-正しさについて-
世の中に正解はない、とか、人生に正解はない、とか言う人がいる。
絶対的な正しさはない、という人もいる。
例えば、考えてみてほしい。
社会というのは、1+1=2である、1の次は2であり、2の次は3である、1を漢字で書くと一であり、読み方は「いち」である。
そういうルールを正しさとして扱うように、わたしたちは教育されているし、社会もその前提の元にデザインされている。
なので、1+1=3である、と主張しても、極めて論理的な整合性のある理論を展開しないと、あまり効果はないことが多い。
このことから、世の中には、そのルールに基づいて、きちんと正解があるケースは多いし、絶対的な正しさというものが存在しているケースも多い。
また、絶対的な正しさ、というワードが強烈すぎるのであれば、1+1=3である、という主張よりも、1+1=2である、という主張の方が、相対的に、正しさである、と感じる人が多かろうと思う。
なぜ、今夜のわたしが、そこまで正しさにこだわるのか。
それは、もう前々から考えていることを、今夜、言語化しようとしてるだけである。
わたしは、人から後ろ指をさされることが多いし、社会的な圧力を受けることも少なくない。
そういうとき、我が身を守るため、大切な人を守るためには、正しさが必要である、と感じている。
きちんと、論理的な考えに基づいて、日々を過ごして、何事かを志しておれば、自分ひとりではどうにもならないときも、或いは、どこかの誰かが助けてくれるかもしれないし、社会が守ってくれるかもしれない。
仮に、社会が守ってくれなくても、その社会の一員である、どこかの誰かが、わたしのために、わたしたちのために、陰ながら動いてくれるかもしれないし、尽力してくれるかもしれない。
そのための、ある種の担保として、正しさ、というの役に立つのではないか、とわたしは思っております。
わたしは、世の中には、善人ばかりではないことは、ある程度は理解しているつもりであるし、心ない中傷は朝から晩まで浴び続けているので、憎しみや怒りに満ちた人間が少なくないことも心得ているつもりである。
そして、だからこそ、そのなかに居て、心ある誰かの支援を受けやすいスタンスや、スタイルとして、社会的な正しさ、を大事に思う夜があります。
あなたは、正しくないですよ。
そういう向きも、あろうかと思う。
確かに、わたしは、沢山の正しくないことをしていることは、自覚している。
ただ、最低限の担保としての、正しさである。
この件に関しては、トーマス氏は正しくないけど、こちらの件に関しては、トーマス氏の正しさは、疑いようもない。
その、正しさのかけらもない人間では、ちょっと応援しづらいであろうし、支援などしようもない、ということになろうかと思う。
なので、わたしは、こうして主張する。
あなたの正しさは、どこにありますか。
気難しい男だと、思われるかもしれない。
だけど、警察は正しくない人間では少し守りにくいし、また仮に訴訟などが起きたとき、正しさのかけらもない人間を擁護することも、また難しいのでは、と思う。
だから、わたしは、もしかしたら、大切に思うあなたや、大事にしている君の、気分を害する記事かもしれないけど、社会的な制圧を、わたしの人格や人生に、わたしの大切に思う君やあなたの傍らに、必要以上の手出しをさせないため、この記事を書いている。
この記事を書くことで生じるデメリットに関しては、或いは、きちんと理解してくれるかもしれない誰かのやさしさや理解として、わたしの日々のなかでバランスを取ることができたなら、と思う。
それでは、長くなりました。
また、月の綺麗な夜に。
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