-参拝について-
本日の画像は、近隣の神社の傍らにある高台からの撮影です。
普段は、そこの神社に参拝をするくらいなのですが、トイレに寄りたかったので、傍らの高台にも立ち寄りました。
そこの神社には、裏手に別な神を祀る社もあり、そこにも頭を下げに参りました。
そして、少しゆっくり回っていたら、パワースポット、という立て看板を発見。
ここは、パワースポットだったのか。
どうりで、特に冬場に来ると、ひんやりとした磁場を感じるわけです。
冬場には、ほんとうに心が澄み渡るような、ひんやりとした空気を感じることができる神社です。
特に、神社の名称は明かしませんが、近隣の方なら、多少はこの風景から、わかるものかな、とも思います。
ちょうど、そういう物語にもご縁があったり、思いを馳せて参りました。
わたしは、元々は、あまり願掛けなどをするタイプではなくて、特に自分のわたくしごとなら、神に祈るより、手足を動かして、労働しよう、というスタンスなのですが。
あるとき、はたと気がついたのです。
あの人の力になりたい、とか、あの人の健康を願いたい、とか、そういうことを思うとき、人はあまりにも無力なのだな、と感じました。
いつでも一緒に居られるわけではない、誰かの幸せを願うとき、自分にできることもありますが、そこにさえ、限界はあります。
そう感じたときから、わたしは、時折、神社に参拝をするようになり、周りの人たちのご多幸を祈るようになりました。
それは、わたし個人の、無力感もさることながら、わたし自身の頑張りが効かないとき、誰かのことを思う気持ちに助けてもらえる、そういう感覚もあるのは、事実です。
自分のため、だけでも、誰かのため、だけでも、あまりバランスはよくないし、そのどちらも願えるとよいな、と感じます。
自分の頑張りだけでどうにかなる、というのも、それはそれで驕りなのかな、という気持ちもあるのかもしれません。
こういう言葉、そのものが、胡散くさい綺麗事のように思われるかも、わかりません。
それなら、またわたしは、筆を持とうと思います。
日々を過ごしておりますと、いやな気持ちにさせられることも少なくありません。
そのひとつひとつに反論するのもばかげておりますし、きちんと筆を持ち続けることで伝えられることがあれば、これ幸いに思います。
それでは、また星の見える夜に。
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