題を一括りにまとめて遠投することは菅総理の十八番である。

また、安全安心はそれ自体が手段ではない。安全や安心は漫然と生まれたりせず、「安全安心」と評価される状況に至るまでの過程が必ず存在する。安全安心を目標に据えたとき(予め目標は具体的に定義される必要があるが)、実現のための手段が伴わなければ、目指しようがない。そして実現のためには、前提となっている危険と不安について可能な限り正確な把握が必要であり、これは利己的に歪めることのできない科学的な知見に基づいていなければならず、その上でさらに科学的知見に基づいた手段や対策が必要になる。いずれにしても、主観を排した科学的根拠が求められること、かつその利用方法も恣意に陥ることなく、誠実に実践されることが必定であるが、東京五輪の運営に携わる人間は自らほとんどこれを手放している。

具体性を欠いたまま唱えられる「安全安心」がいかに虚しく響くものであるかを、惚けたように口ずさむ本人が知らずにいる。この人の奏でる軽薄さのリズムに乗せた卑怯のメロディは、その安っぽさに油断が許される種類のものではない。まともな説明をしないのは、単にできないからだとか、その程度の能力しかないからだとかいったことではない。話を逸らす、誤魔化す、うやむやにする、語気を強めつつ語尾を曖昧にする、そしらぬ顔で虚言を吐くといった手法に出ているのは、むしろ明かしたくない意図があってのことであり、敢えて説明しないのである。しかし、やり方は稚拙であり、国会の党首討論の場で、訊かれてもいない64年の東京オリンピックの思い出語りを延々としたりする。しかも、あの感動を今の子供たちにもと訴えるその口から出る体験談の薄っぺらさは、薄味にも程がある。与太話で国民と野党に感銘を与え、煙に巻けると考える姿勢自体が絶望的に軽薄であり、64年大会の概説のような無味乾燥な話をしながら自分に酔いしれている姿は底抜けに白々しい。

この辺りまで書いていて、東京都議選が公示され、菅総理の出陣式での発言として「世界が団結をして人類の努力と英知によってこの難局を乗り越える」というものが報じられた(後日、7月8日にも、東京に4度目の緊急事態宣言を発出するとした首相会見で「人類の努力と英知」の文言を繰り返す)。この人の口に上る聞き齧りのような立派らしい文言はどれも実感を伴わず、まるでどこか別の世界の誰かの吹き出しを黙ってそのまま拝借してきたような、実態にそぐわないおかしさをいちいち露呈するが、今日まで自らが最も足蹴にしてきた「英知」などという高尚な言葉を平然と口にできるその厚かましさには、薄ら寒い思いがする。

今や「安全安心」という安直なフレーズは国の内外を問わず五輪関係者がこぞって大合唱中だが、一体どれだけの人がそんなものに踊らされるというのだろうか。無闇に繰り返す決まり文句は、身内の狭い世界では陶酔的な(あるいは自己暗示的な)マントラかもしれないが、こちらには不快に響くだけである。自己陶酔に陥って自分たちで歌い踊る祭典は、地平線の向こうで身銭を切ってやればよい。

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