『教行信証』、「教巻」

『教行信証』の読書会、2回目の資料を載せる。1回目で驚くことに「総序」を終えたので、2回目は「教巻」に。

*前回の内容(総序)
 「総序」は六巻からなる『教行信証』の序文にあたり、前回は( i )弥陀の誓願が私たち衆生の無明を破るものであること、( ii )その弥陀の誓願が活きて働くには王舎城の悲劇を 俟たねばならなかったこと、( iii )名号は悪を転じて徳をなすものであり、信心は疑心を 消し去り悟りを与えるものであること、の部分までを細かく見て確認した。その後には、 ( iv )浄土門が最勝の直道であってその行(念仏)に奉えその信を崇めることの重要性が説かれ、また( v )人間に生まれ仏法を聞き得ることの有り難さとそれへの専心が勧められる。そして最後に、( vi )親鸞が浄土門に出遇ったことの喜びと先達への感謝が記される。

*前回の内容への感想
 浄土門は他力の門である。それは、自ら行じ自ら証しすることのできない凡夫には、ただただ弥陀の大悲の願船に乗じるより外ないことを示す。これは( i )や( iii )や( iv ) の内容であろう。これは浄土教の世界観として重要であり納得できると同時に、ややもすれ ば宗教的なものとして私たち現代人には忌避されかねない。思うに、親鸞その人が生きて体 験していた個人世界・歴史世界が垣間見える、( ii )や( v )や( vi )に想いを馳せると、私たちにもまた分かる仕方で理解の通路が拓けてくるのではないかと思う。すなわち、 親鸞がそれによって生かされていた先達からの働きに感謝していることや、生まれ、聞くということの受動的在り方、さらには歴史的出来事を自己存在の構成契機として受け止める在り方、このようなことは私たちにも、私たちの仕方で理解できるものだと思う。それと同時に、このような側面をも含めて他力門を理解しなければ、浄土門も片手落ちになるだろう。
 ところで、ぼくや日向子さんが親鸞さんから受け取っているものは、何なのだろうか。あるいは親鸞さんはぼくたちに何を、伝え渡そうとしているのだろうか。

*コラム:親鸞さんと先達(法然さん)
  たとひ法然聖人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらう。そのゆへは、自余の行もはげみて仏になるべかりける身が、念仏をまふして地獄にもおちてさふらはばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔もさふらはめ。いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。 仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。善導の御釈まこ とならば、法然のおほせそらごとならんや。 (『歎異抄』「第二条」)


*教巻(「顕浄土真実教文類 一」) その一
謹んで浄土真宗を按ずるに、二種の廻向あり。一つには往相、二つには還相なり。往 相の廻向について真実の教行信証あり。

・浄土真宗:『入門』77 ページに「俗に、誤り解されているような、親鸞を開祖とする宗派 の名を言ったものではない」とあるように、今現在用いられる「浄土真宗」と いう法人名とは区別する必要があるだろう。とはいえ今は、浄土真実について の重要な教えぐらいで止めよう。

・廻向:大乗仏教一般では、自らの善行の功徳を他に廻らし向けること。その根本には「因 果応報・善因善果・悪因悪果」の考えがあり、自らの善行の功徳でもって他の衆生 を渡すという大乗の菩薩思想を支える中心的な教え。しかし、親鸞の自己認識・凡 夫認識は「曾無一善」や「一生造悪」に窮まる。そのような凡夫にとって廻向でき るものなど何も無く、凡夫はただただ弥陀が廻向したものを受け取るだけである。 詳しくは『入門』78-79 ページ。

・往相還相:浄土に往生していく相(すがた)と、浄土から還って衆生を済度していく相(す がた)。釈迦の梵天勧請(ぼんてんかんじょう)が象徴的であるが、解脱と衆 生済度という仏教の核心部分を表わすと言っても過言ではないと思う。

*往還廻向について
 『教行信証』「行巻」末尾の「正信偈」には「往還廻向由他力、正定之因唯信心」とある。 これは「往還廻向は他力により、正定の因はただ信心なり」と読むが、訳せば「往相も還相 も、その廻向は他力に依っており、浄土へ往生するための因はただただ信心だけである」と いう意味になる。信心もまた弥陀によって回施されたものであるが、浄土への往生は弥陀の 誓願への信心を獲得することにある。この信心獲得(しんじんぎゃくとく)を本とするとこ ろに、すなわち信心正因、信心為本というところに要がある。では、信心とはどういうもの か。それはこの先、信巻を俟たなければならない。
 さて往相と還相が他力に「由る」という親鸞の主張から力点を少しズラし、往相還相それ 自体の意味に焦点を当てたい。すこし人の言葉を借りよう。

釈迦のいた時代、釈迦よりも高い悟りに至ったものはいたのかも知れない。けれども彼 らは戻って来なかった。釈迦の偉大な点は、何よりも、彼が戻ってきたところにある。(2019 年度前期集中講義、下田正弘先生の発言より)

のみならず彼の組織せる神秘道が徹底せる実践道であった事実が特に注意されねばな らない。換言すれば、それは転変無常の感性的世界から永劫不変の超越界へ昇り行く向 上道(アナバシス)の極致を以て終局に達するのでなく、一旦この超越道を登りつめた 後、更に反転して向下の道(カタバシス)を辿り、再び現象界に還り来って万人のため に奉仕することによってはじめて完結するのである。(井筒俊彦、『神秘哲学』p.74)

 一つ目の引用は 2019 年の前期集中講義での下田先生の言葉である。もう少し敷衍すると、 瞑想の階梯を昇り詰めた人は当時のインドで数多く釈迦もその一人であった。しかし釈迦 が他の瞑想の達人と一線を画したこと、それは瞑想の階梯を今度は降り来て、人々に交わり 法を説いたことであった。
 法を説き人を渡す、これを初転法輪というが、ここに仏教の端緒は拓けた。また大乗の理 想像である菩薩もこのような姿に外ならない。
 井筒からの引用冒頭の彼はプラトンのこと。井筒は前期から後期まで一貫して往相即還 相ということを主張する。彼の言葉を借りれば、より一層ぼくたちに近い言葉で往相と還相 が見えてくるだろう。すなわち、往相とは、「転変無常の感性的世界から永劫不変の超越界 へ昇り行く向上道」である。還相とは、「超越道を登りつめた後、更に反転して向下の道(カ タバシス)を辿り、再び現象界に還り来って万人のために奉仕すること」である。ここで言 われる「超越界」がどういうものか、種々の疑問が湧く。けれども今は、無常のこの世を去 って常住の土地を目指す「厭離穢土、欣求浄土」とその方向を重ね合わせつつ、少しでも往 相と還相の理解を広げるのが重要だと思う。
 ところで往相は還相を以て完成するが、往相無くして還相は無い。まずぼくたちは、親鸞 の言葉を聞いて聞いて聞き尽くし、往相の路を往き窮めるしかない。

*コラム:蓮如さん、『御文章』「三帖目、第八通」

阿弥陀如来の因中に於て、我等凡夫の往生の行を定めたまふ時、凡夫の為す所の廻向は 自力なるが故に成就し難きによりて、阿弥陀如来の凡夫の為に御身労ありて、此の廻向 を我等に与へんが為に、廻向成就したまひて、一念「南無」と帰命するところにて、此 の廻向を我等凡夫に与へましますなり。故に、凡夫の方より為さぬ廻向なるが故に、是 をもって如来の廻向をば、行者の方よりは「不廻向」とは申すなり。

*教巻(「顕浄土真実教文類 一」) その二

   それ真実の教を顕さば、則ち大無量寿経これなり。
 この教の大意は、弥陀誓を超発して、広く法蔵を開きて、凡小を哀みて選びて功徳 の宝を施することを致す。釈迦世に出興して、道教を光闡して、羣萌を拯ひ恵むに真 実の利を以てせむと欲すなり。
 ここを以て、如来の本願を説きて経の宗致とす。即ち仏の名号を以て経の体とする なり。

・超発:「発」は「発心」などの「発」で「おこす」の意味。「超」は「こえる」という意味 だが、ここでは弥陀の誓願が他の諸仏の誓願を超えていることを指すらしい。

・法蔵:法の蔵。ここでは弥陀因位の修行による功徳の一切を指す。

・出興:仏がこの世に出現すること。世に出て世を興すということか。

・道教:聖道門一代の教え。

・真実の利:ここでは浄土の教え、弥陀の誓願を指す。

*傍依一代経、総依三経、別依大経
仏教の諸宗派は、所依(依る所、釈迦の本意が説かれた)の経典を何にするかによって分 かれてくる。禅宗のみ特別でそういう経典は持たない。いま真宗に目を向ければ、所依の経 典は、俗に「浄土三部経」と言われる『大無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』がそれであ る。これを正依三経(総依三経)という。しかし、他の経典を排するわけでなく、それらを 全て方便と見るのであり、これを傍依一代経という。浄土三部経の中でまた特別に重視され るのは『大無量寿経』である。これを別依大経という。同じ法然門下でも、浄土宗鎮西派は 総依三経、別依観経(観無量寿経)で、この所依をどうするかで同じ宗門でも派が分かれて くる。仔細はこれ以上踏み込まないが、いま親鸞が真実の教を大無量寿経としたことに注目 しておこう。

*私訳
 真実の教を顕すと、それは『大無量寿経』である。
 この『大無量寿経』の大意を示すと後のようである。すなわち、弥陀が勝れた誓をお発こ しになり、自ら積まれた功徳の蔵元をお開きになって、凡夫を哀れんで名号という宝をお与 えになられた。その後、釈迦が世に出られて、聖道門一代の教を広められたが、これは群萌を救済するのに弥陀の本願を恵もうとされてのことであった、と。
 以上から、如来の本願を説くことがこの経の重要な部分であって、仏の名号がこの経の本質をなすものである。

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