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311、あの時 ”「何も出来なかった」ことに痛みを抱えた大学生" だったみなさんへ

はじめに

「あれから10年」
わかってはいますが、今年に入ってからこのフレーズが目に、耳に否が応でも入ってきて、居心地の悪さを感じるというか、何かから突き上げられるような感覚がありました。
同時に、僕だからこそ届けられるものもあるはず、つまり、311当時大学生で、「何も出来なかった」ことに痛みを抱えている人が、もしかしたらいるのかも知れない、
そんな想いからこのnoteを書いています。

簡単に自分のことを書いておきます

311直後から現地に復興ボランティアとして何度か足を運び、その先で岩手県大槌町の復興支援事業への参画をお声がけいただいたのを期に、当時の勤務先を辞め、現地に住まいを移して活動。
その後帰京し、現在は ”動機ある若者を地域とともに育む” NPO の代表をしています。

阪神淡路大震災が起きた時、僕はあまりに無知で無力な大学生だった

阪神淡路大震災が発生した日、僕は2回目の大学3年生でした。
大学入学後に妹を先天性の病気で亡くし、「難病の妹を持つ不遇な兄」というアイデンティティで進学先を決めた僕は、いまだにその次のアイデンティティを確立できない「アイデンティティクライシス」の状態でした。

そんなさなかの震災。

テレビやラジオで繰り返し流される映像や被災者の悲痛な声。

「お前はこの有様を見ても何もしようとしないのか?」

無知で無力な僕に、毎日そう言われ続けている気がしました。

一方、「物見遊山的な来訪者」や「足手まといとなりかねないボランティア」を憂う情報を見つけ、

「俯瞰で見れば、寧ろ自分の様な『何も持たない者』は現場には行かないほうがいいんだ」

と自分に言い聞かせていました。
でも、その「とげ」はずっと刺さったままでした。
そしてその半年後、大学も中退することとなります。
一番大きな理由は上に述べたアイデンティティクライシスに起因するものですが、今にして思うと、震災時に味わった無力感やその時ささった「とげ」も影響していたのかも知れません。

利他に生きる上司との出会い

大学中退後は、一言でいうと泥水を啜るようなキャリアを歩むんですが、ようやくたどり着いた勤務先である上司と運命的な出会いをします。
その方はかつて海外青年協力隊にも参加された経験のある「利他」に生きる方でした。

当時の私は数十人のチームのリーダーを任されてはいたものの、未だ「何のために生きるのか」という人生からの問いに答えられず、働き方も独善的で、傲慢で、無作法でした。

ある時、彼はそんな僕を真っ直ぐみて、
「いいものを持っているのに、このままじゃ周りも自分も傷つく。相手を想いなさい。そのための技術も学びなさい」と、ある研修のパンフレットを渡してくれました。
それは「傾聴」のスキルを学ぶ研修でした。28歳の時でした。

大学を辞めて以来、初めて「体系的に学ぶ」ことに興奮を覚えたのと同時に、「なんでこんな大事なことを今まで誰も教えてくれなかったんだろうか」という恨み言も口から出ました。

その後、のめり込むようにカウンセリングやコーチング等を学び、またそれらを勤務先やプライベートでも実践する中で、他者に「寄り添う」、他者のために「祈る」、それが自らの幸福にもつながるということにも気づきはじめました。

そしてようやく「難病の妹を持つ不遇な兄」という、他人がつくった足場に立つアイデンティティから、「自らを含む全体の幸福に貢献する」という、他者の幸福を自らの喜びとするアイデンティティの獲得、言い換えれば「何のために生きるのか」、その答えが見つかったようにも思えたのでした。
その後、情報通信企業に転職。そこでは、プロジェクト・マネジメント、分析や企画、そして、あの時の上司が僕にしてくれたこと、つまり、人材育成の手法についても学びを深めていきました。

311

「利他」に生きることを気づかせていただいてから10年。
2011年3月11日がやってきます。

数日間の喪失感や混乱、うつ状態を経て、16年前の「お前はこの有様を見ても何もしようとしないのか?」の問いが首をもたげてきました。

「否」

ようやく、そう答えることが出来ました。

ネットで「情報ボランティア」の募集を見つけ、4月7日には宮城県災害ボランティアセンターに入り、情報の収集・整理・発信、刻々と変わる運用をドキュメンテーションする作業等に関わらせていただきました。

そしてある日、同じくボランティアに携わる人からこう聞かれました。

「アツシさん、これから岩手県の大槌町で復興支援事業が始まるんだけど、プロジェクトマネジメントが出来て、採用や人材育成が出来て、カウンセリング等の専門知識も持っている、なんてヒトいない?」

随分難易度の高い条件です。

「そんな人いるかな・・」と何人かの顔を思い浮かべては首を横に振り、最後に浮かべた顔が自分でした。

当時まだ婚約者だった現在の妻を東京に残して一年弱、仮設住宅にお住まいの方の見守りをする事業の立ち上げ(採用や研修)、各種業務フローの作成、そして何より、現地メンバーによる「事務局体制づくり」、つまり「僕がいなくても回る仕組みづくり」を担わせていただきました。

勿論、すべてが上手くいったわけでは有りません。思い残したことも数多くあります。更には、多くの問いも持ち帰ることになりました。現在はその問いへの応答、もしくは次の世代への贈与として、自身の運営するNPOで様々な事業を行っています。
まだまだ道半ばです。

それでも今は、阪神淡路大震災の際に感じた「何も出来なかった」ことの痛みは感じてはいません。それは自身が復興支援に関わることで「とげ」が抜けた、というよりも、誰しもが、どこかで「何も出来なかった」ことに痛みを抱えていることに気づいたからかも知れません。

さいごに

311当時大学生で、「何も出来なかった」ことに痛みを抱えている人がもしいたら、それは無理やり忘れようとしたり、なかったことにする必要は無いと思います。

日本に暮らす限り、いや、世界を見渡せば、みなさんがあの日から今に至るまでに身につけたありとあらゆるスキルや知識、そして経験が必要なときが来るのは避けられないでしょう。
もしくは、既に現下のコロナ禍で既にその力を発揮している方も少なくないかも知れません。

そしてそこで行われる「贈与」は、あの時手を差し伸べることの出来なかった、「自分だったかも知れない」誰かへも届くでしょう。

そんな、自責の念や歯がゆさを、いつか誰かへの贈与として社会に返礼していく、それが世界を動かしているような気すらします。
このnoteが、決して多数ではないけれども、必要な人に届いてくれたら嬉しいです。

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