『教行信証』「総序」(1)

 この土曜から『教行信証』を知り合いと一緒に読む。彼女は道を探し、坐禅もする。そんな彼女の求道(道を求めること)の少しでも資けとなればと思い、提案した。思うに『教行信証』には独り沈潜して行くことは多けれど、人と一緒に読むのは初めてで、言葉にし難い気持ちが燻る。彼女に『教行信証』はどう響くのだろうか。以下は読書会の資料の一部で、これから続きを載せていきたい。

<本文>
竊(ひそか)に以(おもん)みれば、難思の弘誓(ぐぜい)は難度海を度する大船、無礙の光明は無明の闇を破する慧日なり。

<語注>
・竊:「窃」の字に同じ。「盗む」の意味の他、「ひそかに」、「人知れず」の意味がある。今回は「今ちょっと立ち止まって」ほどの意が適切か。

・難思:「思い難し」だから、「思うこともできない、思慮分別を越えた」の意味。

・弘誓:「四弘誓願文」などの「弘誓」。「弘誓」は「ひろい誓」で一般に一切衆生の済度を意味する。ここでは特に阿弥陀仏の四十八の誓願を指す。

・難度海:「難度の海」。「度」は「渡」に同じ。よって「渡り難い海」、「渡ることの難しい海」という意味。これは生きることの大変さを示す比喩。一般に仏教では、生きることには四苦八苦が纏綿する、と説かれる。

・無礙の光明:「礙」は「妨げるもの」。よって「無礙の光明」で「何ものも妨げることのない光明」の意味。「光明」と言われるのは、「弘誓」の言い換えであるが、「無明」に対応して用いられることで、色彩感が豊かになっている。しかしまた単に色彩感を強めるメタファーに過ぎないというわけでもないだろう。たとえば「正信偈」には「光明名号顕因縁」とある。また四十八願中の第十二願には、もし仏になったとき数限りない仏国土を光明で照らすことができなければ、仏の位を捨てる、とある。これを踏まえ、親鸞は阿弥陀仏を不可思議光如来、浄土を無量光明土と捉える。

・無明の闇:「無明」は「明るさが無いこと」。一般に仏教で「無明」は、根本的な昏さを指す。「根本的な昏さ」とは、それによって四苦八苦が苦として生じてくる根本(根のもと)を指す。それは言い換えれば自分たちの我執的な在り方をも指す。生きることは苦しい。その苦しみを苦しいものとしている原因は、自分たちの昏さにある。この昏さとは、生死への無知とも、自分自身への無知ともされる。

・慧日:「慧」は、事の道理を見抜く力のこと。

<私訳>
 いま立ち止まって考えてみると、私たちには思いも及ばない弥陀の誓は、この苦しみに満ちた海を渡っていく大きな船であって、どこまでも遍く照らす弥陀の光明は、私たちの昏さを破って私たちを照らしてくださる太陽であった。

<私釈>
 上で見てきたように、生きることは苦しみに満ちている。四苦八苦を展げれば、生老病死の苦しみ、愛する者との別れの苦しみ、憎む者との出会いの苦しみ、求めても得れない苦しみ。この苦しみに満ちた生を生きること、それは大洋のど真ん中に独り投げ出されつつ溺れないように必死に藻掻きながら泳ぐに等しい。ところで、私たちは何処に向かって泳ぐのか。また何に拠って泳ぐのか。親鸞が言う「難度海を度する大船」、それはこのような苦しみに満ちた人生の最中を生き抜くことを可能にするものであろう。それを彼は、「難思の弘誓」に見る。より正確に言えば、親鸞にとって、弥陀が誓った願いはそのようなものとして働いている。
 ところで苦しみは、私たちが何かを所有することによる。何かを所有するがために、所有物が棄損されることを憂え、現に壊されれば嘆き、また奪われでもしたら憤怒する。また私たちは私たち自身をも所有する。この私たちが私たちを掴んで離さない我執的な在り方、これが「無明」であろう。私たちには、この昏さの全貌を知る術もない。かろうじて、生きることの苦しさからその存在を推し量れるばかりである。ところで弥陀の光は驚くべき哉や、私たちの昏さをも光照らし給うた。親鸞にとって弥陀や浄土、名号の持つ意味は、このような現実に生きる苦しみと即応するところで捉えられていた。
 ぼくたちが生きるこの現実もまた苦しい。この難度海を渡るぼくらの大船を、親鸞の言葉を手掛かりに見つけに行くこと、それがこの読書会の意味だと思う。

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