アルファベットも全部言えなかった私が英語で仕事ができるようになるまで②高校留学

私は、引っ越しの関係もあり、私立の英語教育に力を入れている高校を受験した。受験科目では、普通の試験科目に加えて、英語の独自筆記と英語面接があった。一般の他に、帰国子女枠の受験もあり、入学すると周りには帰国子女も多くいた。

英語に力を入れる高校

高校1年の座席表では、隣の席が帰国子女、後ろの席が留学帰りの人であった。さらに、英語の教師は海外経験のある学生をひいきするような人だった。私は今まで自分の努力でここまできて、学年トップの成績だったのに、親の都合で海外にいた帰国子女には到底敵わず、ずるい、納得いかないと思った。英語を強化している学校というだけあって、毎朝単語テストがあり、英語の授業も3種類あった。リーディングのテストの問題は全て英語で書かれており、回答も論述形式のテストであった。最初は戸惑ったが、高校生の適応力というものか、徐々に慣れていき、いつのまにか英語力は上がったいったと思う。

留学を決意する

それでも海外経験のある人には勝てなかった。それなら自分も海外に行けば良いのだという開き直ったマインドになり、私は高校留学を決意する。ちょうど通っていた高校が留学団体と提携していたこともあり、高校3年に出発するべく、高校2年になると留学の準備を始めた。そして試験を受けて、1年の準備を経てアメリカへと飛び立った。

高校を1年休学する形で、アメリカの派遣先の高校に通うことになる。クラスメイトと一緒に卒業することを代償にして、また、親に大金をかけてもらっての留学だということを十二分に自覚していたため、英語が話せるようになるまで日本に帰れないという覚悟を決めた。

アメリカでの生活

現地についた初めは、英語はほとんど全く話せなかった。高校での英語の成績は割と良かったとはいえ、やはりネイティブの中でやっていくには、ほとんど通用しなかった。現地の普通の公立高校に現地のアメリカ人の高校生と同じ条件で授業を受けるのだが、もちろん全然分からなかったので、一生懸命勉強した。授業には電子辞書を持ち込み、放課後も家で教科書を開いては辞書を引いて単語を調べる毎日だった。

その高校で留学生は自分だけで、アジア人さえ自分とあともう1人くらいのレベルで、知ってる人はいないため、人間関係を自分でゼロから作っていかなければいけない。ホームステイでの生活なので、ホストファミリーともうまくやっていかなければいけないのだが、言葉の壁は想像以上に大きく、結構試練だったと思う。

異なる文化の中にたった1人放り込まれて(自分で望んでやっていることだが)現地に適応するのは体力を消費する。言語に対するモチベーションを保つのもなかなか大変だった。毎日自分なりに必死でやっているつもりだったが、英語の発音も良くないし、一生懸命話しても、何言ってるか分からないなど怪訝な顔をされて恥ずかしい思いもしたし、落ち込むこともあった。そんな状態で時間が過ぎていき、最初の半年はほとんど喋れなかった。

半年の時点での転機

半年経った頃、私の意識を大きく変えるきっかけとなる出来事が起こる。留学団体では、違う国から来ている留学生たちと交流する機会がたびたびあったのだが、来てすぐの頃に会った、同じくらい話せなかったエジプト人の女の子が、半年ぶりに会ったら、ペラペラになっていたのだ。前会った時は、同じくらいのレベルでで安心していたため、自分が全然できていないことが浮き彫りになり、かなりショックを受けたと同時に大きな焦りを感じた。このままではいけないと思い、自分の生活をもう一度見直した。残り半年しかない留学生活で、なんとか英語のレベルを上げて、悔いのないように過ごさなければならないと、自分の中の認識が変わり、覚悟が決まった瞬間だった。

残りの時間を最大限に活かべく、私は自分ルールを設定して、それに則って行動することにした。自分ルールは大きく分けて3つある。

①毎日30分喋り続ける

登下校は車で30分かかり、毎日ホストファミリーに送迎してもらっていた。学校からの帰り道、ホストマザーは運転しながら、どんな1日だったか聞いてくれていた。それまでは上手く話せないから、普通だよと言って会話が終わっていたところを、伝わらなくても、会話が続かなくても絶対に喋る、しゃべり続けるというルールを決めた。学校であったことや日本の話など、何かしらの話題をあらかじめ考えて用意しておいた。もうこの頃は恥じらいとか言っている場合ではなかった。必死だったが、その必死さによって自分の殻を破ることができた。伝わらなくても、間違ったように伝わったこともあったが、この時のメンタルはもうそんなことではへこたれなかった。

②英語で日記を書く

私は英語で日記を書くようになった。毎日の出来事や考えること、こんなこと周り教えてあげたいなど、愚痴なんかも含めて頭に浮かんだことは、なんでも英語でノートに書き込んでいった。授業中も休み時間も暇な時間はとにかく書くようにしていた。あらかじめ書いて英文を作っておけば、聞かれた時にすぐ答えられるし、書きたいことに知らない単語やフレーズがあると、どういう表現をするのか、都度調べるようにした。そのおかげで知っている単語やフレーズの種類も増え、いろんな表現やフレーズがすぐに出てくるようになったのだ。面白いほどに頭がどんどん英語に切り替わっていって、いつのまにか頭の中の独り言も英語に切り替わっていった。この頃くらいから英語の夢も見始めるようになったと思う。毎日の日記でアウトプットが鍛えられたのだった。

③Keep saying yes ルール

留学生活を送っていると、いろんなチャンスがある。その中にはアメフトの試合を見に行こうとか、車のショーイベントがあるから行こうとか、メキシコ料理を食べに行こうとか、映画を見に行こうとか、あまり興味がないことへのお誘いもあるのだ。私は日本にいたら、興味がないことは断りがちなのだが、ここはアメリカで、きっと何をやるにも経験になるしきっかけになるはず、とお誘いに対して前向きに反応することを意識する様にした。あまり乗り気ではなくても誘われたらyes と答えるルールである。そうすることであらゆるチャンスを逃さないようにしたのだ。

1番の良い例は、運動神経が良くない、走るのも遅い私が陸上部に入ったことだ。長距離を走ることができないから短距離走を選んだが、遅いのでいつもビリだった。しかし部活を通した友達ができたし、顧問の先生も親切だった。放課後や週末にユニフォームを着てバスに乗ってチームメイトとしゃべりながら他校で試合をするのは充実していて、とても楽しかった。顧問の先生が中学校で社会の先生をしていたため、そのクラスで日本についてプレゼンしてほしいとの話ももらった。そのクラスの子たちとも交流したりできた。実際に陸上をすることだけでなく、それを上回るほどたくさんのことを得ることができたのだった。いろんな経験をすれば、それだけ日記に書くことは増えるし、友達と話そうとするほどに英語力は高まっていったと思う。

このようにして、帰国する頃にはネイティブの英語での会話を聞き取れるようになり、頑張ったら自分の思っていることを話せるようになり、少しずつ会話が楽しめるようになっていったのだった。

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