桜の静かな狂気の中を
今日は次女の38回目の誕生日。
もう何歳になったのかも怪しくなってきて、指折り数えた。
桜の季節の誕生日と紅葉の季節の命日、年に2回はどんなに忙しくてもnoteに何か書こうと決めている。
娘のことを思い出さない日はない。
いつまでも慣れることのないこの悲しみ。
誕生日には彼女が生まれた病院の辺りをうろついて、なぜ、こんなに早く逝ってしまったのかと同じ質問を繰り返すのが定例となってしまった。
今年も咲き誇る桜
それが余計に胸を締め付ける。
あの子が生まれた日も桜が満開だった。
美しすぎるからか、
桜を見ているとその内側に秘めた静かな狂気を感じ取ることがある。
静かに静かに、
笑っているのか泣いているのか分からない…
もしかしたら,狂っている?
能面に似ているかも知れない。
川縁を歩きながらそんな感覚に見舞われた。
時の流れは早く、日常は私と言う存在の側面を滑るように過ぎて行く。
私も何喰わない顔でやり過ごす。
次女の婿は再婚し、この春、家を買った。
孫のKANAもママと呼んで、懐いているようだ。
幸いなことに今のところ、2人はまだ私たちにKANAを会わせてくれる。
婿の再婚など受け入れがたい現実であったが、観念した。
話を聞いたときは、
たった4年で夫と娘に忘れ去られるのか、
次女の死は犬死かと悲しみにくれた。
私は婿とKANAにずっと次女のことを思って泣き続けるような生活をしてほしいとどこかで願っていたのかもしれない。
あまりに身勝手だなと気がついた。
この世で生きる限り、身体を持たない者には何も発言する権利はない。
この世では「死んだら負け」なのだ。
ならば、自分はどうなのよ?と問うてみた。
娘を亡くしたという立ち位置にいながら、
日々冒険を繰り返し、人生を味わい尽くしていることは、ある意味、裏切りなのかもしれない。
子供を亡くした母は気が狂ったようにその後の人生を送るはずだという刷り込みに対して。
悲しみの湖を内部に抱えたままでも、時空を越えることはできる。
そう決意した後に、Anneから四国旅行の誘いがあった。
そして、この機にそれをマガジンにしてみた。
私は還る日まで、人生を生き尽くす。
今年も大好きだったいなり寿司を作ってお供えした。
亡くなる1週間前に実家に帰って来た時、いなり寿司が食べたいと言ってたけど、カレーに変更してもらった。
それがとても心残りだから。
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